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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
終章 あの日の約束

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第47話


 雨が降り出しそうだ。

 薄墨色の空は仄暗く、空気は水を含んでいるのかどっぷりと重たい。分厚い雲は今にも雨を落としそうだ。


 ノクスは重いため息を吐いてから、手元の懐中時計へと視線を戻した。


 蓋の内側にはノクスの父親の肖像画が収められている。ノクスは父親似だとセバスチャンは言うが、何度絵を見ても記憶の中の父親の姿を思い浮かべても、瞳の色以外は全く似ていないように思う。城に勤めていた為か、或いは他に理由があったのか、滅多に家には帰ってこなかったが、月に一度は両手いっぱいにお土産を持って帰ってきてくれた。


 だが、ノクスは父親の名を知らない。

 滅多にお目にかかれない艶やかな銀色の髪と、力強く光る青色の瞳を持った人で、城に出入りできる人となると限られる。調べれば分かることだが、ノクスは調べずにいる。この国で生まれた者のことならば、どんなことでも知ることができる立場にいるが、それだけはしなかった。

 知ってしまってはいけないことだと、思っていたから。


 懐中時計の蓋を閉め、それからぼんやりと馬車の天井を眺めていると、雨音が聞こえてきた。窓の外を見遣ると、大粒の雨が窓を叩いてきている。


 長いようで短かった出張が終わり、ようやく首都に戻ってこれたかと思えば、今度は雨だ。


 今宵、雷が鳴ったら──彼女はどうするのだろうか。

 ノクスは空っぽの右手を眺めながら、顔を曇らせていった。

 

 私邸に着いたのは、ハルメルス領を出てから六日目の夕刻だった。

 馬車を降りると、目の前には傘を手に微笑むセバスチャンの姿があった。馬車の音で気づき、外まで出てきてくれたのだろうか。


「おかえりなさいませ、ノクス様」

「……ああ」


 セバスチャンが荷物を渡すよう手を出してきたが、ノクスは無言でその横を通り過ぎた。どこか具合でも悪いのかと尋ねるセバスチャンの声も無視して、邸の中へと急ぐ。


 ひと月ぶりの再会だというのに、随分酷い態度を取っている自覚はあったが──今はそっとしておいて欲しいのだ。


 茶塗りの分厚い玄関扉を両手で開ける。

 すると、中には予想外の人物が立っていた。


「おかえりなさい、ノクス。この度はご苦労様でした」


「何故……宰相がここに」


 玄関にいたのはエヴァンだった。仕事中に抜け出してきたのか、いつものヨレヨレのシャツ姿である。


「そろそろ帰ってくる頃かなあって思いまして。セバスチャン殿のお茶を頂きながら、貴方を待っていたんですよ」


「出迎えには感謝しますが、話があるのでしたら改めて頂けませんか」


「イスカに関することだとしても?」


 ノクスは眉を寄せた。対するエヴァンは柔らかい笑顔を浮かべている。


 ここでノクスの帰りを待たずとも、どのみちこの後城に行く予定だというのに──わざわざ城下まで足を運んだということは、一刻も早く知らせたいことがあるようだ。それも、イスカに関することで。


 だがもうノクスはイスカの婚約者ではない。理由がどうであれ、一方的に解消された身である自分に、彼女のことを知る権利はないのではないだろうか。


 たとえどんなに些細なことでも知りたいと、そう思っていたとしても。


 俯き、押し黙ったノクスの肩にエヴァンの手が乗る。恐る恐ると顔を上げると、焦げ茶色の瞳と視線がぶつかった。


「婚約を解消したこと、イスカから聞いています。ハルメルス領で何があったのかは分かりませんが……このままでよいのですか?」


「仮によくなかったとして、どうしろと言うのです」


「それは貴方が決めることですよ、ノクス」


 エヴァンはふんわりと笑うと、もう片方の手もノクスの肩に乗せた。そうして、ぽんぽんと優しく肩を叩く。


「婚約を解消する理由を、イスカの口からちゃんと聞きましたか?」

「いいえ」

「では、イスカが先に首都に戻り、堂々と陛下を訪ねてきたことは?」

「たった今戻った私が知るはずもないでしょう」


 ノクスはエヴァンの手をそっと払い退け、後ろに下がった。いつの日も忍び込むようにして城に来ていた彼女が正面から訪ねてきたという点には驚いたが、だからといって何だと言うのか。

 ノクスはもう、イスカの婚約者ではないというのに。


 ──だけど。

 このままでよいのか、というエヴァンからの問いの答えは、ちゃんと出ている。


(──あの日も、こんな雨の日だったな)


 ノクスは降り頻る雨の音に耳を傾けながら、ふわりとまぶたを下ろした。



 雨の降る夜だった。その日の雨は、何もかもを濡らすまで、寸分の隙間もなく地を叩いていた。いつになったら止むのかと考えるのが馬鹿らしくなった頃、ふと顔を上げてみると、窓の外に人影があった。


 恐らく人であるそれは、雨に何かを洗い流してもらっているのか、その場にじっと立っていた。


(──こんな雨の中に、何をしているんだ)


 少年は好奇心から扉を開け、傘を手に家の外に出た。

 土砂降りの雨に降られている人影へと近づくと、その正体が自分と同じ年頃の少女であることが分かった。


 恐る恐ると少女に傘を差し掛けてやると、少女は少年の姿を認め、目をまん丸に見開いていく。


『──だあれ?』

『……ノクス。あなたは?』


 少女の大きな目から、ころんと涙が流れる。

 こんなにも雨が降っているのに、たった今その頬を転がり落ちたものが一雫の涙だと気づいたのは、彼女が自分と同じ子供だったからだろうか。


『──ル、ルーネ』


 少女はそう言って、胸の前で四角いものをぎゅうっと抱きしめた。


『ルーネはどうしてここに?』

『わからない』

『家族は一緒じゃないのか?』

『かぞくは……かあさまが一緒だったけど、かあさまは……』


 少女──ルーネが俯く。そのとき、ノクスは言ってはいけないことを言ってしまったのだと知った。


 ノクスはルーネとの距離を一歩詰め、そっと手を差し伸べた。


『ずっとここに居たら、身体が冷えきってしまうから──せめて雨が止むまで、僕の家に来ないか』


 ルーネが顔を上げ、目を瞬かせる。次の瞬間には、顔をくしゃくしゃに歪め、わあっと泣き出してしまった。


 ノクスは突然のことに慌てふためきながらも、ルーネに傘を差し掛けながら、彼女の右手を握った。


 雨に降られ、冷たくなってしまったその手に、ほんの少しでも熱を分けてあげることができたのなら──。


 しっとりと濡れたシルバーブロンドの髪に目を奪われながら、ノクスはひとり胸の内で希ったのだった。

 

 

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