第58話
「オスカー・ハインブルグという名はご存知?」
唐突な質問にノクスは眉を寄せながらも、十年かけて培った知識の箱をひっくり返す。その名は帝国史に肖像画とともに載っていた。
「初代魔術省長官、ですね」
「ええ、その通りよ。オスカーは女帝の夫君でもありました」
女帝というのは、このオヴリヴィオ帝国史上で唯一女性でありながら皇帝に就いた人だ。民を愛し、民に愛された人だと伝わっている。その夫であるオスカーは稀代の魔術師でもあったとか。
「オスカーは強く気高く美しかった女帝を愛していました。だけど、人は老いて死にゆくのが運命。いつの日か、女帝を置いていくこと、女帝に置いていかれることを恐れた彼は、肉体が死した後も生き延びられるよう──この研究をしていたのです」
「……それが、忘却の蝶」
「ええ。ですが、女帝の死には間に合いませんでした」
セレーネは棺の中の少女の頬を、指先でそっと撫でつける。揺籠の中にいる赤子を慈しむかのように。
「それから何百年後と時を経た現在、ついに完成の一歩手前まで進んだのが、リュミエールさんの器です」
リュミエールがゆっくりと長い睫毛を伏せていく。かつて彼は何という名で生き、そして死んでしまったのだろうか。
セレーネはノクスの心中を察していたのか、リュミエールと顔を見合わせ、それから紅色の唇を開いた。
「今から十年ほど前、国になくてはならない尊い方が命を落としました。そこで公爵はその方の魂を、ここで造った器に転移させました。──そうでしたね? リュミエールさん」
リュミエールは肯首する。それを見て、ノクスは思考を巡らせた。なくてはならない尊い方と形容される人は恐らく皇族だ。今から十年前に亡くなった人は誰だっただろうか。その頃、ノクスはまだ七つの子供だった。父が事故で死んだと聞かされて、泣き暮れていた頃だ。
「その年、公爵の奥方と娘が乗った馬車が賊に襲われました。奥方は命を落とし、娘は行方知れずとなりました。──ノクスさん。その娘さんのことで、心当たりはなくて?」
ノクスは何度か強く瞬いて、十年前の残像を頭の中から剥ぎ落とした。
思い描くは、イスカの最期の笑顔だ。
「──そうか。それが彼女だったんだな」
ノクスは長い息を吐いて目を閉じる。
十年前、ノクスの目の前に現れた少女──ルーネは公爵の娘であるイスカで。賊に母を殺され、必死に逃げ出した先で、ノクスと出逢った。
本当の名を名乗れなかったのは、いつどこで誰に聞かれているか分からなかったからだろう。
だが結局、彼女は見つかり、殺されてしまった。どこかの公爵家に雇われた男たちの手によって。
「ねぇ、ノクスさん。先代の皇帝陛下が亡くなられた日、どうして公爵は抵抗しなかったと思う?」
ノクスは目を開け、セレーネと視線を交わす。
先代の皇帝が亡くなったのは今から一年半前のことだ。彼は実の息子であるヴィルジールの手によって命を落としている。その日は城中が凍り、セシル殿下以外の皇子皇女と妃たちが亡くなったと伝え聞いている。
ヴィルジールが桁違いの力を持っていると、イスカの口からも聞いたことがある。
「それは……恐ろしかったからなのでは?」
「いいえ。公爵は歴代最強と謳われた魔術師で、炎に風、水に土、光と闇の力を扱える御方でした。そんな御方がなぜ、氷しか扱えない皇子に負けてしまったのかしら」
ノクスに魔術のことはよくわからない。だが、氷と対になるであろう炎の力を持っていながら、敗れたとなると──恐らく公爵は抵抗しなかったのではなく、抵抗できなかったのではないだろうか。
難しい顔をするノクスを見て、セレーネは困ったように微笑みながらも、棺の中の少女に触れながら続きを語った。
「公爵の愛する娘が遺体となって帰ってきた日。彼は自分の持つ全てを捧げて、二つの器を造りました。一つ目の器には高位の魔獣を使い、身体能力と魔術に秀でたものを。二つ目の器は、生前の娘の姿に似せたものを」
「それでは──」
「公爵はね、愛する者を喪って狂ってしまったけれど、それでも人の子の親だったのよ」
何としてでも生きて欲しい。たとえ何を犠牲にしたとしても──そのせいで恨まれることになっても。
それでも生きてほしくて、自分の全てを捧げて造ったのが、黄金色の髪と空色の瞳を持つ少女・イスカーチェリだったのだ。
イスカは自分が造られたものだと知り、絶望してしまったのだろうか。だから魔術師の本拠地たる塔に火を放ったのだろうか。自分を造り、二度目の生を与えた父親のことを恨んでいたのだろうか。
消えてしまった人の想いを知ろうにも、もう術はない。
だが、ひとつだけ分かったことがある。
彼女が──イスカーチェリ・ハインブルグがノクスに婚約を申し込んだ理由は、ノクスと恋がしたいからで。
どうして恋をしたい相手がノクスであるのかは、ノクスがノクスだったからだ。
幼き日に約束を交わした時、ふたりはこんなやりとりをしている。
──ねぇ、ノクス。大きくなったら、わたしのこと、お嫁さんにしてくれる?
──恋愛が先じゃないのか?
──恋愛をしないと、ケッコンはできないの?
──分からないが、父さんは母さんと恋をしたから結婚したと言っていた。
──じゃあ、わたしも恋をする!
不運なことに、その夢の続きを語れる日は来なかったが──公爵の手によって生きながらえた彼女は、どこかでノクスの名を知ったのだろうと思う。
ノクスという名は珍しい。プルヴィアという姓も、この帝国内ではノクスしかいない。彼女と出逢った日が雨だったから、その意味を持つ言の葉を借りたのだ。
たとえ政治に興味がなくとも“史上最年少で政官となった者”の名は、どこに行っても目にも耳にも入ってくるものである。




