表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
終章 あの日の約束

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/60

第50話


「貴方がたは、僕よりも彼女のことを知っていらっしゃいますよね」


「そりゃあ幼馴染ですから」


「では、彼女の身体がおかしくなっていたことはご存知だったのですか」


 ハインブルグ領で魔獣に襲われた時、イスカは言っていた。痛覚がなく、味覚もなくなってしまったと。自分はおかしくなっていると、傷ついた表情で打ち明けてきた。


 ノクスの問いかけに一番に頷いたのはエヴァンだった。それからアスランも頷き、ヴィルジールは瞼を伏せた。


「いつからですか」


「それは……」


 エヴァンは顔を歪め、口を閉ざす。

 一瞬、その場が氷の世界に閉ざされたように凍りついて静まり返ったが、それを破ったのはアスランだった。


「なあノクス。お前、イスカが階段を上り下りすることができないのは知っていたか?」


 アスランの翡翠色の瞳がまっすぐにノクスを射抜く。


「…………階段を?」


 ノクスは頭の中が白く溶け落ちるような衝撃を受けながらも、何とか声を絞り出した。


「そうだ。今俺たちが座っているソファの上に腰掛けることはできても、この上に立つことはあいつにはできない」


 ノクスは視線を革のソファへと落とす。高さはノクスの膝くらいで、小さな子供でもよじ登れそうだ。

 だが、イスカには難しいのだとアスランは語った。


「それは……いつからなのですか」


「お前と婚約する前からだ」


 それはつまり、ノクスの邸で共に暮らしていた時もだ。二階にはノクスの私室を含め、彼女が過ごしていた客間があった。階段を使えないとなると、彼女はどうやって出入りしていたのだろう。セバスチャンに事情を話し、手を借りていたのだろうか。


 イスカと過ごしたひと月あまりの日々を思い返す中で、ふと何かが引っかかった。


 そういえば、初めて会った日の夜──彼女はどこから訪ねてきただろうか。冗談だなんて言葉とは無縁そうなヴィルジールが彼女のことを“山猿”と揶揄する理由はどこから来ているのか。


 ハルメルス領へ出立する日、馬車から飛び降りた本当の理由は──。


(──そういうことか)


 ノクスは顔を上げ、薄い唇を開く。


「……だから、窓から」


 恐る恐ると呟いたノクスに、アスランは硬い表情で頷いた。


「そうだ。イスカは一人で階段を上り下りすることができない。だからそういう時は必ず誰かの手を借りるか、一人の時は外からよじ登ってきていた」


 だから許されていたのだ。いくら幼馴染とはいえ、皇帝の執務室を窓から訪ねてくることなどあってはならない。けれどヴィルジールは呆れはしても咎めなかった。

 それは知っていたからだ。イスカのことを。

 

 けれどノクスは知らなかった。気づかなかった。気づけなかった。悔しさに似た気持ちが、胸の奥に広がっていくのを感じる。


「イスカの目が、俺たちとは違う見え方をしているのは知っているか」


 ヴィルジールが静かな声音でノクスに問いかける。

 ノクスは首を左右に振り、顔を俯かせた。ひと月もの間同じ屋根の下で暮らし、ふた月も婚約関係にあったというのに。


 俯いたノクスの肩にエヴァンの手が乗る。現実から、真実から目を逸らすなと言われているようだ。


「料理が壊滅──んん、うまくいかないのは、色の判別が難しいからです。手先は器用なんですけどね、近頃は力の入れ加減が分からなくなってきたようで」


「…………」


 彼女が作ったサラダの野菜が無惨なことになっていたのは、力の入れ加減によるもので。パンが黒焦げになっていたり、焼きもの全般が滅茶苦茶になっていたのは、色の判別が困難だったからだという。


 いつだって澄み渡る青空のように美しかった彼女の瞳を思い出す。彼女の瞳にはどんな色ならば、鮮やかに映って見えたのだろうか。


「あのね、ノクス」


 エヴァンが顔にほんの少し深い影を落としながら、口角をうっすらと上げる。


「少しずつ、世界から色が欠けていったけれど──黒だけはそのまんま綺麗に見えるんだそうです。だからいつも黒色の服を着ていた貴方のことは、何よりも美しいものに見えたとイスカは言っていました」


「そんなこと……一言も」


「でしょうね。貴方にだけは知られたくなかったのだと思います。イスカは貴方に、恋をしていましたから」


 ノクスは弾かれたように顔を上げ、唇を震わせた。


 何から話すべきか。何を話すべきか。言葉で人と渡り合ってきたのに、今はひとつも出てきやしない。


 ぎゅうっと握り拳を作ると、その上にエヴァンが手を重ねてきた。向かいに座るアスランが席を立ち、ノクスの肩に手を乗せる。


「ねぇ、ノクス。イスカという女の子は、貴方の目にはどんなふうに映っていましたか?」


「……イスカは」


 ノクスは胸を押さえ、声を詰まらせる。

 声を出したら、共に零れてしまいそうなものがあった。


 それは十年前に置き去りにしたはずの感情だ。守ると約束をしたのに、目の前で失ってしまった日にぜんぶ流れ出てしまった。

 人はそれを、何と呼ぶのだろうか。


「イスカは──いつも、眩しかったです」


 掠れた声で紡いだ時、胸が動悸を打ち始めた。


 左胸に手を当てながら目を伏せると、どこか遠くから声が聞こえてきた。


 ──私は君と、恋がしたい。だから君を選んだ。


 いつだって明るく笑っていた、彼女の声が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ