第48話
ルーネという少女は、ある日突然ノクスの世界に現れた。彼女はどこからか逃げ出してきたのか、身体中は泥だらけで腕や足に怪我をしており、擦り切れた衣服を着ていた。
母がいない、怖い、寂しい、悲しい──そう繰り返しながら啜り泣く彼女の手を引いて、ノクスはセバスチャンと暮らす家に連れ帰った。
夜半の大雨の中外へ出て、戻ってきたかと思えば見知らぬ少女を連れ帰ってきたノクスを見て、セバスチャンは驚いていたが、すぐに湯を沸かし、彼女のために温かい食事と寝床を用意してくれた。
それから彼女は、ノクスの家で暮らすようになった。
彼女は自身のことについては何一つ語らなかったが、代わりにたくさんの夢を語っていた。大きくなったら、父と母のようになりたい、たくさんの花が咲き乱れるお家で暮らしたい、色々なお花の世話をしたい──そう嬉々として夢を語っていた彼女の横顔を、ノクスは今でも憶えている。
月が美しい夜に、大きくなったらお嫁さんにしてほしい、と気恥ずかしそうに言ってきたことも。
(──だけど、僕は叶えてあげられなかった)
穏やかな日々は、突然に終わりを迎えた。
それはいつものように彼女と手を繋いで市へ出掛けていた時のことである。
セバスチャンからのおつかいで市へ出掛けていた二人は、目的の食材を買い、貰ったお小遣いで菓子を買って食べていた。その時、見知らぬ男二人が近づいてきたかと思えば、ルーネのことを剣で斬りつけたのである。
何が起こったのか理解できなかったノクスに、男たちは嘲笑を浮かべながらこう言った。
──どこに行ったのかと思えば、こんなところに隠れていたとは。
──だがこれで、目的は果たせた。
──公爵様が何を考えているのかは分からんが、小娘一人の命であんなに報奨金をくれるとは。
男たちは茫然と立ち尽くすノクスと倒れたルーネを置いて、どこかへ走り去っていった。
ノクスは足元に広がる赤い水溜りに膝をつき、ルーネの手を取り顔を覗き込んだ。
『ルーネッ!!』
『……ノクス』
ルーネは苦しそうに息をしながら、ノクスの手を握り返した。
だけど、その手はすぐに血の海に沈んでしまった。
『ルーネッ……ルーネ! 待っていろ、すぐに人を呼んでくるからッ』
『……ノ、クス』
その場から動き出そうとしたノクスの服の裾を、ルーネが弱々しく掴む。そうして、ノクスに向かって力なく微笑みかけると、震える唇を開いた。
『……おおきくな、わた……と……お嫁さん……れる?』
『……ルーネ?』
その時ルーネが何と言っていたのかは、分かっていた。
分かっていたけれど、頷き返してあげられなかった。
ぱしゃりと血の海に落ちた手を拾い上げ、冷たくなった小指に自分の小指を絡めることしか、まだ幼い子供だった自分にはできなくて。
あの日、あの時。
身を挺して守れなかったことを、ノクスは今でも悔いている。
それから、動かなくなったルーネの手を握り続けていたノクスを見た誰かが、騎士団を呼んだことで大きな騒ぎになった。中々帰ってこないノクスを心配して、セバスチャンが迎えにきた。ルーネの前で膝をつき、茫然自失しているノクスの姿を見つけたセバスチャンは、ノクスの身体を掻き抱いた。
その温もりに安心してしまったのか、或いは現実から目を逸らすためなのか──目を覚ますと、ノクスは自分の部屋のベッドの上にいて、傍には父親がいた。
父親はノクスの頭を撫でながら、悲しそうに瞳を揺らしていた。
──ノクスは悪くないよ。
──僕、ずっと一緒にいたのに。
──人は万能じゃないんだ。ずうっと一緒にいたって、どうにもできない時だってある。
──ぼく、約束したのに。
ひうっ、とノクスは喉の奥で音を立てた。
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、毛布をぎゅうっと握る。
ノクスの手に重ねられた父の手はとても大きかった。その時初めて、自分の手はとても小さく、人ひとり守れやしないものだと知った。
父はそれ以上何も言わなかった。啖呵を切ったように泣き出したノクスの背を、ずっと摩ってくれていた。
涙が枯れ果てるくらい泣き、身体の震えも止まった頃──ノクスは顔を上げた。
──父さん。どうしたら、ルーネをあんなふうにした人を見つけ出せる?
──見つけ出して、どうしたいんだい?
──知りたいんだ。どうしてルーネをころしたのか。
その時、その一瞬。父が浮かべていた表情を、ノクスは今でも憶えている。驚き、哀しみ、そして辛そうに顔を歪めていた父は暫しの間考え込んだ後、静かな声音でこう言った。
──ならば政官になり、城に上がりなさい。あの場所には国のすべての情報が集まる。あの子が何者だったのか、あの子を襲った犯人の裏には誰がいたのか──きっと知ることができる。
ノクスは父の顔を見上げながら、深くうなずいた。
その日、ノクスは誓いを立てた。
ルーネという少女が歩いてきた足跡を見つけ出すこと。彼女を殺めた男の背後にいる貴族を明らかにすること。その傍らで、平民である自分だからこそできることを、平民のために為すことを。
平民が政官になれる話など聞いたこともなければ、そもそも前例もないことなのだと知ったのは、これより数年後のことだ。
血の滲むような努力の末、ノクスは史上初となる快挙を成し遂げた。不正を働いたのではないかと怪しまれ、平民のくせに何様だと罵られたこともあったが、当時の宰相であったセデン・セネリオが盾となり、手を差し出してくれた。
──良い目をしているな。私の手を取り、皇帝の手足とならないか?
──皇帝は、お仕えするに値する方ですか。
──間違いなく歴史に名を残す賢帝となられる方だ。
ノクスはひとつ頷いてから、セデンの手を握り返した。
──では、私が持つ全てを帝国の民に捧げましょう。
皇帝ではなく民に忠誠を誓ったノクスを、セデンは面白そうに眺め、それから満足げに何度も頷いていたのだった。




