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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
終章 あの日の約束

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第56話


 ハインブルグ領は首都の真上にある。特産品は皮ごと食べられる黄色い果実で、夏は酸味が強く冬になるにつれて甘くなる。一年を通して採れるそれは料理から塗り薬にまでなることから、古くから帝国の民に親しまれている。


 首都の北門を出ると、大河に架かる巨大な橋がノクスを出迎えた。首都とハインブルグ領の間を流れるミルディ川に架かるその橋の名は、ニウェウス大橋と言うそうだ。


「──この橋を渡るとハインブルグ領に入ります」


 白馬に跨るリュミエールが後ろにいるノクスに声を掛ける。一人では馬に乗れないノクスはリュミエールの身体に括り付けられるようにして、彼と同じ馬に跨っていた。


「落ちたらひとたまりもないですね」


 真夜中のミルディ川には夜空が映り込んでいる。水面は艶めき、星空と溶け合うように滑らかだ。


「ミルディ川に落ちて戻って来れた人はいませんよ」

「それは……見た目以上に深いのですね」

「ええ、とても。水底には魔物が棲んでいるという伝説もあります。真夜中に橋を渡ろうとすると、その魔物に引き摺り込まれてしまうそうですよ」


 御伽話の類を信じないノクスは「はあ」と気のない返事をした。

 リュミエールは残念そうに肩をすくめる。


「さて、それでは行くとしましょうか」


 黄金色の髪がノクスの鼻を掠める。

 彼女のものとは違い、爽やかな匂いがした。



 リュミエールに肩を叩かれ、ノクスは目を覚ました。

 目を開けるとそこは森の中のようだった。若草色の葉が生い茂る木々の隙間からは、眩しい光が差し込んでいる。眠っている間に朝が来たようだ。


「ここはどこでしょうか」

「ハインブルグ領の中枢ですよ。公爵邸の本邸は目と鼻の先です」


 リュミエールが軽やかに馬から飛び降りる。慣れたふうにノクスに手を差し出し、彼女と同じ顔に優美な微笑みを浮かべた。


 ノクスはリュミエールの手を借りて馬から降りた。尻に経験したことのない痛みが走り、生まれたての子鹿のようになってしまった。今ここに彼女が居たならば、腹を抱えて笑われそうだ。


「ここからは歩いて行きます」


 リュミエールが先導するように歩き出す。その後を追っていくと、不思議とも何とも形容できない神秘的な邸が見えてきた。


「あれが公爵邸ですか?」

「ええ、本邸です」


 邸は巨大な塀に囲われている。遠くから見ると、まるで檻の中に閉じ込められているようにも思える。


 ハインブルグ公爵家の本邸。半ば強引に連れてこられたこの場所には、何があるのだろうか。


 門を潜り広い庭を抜けると、彫刻品のような造りの扉が聳えていた。リュミエールが手を当てると柔らかな光を放ち、左右にゆっくりと開いていった。


 玄関ホールでは大きな肖像画が飾られていた。幸せそうな親子三人が描かれている。真ん中で笑っている少女の絵を見て、それが誰であるのかはすぐに分かった。彼女の髪は父親譲りで、瞳は母親に似たようだ。


 迷いのない足取りで奥へと進んでいくリュミエールについて行くと、彼は巨大な絵画の前で足を止めた。絵画に描かれているのは、帝国民ならば誰もが知っている女帝の姿だ。


 リュミエールは絵画の中にいる女帝の瞳に触れ、何かを唱える。すると、絵画が鈍い音を立てながら上へと動き、下へと続く階段が現れた。


「これは……隠し部屋か何かですか?」

「ええ。三日前、私はこの先に彼女を連れて行きました。真実を知ってもらうために」

「……三日前、ですか」


 魔術省の建物を燃やす前、彼女は北門を出てからの行方が分からなくなっていたが、今の話からすると本邸ここを訪れていたようだ。


 彼女はこの場所で何を見て、何を知ってしまったのだろうか。


 先に行くよう促されたので、ノクスは恐る恐ると階段を降りていった。


 薄暗い廊下を進んで行くと、突き当たりには部屋があった。そっと扉を押すと、隙間からは誰かの執務室を彷彿とさせる書類の山が目に入る。壁には図面のようなものが貼られており、棚には無数の薬品が並んでいた。何かの研究室だろうか。


 足を踏み入れてすぐに、ノクスは硬直した。衝撃が心を襲う。


「これは……ここは、何なのですか?」


 信じられない思いに目を見開くノクスの先には、イスカと同じ顔をしている何かが並んでいた。どこからどう見ても人にしか見えないが、それらはこぽこぽと音を立てている水の中に沈んでいる。今にも目を開けて動き出しそうなほどに生々しい。


「ここは彼女の父親、イザーク・ハインブルグの研究室です。公爵は生前、ここである研究をしていました。そこに並んでいるのは、彼の手によって生み出されたものたちです」


 リュミエールの白い手がつうっと硝子を撫でる。彼の顔もまた、透明な硝子の向こうに並んでいるものたちと同じ顔をしている。


「……ぜんぶ、イスカと同じ顔」


「私もその一つです」


 ふっ、とリュミエールは取ってつけたように皮肉な笑みを浮かべる。

 彼女にそっくりな何かで溢れかえっているこの空間で、公爵は何を研究していたのだろうか。


「それでは行きましょうか。この先へ」


 リュミエールが奥にある扉を指し示す。その扉は城にある宝物庫の扉よりも厳重そうな雰囲気を晒し出していた。


 扉の傍には細長い硝子板が立てられている。そこには流れるような字でこう記してあった。


 【この扉が開かれんことを切に願う】

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