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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
終章 あの日の約束

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第57話


 ノクスはこくりと喉を鳴らしてから、扉に手を掛けた。


 重く分厚い扉の向こうは、夢でも見ているような景色が広がっていた。建物内にある一室であることを忘れそうなくらいに、神秘と自然に満ちている。


 夜空から星を盗んできたのだろうか。色とりどりな無数の光で溢れているこの空間は、泣きたくなるくらいにあたたかい。


 ひらひらと、どこかで見た蝶が宙を舞っている。温かい光の正体は光る蝶だったようだ。


「……蝶がたくさん。なぜ室内に?」


「あの蝶は、蝶であって蝶ではありません。この地に帰ってきた魂だと聞いています」


 リュミエールが腕を上げると、薄桃色の蝶が彼の指に止まった。後を追うように橙色の蝶も降りてくる。


「ハインブルグ家の者は死した後蝶となり、この世を彷徨うと言われています。もう一度、愛する者と逢うために」


「……愛する者」


 愛というものはノクスにはよく分からない。

 子供の頃からずっと一緒にいるセバスチャンが向けてくるものに近いのだろう。だが、ノクスが誰かに向けたことは、まだきっとないはずだ。


 足元には見たこともない草花がふわふわと揺れている。この春風のように柔らかな風はどこから来ているのだろう。


「──お帰りなさい、リュミエールさん。今度はお客様をお連れなのね」


 鈴を転がしたような声がノクスの鼓膜を揺らす。振り返った先には、彼女と同じ顔をしている女性が佇んでいた。


「ただいま戻りました、セレーネ。この青年に見覚えはありますか?」


 呆けたように立ち尽くすノクスの背をリュミエールが優しく叩く。女性は困ったように眉を下げながら、小さく笑った。


「わたくしとの婚約を破棄して平民の女性を選んだ、元婚約者様にそっくりだわ」


 女性の名前はセレーネというらしい。ノクスの周りをぐるりと一周すると、リュミエールの隣に立った。


「どこからどう眺めても、元婚約者様のそっくりさんね。あの方の代わりに小言を言いたくなっちゃうくらいに」


「そんなに似ているのですか?」


「ええ。髪色以外そっくりよ。──貴方のお名前は?」


 女性──セレーネの眼差しがノクスへ注がれる。


「ノクス──ノクス・プルヴィアと申します」


 彼女と同じ空色の瞳がころりと大きくなる。

 セレーネは夢を噛み締めるように、それはそれは嬉しそうに微笑った。


「……そう。それでは貴方が、あの子の婚約者なのね」

「…………」


 何と返せばよいのか分からず、ノクスは押し黙った。


 婚約を解消しようと告げられたが、その旨が記された文書はまだ発行されていない。伯爵位以上の貴族の婚約には皇家の承認が必要だからだ。解消する時も同様に判を捺してもらう必要がある。


 だが、彼女はもうこの世界のどこにもいない。婚約相手が亡くなった場合、当然その婚約は無効になるのだろうが──。


「ノクスさん。わたくしについてきてくださる?」


 セレーネがノクスの手を掴む。その手は凍りついてしまいそうなくらいに冷たかった。

 


 セレーネに連れられた先には白い棺が置かれていた。棺の周りには蝶が集まっている。棺の中に眠る誰かに囁きかけるように、ふわふわ、ひらひらと宙を舞っている。


 セレーネが棺の前で膝をつくと、向かい側に膝を折ったリュミエールがゆっくりと蓋を動かしていった。


 初めに目に飛び込んできたのは、見事なシルバーブロンドの髪だった。次に目についたのは、透けるように白い肌だ。唇は春の薔薇を思わせる淡い桃色で、手脚は折れそうなほどに細い。


 胸を()かれたような衝撃がノクスの心を揺らす。

 棺の中に横たわる人の姿を見て、ノクスは頬を打たれたように愕然としていた。


「…………ルーネ?」


 やっとの思いで絞り出した声は、十年前にノクスの目の前で息を引き取った少女の名前だ。その子が今、手を伸ばせば触れられる距離にいる。

 最期に見た時よりも、秀麗に花開いた姿で。


「──この子は公爵が生前、最後に造った()です」


 セレーネの声で奏でられた器という言葉は、ノクスの知るものとは異なるようだ。とても大きく、重たそうな響きを持っている。


「貴方のあの子も、わたくしも、リュミエールさんも、かつて一度死んだ身。公爵の力によって生きながらえた、死人(しびと)なのです」


 ノクスはセレーネとリュミエールの顔を見てから、棺の中に眠る少女に視線を戻した。


 セレーネは否定しなかった。ノクスが棺の中の少女をルーネと呼んだことに。


 つまり、ルーネはイスカであり、イスカはルーネだったのだ。セレーネの話が真実(ほんとう)ならば、あの子(ルーネ)は一度死んだが、姿形を変えて生き延びたということになる。


「公爵というのは、イザーク・ハインブルグのことですよね。彼はここで何を?」

「公爵はここで先祖から引き継いだ研究をしていました。──それは、忘却の蝶を完成させること」

「忘却の蝶とは?」

「ハインブルグ家が、長きに亘って創り出そうとしていたものです」


 ひらひらと、空色の蝶がノクスの肩に止まる。

 セレーネはその蝶を優しく見つめながら、はかないため息を吐いた。


「わたくしたちは公爵が造ったものの一つですが、成功体ではありません。あの子も同様に不完全な子でした」

「何らかの──欠陥があったということですか」

「あの子は陽の光を浴びてはならない身体だったはずです。もしも浴びていたとしたら──少しずつ、壊れていったのではないかしら」


 ノクスは俯き、右手に拳を作った。

 日傘に手袋、厚手のタイツを履いていたとはいえ、何度日の下を歩かせてしまったことだろう。知らなかったでは許されない罪がいくつもありそうだ。


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