第44話
初めに聞こえた声は、野太い男のものだった。
「──魔獣が出たぞッー!!」
次に聞こえたのは、すぐ近くを歩いていた夜間警備の騎士のものだった。彼らは地べたに座り込んでいるイスカとノクスの横を物凄い剣幕で通り過ぎていく。
「──門を越えたッ! 奴は空を飛んでいる!」
「──火を、炎を撃ち出すんだっ!!」
どうやら魔獣が現れ、この城塞内に入り込んだようだ。先ほどの警鐘は緊急時の合図だったのか、周囲の家が一斉に明かりを灯し、騎士の誘導の下避難しているのが見える。
静寂に包まれていた辺りは一気に騒がしくなった。
「僕たちも行こう。立てるか、イスカ」
ノクスが立ち上がってイスカに手を差し出す。
イスカは彼の白い手を眺めたまま、首を左右に振った。
「私のことはいいから、行ってくれ」
「馬鹿なことを言うな」
ノクスは手に持っていたランプを地面に下ろし、イスカの両手を取った。いやだいやだと振り解こうとしてもびくともしないのは、イスカが女で、ノクスが男だからだ。
逃げ出す人々を横目に彼と攻防戦を繰り広げていると、ノクスの足元のランプの火がふっと消えた。その機を狙っていたのか、大きな何かが上から飛び込んでくる。
顔を上げると、上空に次々と打ち上がっている炎の球を背に巨大な獣がいた。その目は赤く、鋭い眼光でイスカを睨みつけている。
──魔獣だ。そう呟いたノクスが、イスカのことを力いっぱい引き寄せる。その腕が震えていることに気づく間はなかった。
魔獣がイスカの目の前で巨大な口を開ける。
『見つけたぞ』
ぎゅる、と耳で拾った音が、頭の奥で言葉に変わった。それが目の前にいる魔獣の声だと理解できたのはイスカだけのようだ。
(──見つけた? 私を? どうして?)
大地が揺れる。闇を嫌う鳥たちが一斉に飛び立ち、不吉な声を上げている。獣の咆哮で木々が揺れ、近くの建物がばらばらと崩れる音を聞いた。
魔獣は真紅の瞳を見開くと、一度大きく息を吸い込んでから何かを吐き出してきた。
「イスカッ!!」
ノクスがイスカを抱きしめたまま真横へ飛ぶ。訓練を受けている騎士でもない二人は当然上手く着地することができず、地面を転がり小さく呻いた。
ノクスがすぐに起き上がり、イスカの無事を確かめるように身体に触れてくる。だがその腕からは血が流れていた。魔獣の攻撃を避け切れなかったのだろう。
「き、傷がっ……」
「僕のことはいい。それより貴女は? 痛いところはないか?」
震える唇を噛み締めながらイスカが頷くと、ノクスは苦しそうな顔をしながらも、ほっとしたように目元を和ませた。
イスカはノクスから魔獣へと視線を移した。怪我を負ってもなおイスカのことを守ろうとしているノクスを背に庇い、ぐらつく足で立ち上がる。
右手を動かすと、指先からじりじりと炎が浮かび上がった。左手を動かすと、足元からぶわりと風が吹き上がる。目の前の魔獣にイスカの魔術が通じるかは分からないが、魔力もなければ剣も使えないノクスを守れるのは自分だけなのだ。
耳を澄ますと、あちらこちらから声が聞こえた。逃げ惑う人々のものと、応戦する騎士と、魔獣の咆哮だ。
魔獣は一体だけではない。群れを作ってこの地を襲っているようだ。
イスカは目を閉じた。全身の毛が逆立つのを感じながら、指先に感覚を研ぎ澄ませる。一度機に炎と風を繰り出したことはないが、ふたつを組み合わせればノクスを逃す隙くらいは作れるだろう。
(一か八か──)
すうっと息を吸い込んで、全神経を両手に集中させた時。
「──馬鹿なことをするんじゃない」
柔らかい声とともに、白い光が目の前に舞い降りた。
目が眩むような光が広がり、世界を光で満たしていく。その輝きは一瞬で魔獣を塵と変えた。
光の主はリュミエールだった。黄金色の髪を靡かせながら、静かに存在している。
「……リュミ、エール殿」
リュミエールは魔獣を討伐してまわっているのか、くるりと身を翻すと、足音も立てずに去っていった。
残されたイスカは、その場にへなへなと座り込んだ。威勢よく立ち向かおうとはしたが、本当は怖かったのか、体が小刻みに震えている。
顔を上げると、自分を見下ろすノクスと目が合った。
腕の傷が痛むのか、顔を顰めながら傷口を手で押さえている。
「……貴殿は私を馬鹿と言ったが、それは君の方だ。戦えないくせに、私を庇うなんて」
イスカはくしゃくしゃに顔を歪めた。ところどころ擦り切れ、土や血で汚れてしまった寝間着の裾を握りしめながら、きゅっと唇を引き結ぶ。
「確かに僕は非力だ。あんな獣と戦う術なんてない。だが、目の前で貴女が襲われそうになっていて、何もしないわけがないだろう」
イスカはノクスの顔を見上げる。彼は柳眉をきつく寄せながら、青色の瞳を悲しげに揺らしていた。
──それは、どうして?
ひりひりと痛む胸に指先を手繰り寄せる。喉の辺りからとくとくと動く心臓へかけて、ぎゅうっと締め付けられるような痛みがあった。
それは先ほど感じた痛みとは異なっていた。




