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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
終章 あの日の約束

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第52話


 それから三日間の休暇を経て、ノクスは城に出仕した。就任以来連休を取ったことは一度もなかったが、今回の出張とイスカとのこともあり、ヴィルジールとエヴァンが気を利かせてくれたのだと思う。


 朝議を終えた後、十日に一度行われている各省の長が集う定例会の会場へと向かって歩いていると、曲がり角に差し掛かったところで、待ち構えていたように誰かが現れた。


 セドリック・オールヴェニスだ。ノクスの行手を阻むように、目の前に立ちはだかっている。


「婚約を解消するそうだな、ノクス・プルヴィア」


 魔術師の証たる黒いローブが風ではためいている。何が嬉しいのか、彼の顔には喜色が浮かんでいた。


「それが貴方に何か関係があるのでしょうか」


「はっ、関係などない。俺はお前を笑いに来てやっただけだ」


 セドリックは指先で横髪を後ろへ流すと、鼻高々な微笑みを見せた。元よりノクスは貴族という単語を具現化したようなこの男のことを好ましく思っていなかったが、今の挨拶で益々好感度が下がっていくのを感じた。


 人々はこの男のことを、文武両道で物腰柔らかく、優美な花のような青年だと褒め称えていたが、どこをどう取ったらそのように見えるのだろうか。


 セドリックの存在に気づいた侍女たちが色めいた声を出している。


 セドリックは彼女たちに見せつけるようにノクスの耳元に顔を近づけると、形の良い唇を横に引いた。


「お前は遊ばれていたんだよ。ようやく籠の中から出られたあいつにとって、お前は束の間の退屈凌ぎだったんだろう」


 吐息混じりに吐かれた言葉に、ノクスの眉の間が微かに曇る。身体のどこかから不快な熱が沸き出すのを感じた。


「……遊び?」


「そうさ。まさかとは思うが、本気と受け取っていたんじゃないだろうな。ハインブルグ家の娘がたかが平民のお前と婚約したいわけがないだろう」


 頭の芯がチリチリと音を立てる。

 後者はノクスも感じていたことだが、それは以前の話だ。


「……貴方は彼女の何を知っているのですか?」


 ノクスは凛と顔を上げ、セドリックの目を見つめ返す。


 セドリックの瞳は汚職に塗れ不正を働いていた政官たちと同じ色をしていた。人を人と思わない、自分さえよければどうでもいいのだと嘲笑っていた、下劣な奴らと同じだ。ノクスがこの世で最も嫌う人種である。


 極力二人きりにならないよう、彼女から距離を取られていた元婚約者たるセドリックが、彼女の何を知っていると言うのだろうか。


 怒りで足元がぐらつきそうだ。


「貴方は元婚約者だったというのに、彼女の何を見ていたのですか? 彼女は人で遊ぶような人ではありません。貴方のように人を愚弄する人でもない」


 こめかみが疼く。荒々しいものが、ノクスの心を満たしていく。


 人で遊ぶような人が懸命に料理をするはずがない。突き放されても追いかけるわけがない。手ずから花を愛でるわけがない。庇い立つことだって、自分より大きなものに立ち向かうことだって、できやしない。


 泣き方を忘れ、俯くことしかできなくなった人のことを抱きしめ、泣いていいのだと優しく笑いかけるような人に、人を弄ぶことなんて出来るはずもない。


 怒りが激しい波のように全身に広がった時、ノクスは気づいた。


 胸が怒りに燃えている、その理由を。


「彼女は強く優しい人です」


「っ……、平民風情が何を偉そうに──」


 セドリックが顔を歪め、手を振り上げたその時。

 途轍もなく大きなものが振り下ろされたような爆音が響いた。


 聞いたこともない音にノクスは思わず耳を塞いでいたが、セドリックは音がした方角へ身体を向け、眉を顰めている。


「あの方角は……」


 音の方角は北だ。城の北側には魔術省が防衛を担う防壁と魔術省の建物がある。襲撃があったのか、それとも魔術省で何か起きたのか。取り急ぎ確認する必要があるが、嫌な胸騒ぎがした。


 走り出したセドリックを追って、ノクスも駆け出した。



 現場は魔術省の心臓部である塔だった。以前イスカが治療を受けた建物は無事のようだが、それ以外の建物が全て燃えている。駆けつけた騎士団が怪我人を運び出しながら、現場の状況を確認しているようだ。


 ふと、ノクスは燃え盛る炎の中に人影があることに気がついた。遅れて逃げ出してきた人にしては、ゆったりとした足取りでこちらへ向かってきている。その距離が縮まるほどに、ノクスの心臓は早鐘を打っていた。


「…………まさか」


 ノクスは駆け出した。炎の中から現れた人が、もう一度逢えたらと思っていた人だったからだ。


「──イスカッ!!」


 盛る炎の中から出てきたイスカは、全身が煤だらけだった。だが不思議なことに火傷はしていないようで、衣服にも傷一つない。


 イスカは腰を抜かしたように、その場にぺしゃりと崩れ落ちた。その瞳にいつもの輝きはない。何の感情も抱いていないのか、虚ろな目をしている。


「どうしてあの中から出てきたんだ……! 怪我はないのか!?」


「ないに決まっているだろう。燃やしたのは私なんだから」


 ほら、とイスカが手を出し、小さな火の珠を作り衣服に近づけるが、その火は彼女の服に燃え移らなかった。


「燃やした……? 正気なのか?」


 イスカはこくりと頷き、ノクスの顔を見上げる。


「燃やさないといけないんだ。この世から消さないと。なくさないと……」


 じり、とイスカの目の縁に透明な膜が浮かんでいくのを、ノクスは見ていた。何かに取り憑かれたようにぽつりぽつりと小さな声を落とす彼女の手を握り、一音も聞き逃さないように唇に耳を寄せる。


 その瞬間、ノクスとイスカの目の前に鋭い雷光が落ちた。

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