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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
5章 忘却の蝶

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第45話


「私を庇ったのは、私が貴殿の婚約者だからか? それとも公爵家の娘だからか?」


 ノクスの喉が、ごくりと動くのを見た。次の瞬間には、深い青を抱いた美しい目が、今にもころりと飛び出しそうに光る。


「…………もう、いい」


 イスカは彼の返事を待たずして、重い腰を上げた。


 答えは分かりきっている。彼がイスカを庇ったのは、イスカが婚約者だからだ。公爵家の人間であるイスカが命を落としていたら、その婚約者である彼は非難の声を浴びることになる。いくら彼が高位の政官であれど、貴族社会であるこの国において、平民である彼の立場はまだ弱い。


 ──だけど。


 聞いてもいない彼の返事を決めつける一方で、こうも思っていた。庇ってくれたのは、イスカだからではないかと。そう思ってくれていたらとも思う自分がいることに気づいた時、堪えていたものがあふれそうになった。


 イスカは彼の隣に、ずっといることはできない。

 彼の心の中には、初めからあの子しかいなかったのだから。


 エスコートを覚えてくれたのも、短期間でワルツを覚えてくれたのも、社交の場で一緒に踊ってくれたのも、三つ願いを叶えるまで婚約関係にあるイスカに、思い出を残してやろうという情けなのかもしれない。


(──ああ、私は嫌な奴だな。三つ願いを叶えてもらうまでと約束していたのに)


 視界がぼやけていく。彼のいる世界から目を逸らすために瞬きをひとつすると、ふたつの目から涙がこぼれ、ぽろぽろと落ちていった。


 戸惑いながらも手を差し出してくるノクスに背を向け、イスカは地面に雨を降らせていく。


(私はいつの間にか、その隣にずっといられたらと──叶うはずのない夢を、抱いていたのか)


 イスカは雨を止ませるために星空を仰いだ。


 闇のさなかに、満天の星が凍りつくように輝いていた。それらは花束を解きほぐしたように散らばり、途方もない距離の先にいるイスカたちに、無数のきらめく光を届けている。


 見つめているうちに星のひとつが瞳に落っこちてしまったのか、じわりと視界がぼやけていった。


「……イスカ」


 揺らいだ声がイスカの鼓膜を揺らす。


「……待ってくれ、イスカ」


 熱を失った右手を、ノクスが背後から掴んだ。

 イスカはそれを力いっぱい振り払い、きゅうっと眉を寄せた。


「軽々しく触れないでくれないか」


「許可なく触れたことは謝るが、膝から血が出ている。転んだ時に擦りむいたんじゃないのか」


 言われた通りに膝へ目を落とすと、白い脚をつうっと流れるものがあった。ノクスが目の前に膝をついて、傷の具合を確かめようとしている。


 イスカは咄嗟に距離を取った。


「放っておいてくれ。痛みなんてない」


「そんなわけないだろう。こんなに血が出ているのに」


 思った以上に傷は深かったのか、今も血が流れ出ている。止まることを知らぬように。


 ノクスが懐からハンカチを取り出し、傷口を目掛けて腕を伸ばしてくる。その優しさが今は残酷だ。このまま気づかずに居てくれたのなら、何も言わずにいれたのに。


 イスカはノクスの手を掴み、作り物の笑顔を飾った。


「触らないでくれないか。痛くも痒くもないから」


 寝間着のロングワンピースの裾を摘み、ふわりと持ち上げる。その拍子に露わになった傷口を爪の先で撫でると、指先にべっとりとした液体が付着した。

 人はそれを、確か血と呼ぶのだった。


「私に、痛覚はないんだ」


 どういうことだと、ノクスの瞳の色が濃くなる。

 イスカは薄らと微笑みながら、青ざめた唇を開いた。


「ずっと変だと思っていたんだ。何を食べても味がしなくて」


 いつの頃からか、食べ物の味が分からなくなっていった。


 大好きだったスコーンのジャムは甘くなくなり、交易で手に入ったという物珍しい調味料は全く辛くなく、時間を掛けて淹れた濃いお茶からは苦味も渋みも感じなくなった。一口齧ったら誰もが口を窄める黄色い果実を食べても、全く酸味を感じなかった。


 それでも、ノクスと食卓を囲んだ時だけは──おいしさを、思い出せた。

 

 痛みを感じなくなったのではないかと思ったのは、ノクスの邸に引っ越した頃からだった。知らぬ間に傷が増えていると思いきや、ちょっと触れただけなのに肌の色が変わり、時には腫れることもあった。


 確信を持ったのは、今の傷だ。こんなに血が出ているのに、何も感じやしない。


 ならば胸の痛みは何なのかと問われたら──それはきっと、傷ついたのが体ではなく心だからだろう。


 味覚と痛覚の次は、何を失うのだろうか。いつしかこの目は彼のことが見えなくなってしまうのかもしれない。彼の声も聞こえなくなってしまうのかもしれない。


 ──そんなところにいたのか、と。独り頬を濡らす自分を探しにきてくれた彼の腕の中に、飛び込むこともできなくなってしまうのかもしれない。


 いくつもの可能性を考えた時、胸が痛む理由を知った。


 イスカは重い胸を押さえながら、ノクスの目をまっすぐに見つめ返す。


「……私は、おかしくなっているのだと思う」


「何を言ってるんだ」


「そうとしか思えないじゃないかっ……」


「馬鹿なことを言うな!」


 声を荒げたノクスが、イスカの腕を引っ張る。強く引き寄せられて、彼の胸に頬が当たった。腕が背中に回り、強く抱きしめてくる。薄っぺらい布を通して、彼の体温と鼓動が伝わる。


 とくとくと、鳴っている。

 恋の意味を知ったイスカと同じくらいに。


 イスカは涙に濡れている顔を綻ばせ、ノクスの胸をそっと手で押した。


「ノクス・プルヴィア殿、私と婚約を解消してくれ」


「イスカ、僕は────」


「それが私の三つ目の願いだ」


 目一杯の笑顔を飾る。彼にとって、笑ってばかりいた人だといつまでも思っていてもらえるように。


 ノクスは愕然と目を見開いていた。

 イスカは少しずつ後ろに下がり、手を伸ばしても届かないくらいまで距離を取ったところで、地面から足を剥がした。


 ノクスはもう、走り出したイスカを追ってきてはいなかった。

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