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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
終章 あの日の約束

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第59話


「ねえ、ノクスさん。貴方はこの子を()()()させることができるかしら」


 セレーネがノクスに向き直る。目の前にいるのは別の人間だと分かってはいても、心は風に揺られる草のように騒めいていた。


 目醒めさせる、というのは、新しい(からだ)で活動させるということだろうか。──でも、どうやって?


「……どうすれば、いいのですか?」


「あの子の魂に“生きたい”という強い思いがあるならば──或いは、蝶となってどこかを彷徨っているあの子の魂に語りかけ、ここに呼び寄せることができれば……きっと」


 ノクスは光満ち溢れるこの場所を見渡してから、左胸に手を当てた。ここにはハインブルグ家の者たちの魂が蝶となって揺蕩っている。彼女もこの中のどこかを飛んでいるのだろうか。


「────イスカ」


 呼んだところで返事が返ってこないのは分かっていた。彼女は雷が鳴っていた日にクローゼットの中に隠れていたような人だ。そう簡単に出てきてはくれないだろう。


 それでもノクスが彼女の名を呼び続けていると、どこからかやってきた一羽の蝶が棺の中で眠る少女の胸に降り、そのまま吸い込まれるようにして消えていった。その蝶は何度かノクスの目の前に現れた空色の蝶だ。


 もしやと思い、ノクスは棺の前で膝をつく。セレーネがしていたように、少女の頬を撫でた。


「……イスカ。もう一度だけ、目を開けてくれないか」 


 生きたくないのなら、ほんのひと時だけでいい。話をする時間だけでも息をしてくれないかと、ノクスは眠る少女に乞う。


 そうは言っても、いざ言葉を交わしたら──人は欲深い生き物だから、一分一秒でも長くこの世界に息づいてくれないかと願ってしまいそうだ。


 かさりと、左胸が音を立てる。


 ノクスはそこに忍ばせていたものの存在を思い出し、ジャケットの内側に手を入れた。


 ノクスは一輪の花を取り出した。それは自宅の庭に咲いていたものである。色とりどりな花が咲き乱れていたが、ノクスの目にはこの一輪が一番美しく見えていた。


 だから、抜き取って──正確には毟ってきたのだが、どこかで彼女に会えたら渡そうと思っていた。


 彼女が望むような花束にはできなかったが、主役と脇役が決められている花束よりも、数ある中から選び抜かれた一輪の花の方が美しいのではないだろうか。たとえ萎れていたとしても。


 何だこの花は、と声をあげて笑う彼女の姿が思い浮かぶ。どうして花束じゃないんだ、と頬を膨らませて怒る姿も。けれど、結局喜んでくれるのではないだろうか。彼女はどんなに些細なことでも、ころころと笑う人だ。


(──いや、違う)


 ノクスは口の端を歪につり上げた。


(──貴女は、どんなに悲しくても苦しくても、笑顔の裏で隠して、ひとり耐えていた……強い人だ)


 もう一度だけ、眠る少女の頬を撫でる。


 どうしたら、その目は開くのだろう。

 どうしたら、その唇はノクスの名を奏でるのだろう。


 目醒めない少女を見つめながら、どこにもいない神様に問いかけた時──行き詰まっていた思考に一閃の光が差し込む。


 ノクスは萎れた花を冷たい手のひらに握らせ、少女の耳元に唇を寄せた。


「──イスカーチェリ・ハインブルグ。貴殿に婚約を申し込みたい。……だから、目を開けてくれないか」


 ぴくりとも動かない身体に、ぽつりと雨が落ちた。

 雨の主はノクスだった。ほろほろと転がり落ちる涙が、少女の頬を濡らしていく。


 ルーネを失い、父も喪い──その時に涙は枯れ果てたはずだった。悲しいという感情も、置き去りにしてきたはずだ。


 だけど、ノクスの中にまだ残っていたようだ。ひとつふたつと降る雨に混ざって、あふれてゆく。


「…………頼む、イスカ」


 ノクスは悲痛に顔を歪めながら、彼女の唇に親指を当てた。

 今度こそ、あの日の約束を叶えたいのだ。

 ノクスと恋をするために、もう一度逢いにきてくれた彼女の隣で。


 艶やかな銀色の横髪をそっと払い、固く閉ざされているまぶたに唇を寄せる。正しい口づけの仕方も、抱きしめる方法も、誓いの立て方も分からないけれど──。


(────そうか。僕は……)


 ノクスは少女の耳たぶに触れながら、震える唇から声にならない声を漏らした。


 それは、恋の意味を知った瞬間だった。


「──────」


 ふわりと、長いまつ毛が持ち上がる。

 その瞳は真昼の空を映したような、淡い青色だった。


「────婚、約者……殿?」


 ノクスの鼓膜を震わせた声は、ノクスの知るものよりも少し高く、柔らかな響きを持っていた。


 宝石のようにきらきらと輝いている空色の瞳が、眩しいものを見るかのように細められている。


「……僕のことが分かるか?」


 少女の顔がこくっと動く。おずおずと伸ばされた手を掴んでやると、顔いっぱいに笑顔が浮かんだ。

 姿形が変わっても、笑い方は変わらないようだ。


 少女はノクスの手を借りて身体を起こすと、きょろきょろと辺りを見回した。


「ここは……どこなんだ? 私はどうしてここに?」


「彼が蝶になった貴女を呼び戻したのよ」


 セレーネが棺に近づき、少女の手を優しく掬い取る。


「あなたは?」

「わたくし? わたくしは、ええと……誰だったかしら。ずうっとここにいたら、忘れてしまったわ」


 セレーネは唇の前に人差し指を立て、ふんわりと微笑む。内緒だよ、とでも言うかのように。そして、きょとんとする少女の頭をそっと撫でると、リュミエールの腕を引いて奥へと下がっていった。


 二人の姿が見えなくなったのを確認して、ノクスは少女の白い手を取った。その手は熱を持っていた。


「──イスカ。うちに帰ろう」


 少女──イスカの瞳が瞬く。涙を流す時のような、儚いまばたきだった。


「……うちって?」


「無論、僕の家だ。君の家でもあるが」


 ぴくりと、イスカの指先が微かに動く。

 どうして、と唇が動き出すのを見て、ノクスは親指で塞じこめた。

 空色の瞳がじわじわと潤んでいく。薄らと張られていく涙の膜を見つめながら、ノクスは口を開いた。


「あんな一方的に告げられて、受け入れられるものか」


 むむ、とイスカの唇が動く。

 反論を聞いてやるために指を離してやると、彼女は今にも涙を落っことしそうな顔で「でも」と顔を上げた。


「わたしはきみに、ひどいことを言ったのに」

「僕は全く気にしていない」

「でもっ……」


 ぐにゃりと、イスカの顔が歪む。

 今度こそ泣き出しそうである。

 ノクスは三拍置いたのちに、イスカの右手を握った。


「ほんとうに、僕は気にしてない。だが貴女が夜も眠れなくなるくらい気にするのなら──三つ、僕の願いを叶えてくれないか」


 イスカが瞼をぱちくりとさせる。

 ノクスはわざとらしい咳払いを一つしてから、人差し指を立てた。


「ではまず一つ目。僕のことは名前で呼ぶこと」


「──の、のく……す」


 耳がくすぐったくなるくらい甘い声を聞いて、ノクスは中指も立てた。


「次は二つ目だ」


 ノクスは棺の脇に落ちた花を拾い上げ、イスカの手に握らせる。


 イスカはそれが何なのか分かっていないようだったが──しだいに目を丸くさせ、ころりと瞳を光らせる。そして弾かれたように顔を上げると、信じられないとでも言いたげな表情でノクスを見つめた。


「僕と結婚して欲しい。宝石の一つも花束も贈れない、手紙すら書けなかった僕だが──」


 ころんと、イスカの瞳から涙が転がり落ちる。

 ノクスはそれを指先で掬い取りながら、緩々と顔を綻ばせていった。


「僕は貴女に恋をしている。だから、僕の隣で生きてくれないか。必ず幸せにすると誓う」


 ノクスのその言葉に、イスカは萎れた花を胸の前で抱きながら崩れ落ちた。


 花の渡し方も、涙の拭い方も、告白の仕方も抱きしめ方も分からなかったが、これで合っていたようだ。彼女は小刻みに肩を震わせ、堰が切れたように涙をこぼし続けている。


 ノクスは腕を伸ばし、細くなってしまった身体をぎゅうっと抱きしめた。


「三つ目の願いを告げる前に、今ここで、返事を聞かせてくれないか?」


 そう耳元で囁くと、イスカが顔を上げ、咲き誇るような笑みで応えた。

 

 ──あなたと恋がしたい、と。

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