第54話
「──これは一体何事でしょうか」
動けなくなったノクスの背後から影が落ちる。声の主はリュミエールだ。騒ぎを聞いて駆けつけたのだろう。
「ノクスッ!! 大丈夫なのですか!?」
遅れてやってきたのはエヴァンだった。ノクスの前に膝をつき、肩を揺さぶってくる。何と返せばよいのか分からないノクスはされるがままになりながら、エヴァンの後ろから姿を現したアスランの顔をぼんやりと見上げた。
「火事があったと聞いて来たんだが……」
「……ええ、そうですね」
「酷い顔をしていますが、怪我でもしているのですか? 何があったのです?」
「……怪我はありません。何があったのかは、僕も……」
ノクスはくちびるを噛み締め、膝元に散った砂へ目を向ける。一粒足りとも逃さないようにかき集めて、腕が動かなくなるまで抱きしめたいというのに、ノクスを嘲笑するように吹き込んだ風が砂を攫い、ほんの少し前まで彼女を形成していたものたちは散り散りになってしまった。
「……ノクス?」
「っ…………」
やり場のない気持ちが体の中を駆け巡る。心が物足りなさに掻き乱され、行き場のない無念さが自分を押し包んでくるのがわかった。
血が滲むほどに地面に爪を立て、声を押し殺していたノクスに、エヴァンはそれ以上何も言ってこなかった。
その日、どうやって帰宅したのか覚えていない。気がつくと家の前にいて、セバスチャンが扉を開けたまま困った表情をしていた。
帰った時にかける言葉を忘れてしまったノクスに、セバスチャンは何も言わなかった。作ってもらった食事に手をつけられなかった。浴室を前にして、服の脱ぎ方も分からなくなってしまったが、セバスチャンは怒らなかった。
水が喉を通るようになったのは、喉の渇きを感じて目を覚ました深夜のことだった。
軽く咳き込みながら身体を起こしたノクスは、月明かりを頼りに下へと降り、厨房で喉を潤した。物音で起こしてしまったのか、セバスチャンも起きてきた。
「──よく眠れるように、ホットミルクを淹れましょうか?」
有り難い申し出だが、ノクスは首を左右に振った。無意識のうちに視線を向けていた先に、彼女が愛用していたティーカップがあったからだ。それには彼女が好きだった白い花が描かれている。
「……セバスチャン」
「はい、ノクス様」
「彼女は……イスカは、ルーネだったのか?」
セバスチャンは驚きに目を見開いてから、唇を噛みながら頷いた。次第に彼の瞳は潤んでいった。
「君は初めから気づいていたのか?」
「わたくしが気づいたのではありませぬ。ご令嬢が……イスカーチェリ様が、初めてこの邸に来た日に仰っていたのです。──“久しぶりだ、セバスチャン”と」
「…………」
「覚えがないわたくしは、はてと言ったのですが。イスカーチェリ様が“お嫁さんになりにきた”と言うものですから、もしやと。あの時はまさかと思うていたのですが……」
「そうか。僕だけが何も気づいていなかったんだな」
ノクスは歪んだ笑いを頬に浮かべ、セバスチャンに背を向けた。
「……ノクス様?」
「すまないが、一人にしてくれないか」
そう吐き捨てて、ノクスは厨房を出た。
話を続けていたら、気がおかしくなってしまいそうだった。
逃げるように向かった先は、邸の門と玄関扉の間にある小さな庭だ。縦長の花壇には見たこともない花が植えられている。どれもこれも彼女が植えたものだ。
陽の光に弱いと、セドリックが言っていた。だから彼女は外出時にはいつも手袋や日傘を使っていたのだろう。乙女の嗜みだと言って笑っていたが、本当はそうではなかったのだ。
そんな彼女が陽の下で植えた花たちは、風に揺られていた。赤に黄、紫に緑と色々な色の花が咲き乱れている。その一角には彼女が愛用していたティーカップに描かれていた白い花があった。よく見てみると、その花壇の花はどれも色が違うだけの同じ品種のようだった。
花はね、と楽しそうに語っていた彼女の声が聞こえてくるようだ。確か、彼女と花の話をしていた時──。
ノクスは一瞬、感傷に浸るように目を伏せた。
あれは、ひと月前のことだ。夕食後に彼女と皿洗いをしていた時に、ささやかなおねだりをされた。
──私が庭に植えた花が咲いたら、花束にして贈ってくれないか?
そう言って、悪戯に笑っていた彼女の姿を思い浮かべた時──きゅっと胸を絞ったような痛みが沸いた。
ノクスは胸に手を手繰り寄せ、ゆっくりと息を吐いた。深呼吸と呼ぶには落ち着きのない呼吸を繰り返す。それから目を開け、風に遊ばれゆらゆらとしている花々に近づく。
「……約束は、叶えてあげられなかったな」
イスカはどんな想いでこの花たちを植えたのだろうか。ついこの間まで一緒に暮らしていたのに、雷が苦手なことと、白い花が好きなことしか、ノクスは知れていない。
(……どうして僕は、知ろうとしなかったんだろう)
やるせない想いが心にのしかかってくる。押し寄せる後悔は痛みに変わり、ノクスの胸を締め付けている。
息をすることすら辛いと感じるくらい、胸が痛かった。
でも、彼女はこの何倍も辛く、痛く、苦しい思いをしたことだろう。それでも彼女は笑っていた。いつどんな時も。最後の瞬間でさえ、笑っていた。
言葉にならない想いが込み上がってくる。詰まったように苦しくなった胸を押さえていると、何かが視界に入ってきた。
それは光る蝶だった。




