第5話
「────は?」
月が色濃くなる頃、イスカはノクスの部屋を訪ねた。それも正面からではなく、邸の外から壁をよじ登って。
無論、ノクスは口を半開きにしたまま固まっている。彼の不機嫌な顔と無表情しか見たことがなかったイスカは、今の表情があまりにも面白いものだからけらけらと笑い出した。
「こんばんは、婚約者殿」
「…………」
「おや、驚いて声が出なくなったかい?」
「…………いや」
ノクスは呆れたようにため息を吐くと、イスカの方へと近寄ってくる。窓越しに向かい合うかたちになると、ノクスは珍獣でも見るような目でイスカを見下ろし、軽く肩を落とした。
「セバスチャンが言っていたのはこういうことか」
「どんなことだい?」
なんでもない、とノクスは呟くと、ほんの少しだけ窓を開けた。腕が通るか通らないか、それくらいの間隔だ。部屋に通す気はないようだが、話はしてくれそうだ。
「わざわざ窓から来て、僕に何の用だ?」
「親睦を深めに来たのさ」
「僕にその気がないと言っても?」
「その前に、私を部屋に入れてくれないか? このままでは手足を滑らせて落ちてしまうよ」
イスカは悪戯っぽく笑いながら下を見遣る。近くの木を伝い、壁の所々にある出っ張りに脚を掛けて登ってきたイスカは、目的地であるノクスの部屋の窓に到着するや否や息切れを起こしていた。
ノクスは今日で何度目か分からない溜め息を吐くと、窓を全開にするべく鍵に手を掛けた。
ノクスの部屋に入って真っ先に目に入ったのは、二方面の壁をびっしりと埋め尽くしている本棚だった。近づいてタイトルを見てみると、この国の地理や歴史に関する文献や植物や鉱物などの図鑑、薬学に医学に他国の歴史書などと、様々な分野の本が綺麗に並べられている。
棚の一角にはイスカの好きな童話もあった。それを指先で撫でてから、イスカはノクスの顔を見上げた。
「君は本が好きなのかい?」
「知識を得るために必要だっただけだ」
イスカはぱちくりと瞬きをした。年頃の少女が読むような王子と姫の夢物語から、どのような知識を得たのだろうか。
「私は好き嫌いを尋ねているんだけどね」
イスカは苦笑しながら、ノクスとの距離を一歩詰める。
ノクスは夕食の時よりも機嫌がいいのか、あるいは諦めて対話することにしたのか、腕組みをしながらイスカと向かい合っている。
ほんの少しの沈黙の後に、ノクスは無表情のまま唇を薄く開いた。
「聞きたいことがある」
イスカは返事の代わりに頷き、側にあった黒塗りの椅子に浅く腰掛けた。
「貴女は皇族に嫁ぐような家柄のご令嬢なのに、なぜ平民の僕を選んだんだ? 皇帝陛下を巻き込んでまでして」
真冬の海のように冷えているノクスの青い瞳は、イスカの真昼の空色の瞳を真っ直ぐに捉えると、静かに一度だけ揺れた。
「それは、君と恋がしたいからだ」
ノクスの切れ長の瞳が大きく見開かれた一瞬を、イスカは見逃さなかった。月明かりを受けて蒼白く光るノクスの顔を見上げながら、羽根のように柔らかな声で告げる。
「私は君と、恋がしたい。だから君を選んだ」
ノクスはゆっくりと瞬きをし、胸の前で組んでいた腕をほどいた。
「……僕にはその気がないのに?」
イスカは微笑みながら頷いた。
嫌がる相手を権力で縛るのはよくないことだ。それを分かったうえで、一方的に縛りつけたイスカのことを、ノクスはよく思っていないだろう。
だが、それでも譲れないものがイスカにはあるのだ。身勝手だと分かっていても、掴まなければならないものがある。
苦い表情をしているノクスを見ているうちに、あることを閃いたイスカは、ぽんっと手のひらを合わせた。
「ならばこうしよう。三つ、私の願いごとを叶えてくれないか?」
「願いごと?」
ノクスの眉が跳ね上がる。何を言い出すのかと思えば、とでも言いたげな顔である。
「三つ目が叶えられた時、私は君の前に永遠に現れないと約束する」
ノクスは顎に手を当て、訝しげな目でイスカを見た。
「その願いごとというのは?」
「大丈夫。無理難題を押し付けたりはしないよ」
「僕は内容を聞いているんだが」
ノクスは眉間に皺を寄せた。面倒臭そうに息を吐きながらも、イスカの返事を待ってくれているようだ。
イスカは「コホン」とひとつ咳払いをしてから、すっくと立ち上がった。
「では、まず一つ目。次の休みの日、私と街へ出掛けて、ドレスを見立ててくれないだろうか」
「……ドレスを?」
意外なことに、ノクスは嫌な顔をしていなかった。不思議なものを見つけたような眼差しで、イスカの目を見つめ返している。
だが、それも束の間。すぐに目を逸らすと、難しそうな顔を作り、顎に手を当てた。
「貴族というのは、邸に仕立て屋を呼んであれこれするんじゃなかったのか?」
「それは世間一般論だよ」
「貴女は外れているというのか」
正解、とイスカは薄く笑った。続けて何かを言わんとしているノクスの唇に人差し指を当て、不敵な笑みを飾る。
「私は私の目の前で、君に選んでもらいたいんだ」
指先で軽く触れたノクスの唇は、刺々しい言葉を吐くわりに、とても柔らかかった。




