第50話
「貴方がたは、僕よりも彼女のことを知っていらっしゃいますよね」
「そりゃあ幼馴染ですから」
「では、彼女の身体がおかしくなっていたことはご存知だったのですか」
ハインブルグ領で魔獣に襲われた時、イスカは言っていた。痛覚がなく、味覚もなくなってしまったと。自分はおかしくなっていると、傷ついた表情で打ち明けてきた。
ノクスの問いかけに一番に頷いたのはエヴァンだった。それからアスランも頷き、ヴィルジールは瞼を伏せた。
「いつからですか」
「それは……」
エヴァンは顔を歪め、口を閉ざす。
一瞬、その場が氷の世界に閉ざされたように凍りついて静まり返ったが、それを破ったのはアスランだった。
「なあノクス。お前、イスカが階段を上り下りすることができないのは知っていたか?」
アスランの翡翠色の瞳がまっすぐにノクスを射抜く。
「…………階段を?」
ノクスは頭の中が白く溶け落ちるような衝撃を受けながらも、何とか声を絞り出した。
「そうだ。今俺たちが座っているソファの上に腰掛けることはできても、この上に立つことはあいつにはできない」
ノクスは視線を革のソファへと落とす。高さはノクスの膝くらいで、小さな子供でもよじ登れそうだ。
だが、イスカには難しいのだとアスランは語った。
「それは……いつからなのですか」
「お前と婚約する前からだ」
それはつまり、ノクスの邸で共に暮らしていた時もだ。二階にはノクスの私室を含め、彼女が過ごしていた客間があった。階段を使えないとなると、彼女はどうやって出入りしていたのだろう。セバスチャンに事情を話し、手を借りていたのだろうか。
イスカと過ごしたひと月あまりの日々を思い返す中で、ふと何かが引っかかった。
そういえば、初めて会った日の夜──彼女はどこから訪ねてきただろうか。冗談だなんて言葉とは無縁そうなヴィルジールが彼女のことを“山猿”と揶揄する理由はどこから来ているのか。
ハルメルス領へ出立する日、馬車から飛び降りた本当の理由は──。
(──そういうことか)
ノクスは顔を上げ、薄い唇を開く。
「……だから、窓から」
恐る恐ると呟いたノクスに、アスランは硬い表情で頷いた。
「そうだ。イスカは一人で階段を上り下りすることができない。だからそういう時は必ず誰かの手を借りるか、一人の時は外からよじ登ってきていた」
だから許されていたのだ。いくら幼馴染とはいえ、皇帝の執務室を窓から訪ねてくることなどあってはならない。けれどヴィルジールは呆れはしても咎めなかった。
それは知っていたからだ。イスカのことを。
けれどノクスは知らなかった。気づかなかった。気づけなかった。悔しさに似た気持ちが、胸の奥に広がっていくのを感じる。
「イスカの目が、俺たちとは違う見え方をしているのは知っているか」
ヴィルジールが静かな声音でノクスに問いかける。
ノクスは首を左右に振り、顔を俯かせた。ひと月もの間同じ屋根の下で暮らし、ふた月も婚約関係にあったというのに。
俯いたノクスの肩にエヴァンの手が乗る。現実から、真実から目を逸らすなと言われているようだ。
「料理が壊滅──んん、うまくいかないのは、色の判別が難しいからです。手先は器用なんですけどね、近頃は力の入れ加減が分からなくなってきたようで」
「…………」
彼女が作ったサラダの野菜が無惨なことになっていたのは、力の入れ加減によるもので。パンが黒焦げになっていたり、焼きもの全般が滅茶苦茶になっていたのは、色の判別が困難だったからだという。
いつだって澄み渡る青空のように美しかった彼女の瞳を思い出す。彼女の瞳にはどんな色ならば、鮮やかに映って見えたのだろうか。
「あのね、ノクス」
エヴァンが顔にほんの少し深い影を落としながら、口角をうっすらと上げる。
「少しずつ、世界から色が欠けていったけれど──黒だけはそのまんま綺麗に見えるんだそうです。だからいつも黒色の服を着ていた貴方のことは、何よりも美しいものに見えたとイスカは言っていました」
「そんなこと……一言も」
「でしょうね。貴方にだけは知られたくなかったのだと思います。イスカは貴方に、恋をしていましたから」
ノクスは弾かれたように顔を上げ、唇を震わせた。
何から話すべきか。何を話すべきか。言葉で人と渡り合ってきたのに、今はひとつも出てきやしない。
ぎゅうっと握り拳を作ると、その上にエヴァンが手を重ねてきた。向かいに座るアスランが席を立ち、ノクスの肩に手を乗せる。
「ねぇ、ノクス。イスカという女の子は、貴方の目にはどんなふうに映っていましたか?」
「……イスカは」
ノクスは胸を押さえ、声を詰まらせる。
声を出したら、共に零れてしまいそうなものがあった。
それは十年前に置き去りにしたはずの感情だ。守ると約束をしたのに、目の前で失ってしまった日にぜんぶ流れ出てしまった。
人はそれを、何と呼ぶのだろうか。
「イスカは──いつも、眩しかったです」
掠れた声で紡いだ時、胸が動悸を打ち始めた。
左胸に手を当てながら目を伏せると、どこか遠くから声が聞こえてきた。
──私は君と、恋がしたい。だから君を選んだ。
いつだって明るく笑っていた、彼女の声が。




