第43話
ノクスに婚約を申し込んだのは、彼と恋がしたかったからだ。けれどそれは、願いごとを三つ叶えてもらうまでの間だけ。
彼の隣にずっといられたらと思う瞬間はあった。けれど、望んだことはない。なぜなら許されない願いだからだ。
だけど、本当は心の奥深くのどこかに存在していたのかもしれない。自分でも気づかないうちに、開けてはいけない箱に押し込めて蓋をしたのかもしれない。
そうして、今。閉ざされた箱は、ノクスがイスカよりも先に開けてしまったのだ。
イスカはまだ、何も言っていないのに。
「あの子はもう、この世のどこにもいないが──僕は約束を交わしたんだ。大きくなったら、お嫁さんにすると。だから──」
だから、何だと言うのだろうか。
この世を去った少女との約束があるから、イスカとは婚姻関係になることはできない。彼はそう言いたいのだろう。
「……もう、どこにもいないのに?」
思わず呟いていたイスカに、ノクスは苦しそうに頷いた。
「どこにもいない。だが、あの子は僕の中でずっと生きている。貴女が来てから、そう思えるようになった」
(わたしが、来てから?)
この世のどこにもいないのに。どこを探したって見つかりやしないのに。ノクスにあんな顔をさせてばかりいた“あの子”は、これから先もノクスの中で生き続ける。それはなんて──なんて、かなしくて苦しい希望だろうか。
動悸を抑えるように胸を押さえ、声を詰まらせ、イスカはノクスの青色の瞳を見つめる。
もう、逢えないのに。もう二度と逢えないのに。声を聞くとも、触れることも、笑い合うこともできないのに。それでもいいのだとノクスは微笑う。
だからイスカの隣に居続けることはできないのだと、遠回しにそう語っていたノクスの声は春の夜のように冷たく、イスカの胸を震わせていった。
「……心配、しないでくれ。無理難題は言ったりしないと約束しただろう?」
初めてまともに会話をした日。三つの願いを叶えてくれたら、彼の目の前からいなくなると約束したあの日、イスカは確かに言った。無理難題は決して言わないと。
だから彼に願ったことはどれもささやかなものだ。ドレスを見立ててほしい、名前で呼んで欲しい、そして三つ目は──。
三つ目に、イスカは何を願おうとしていたのだろう。
「──イスカ?」
ノクスが目を見開いたのと、イスカの中で何かが爆ぜたのは、どちらが先だっただろうか。
ほろりと、何かが頬を滑り落ちていく。
指先を頬に滑らせてみると、それは無色透明な雫だった。その正体が涙であると知ってしまった途端、降り出した雨のようにはたはたとこぼれ落ちていく。
「イスカ、どうして──」
困惑したように瞳を揺らしているノクスが手を伸ばしてくる。けれどその手は何にも触れることなく、宙を掻いた。イスカが拒絶するように後ろに下がったからだ。
ぎこちない動きで、イスカは床から足を剥がした。
一歩、二歩。足音を立てないようゆっくり後退していき、窓辺に辿り着いたと分かった瞬間、くるりと身を反転させて窓の縁に手を掛け、勢いよく飛び降りた。
「──イスカッ!!」
ノクスらしくない声が降ってきたが、イスカは構わず走り続けた。何度も、何度も呼ばれているうちに、足を止めてしまいそうになったが、それでもイスカは走り続けた。
早く、早く、早く。一刻も早く、遠くへ行きたい。ノクスのいない、ノクスのことを思い出さずにいられるような場所へ。
息が切れ、途方もなく遠く感じるその道のりの途中で、鼓動ばかりが速くなった。切れる息、激しく高鳴る胸に気付かぬふりをして、必死で夜の城下の町中を走る。
戻り方も分からなくなってしまうくらい、走った先で──イスカの足は止まった。
突然のことだった。
「────っ」
抉られるような痛みが胸に走る。三つ数えないうちに、その痛みは胸から全身に広がっていった。水の中に落とされたかのように、息も出来なくなっていく。
突然歯車が外れてばらばらになった機械のように、イスカはその場に崩れ落ちた。
痛い、痛い、痛い。刺し貫かれたように痛む胸を左手で押さえながら、背中を丸めて縮こまる。視界の隅で輝いていた星空は、瞬きを二つしないうちに朧げで。
イスカは月の見えない夜空へ震える右手を伸ばし、声にならない声で助けを乞うた。
──たすけて。こわい。かあさまがいないの。かあさまはどこなの。さむい。くるしい。
どこか遠くから、声が聞こえてくる。
か細い声だ。夜の闇に呑み込まれ、消えてしまいそうな声。
(あの声は──)
聞こえるはずのない声に耳を傾けていると、目の前が突然明るくなった。
「──イスカッ!!」
現れたのはノクスだった。窓から飛び降り去ったイスカを追いかけてきたのか、苦しそうに肩を上下させている。手に持っていた灯りでイスカの顔を照らし出すと、彼の美しい顔がきゅうっと歪んだ。
「こんな夜中に飛び出すなんて、馬鹿なのか!?」
星を掴めなかった右手に熱が灯る。
空っぽだった右手を掴んでいるのはノクスの手だった。
彼の手の温かさに驚いているうちに、胸の痛みはどこかへ消え去っていた。うまくできなかった呼吸も今は落ち着いている。
「夜間も警備で騎士が見回りをしているとはいえ、何かあったらどうするんだっ!」
ノクスは怒っているようだった。彼が怒る理由が分からず、イスカの中で沸々と何かが湧き上がってくる。
「き、貴殿こそ──」
くしゃりと、イスカは顔を歪めた。右手を掴むノクスの手を振り払い、彼から距離を取るようにずりずりと後ろに下がる。
「貴殿こそ、どうして追いかけてきたんだっ……」
「どうしても何も、目の前で婚約者が飛び降りたら追いかけるに決まっているだろう!」
──婚約者。彼の口から出る時、それはいつだって特別な響きを持って聞こえた。だけど今は、鋭利な刃物のようだった。
「……っ、放っておいてくれ!」
ノクスはイスカが婚約者だから追いかけてきたのだ。イスカだから追いかけてきたのではない。その事実がイスカの心を傷つけ、さらに涙を溢れさせてくる。
──止まらない。どうして涙が止まらないのだろう。
この婚約は一方的に取り決められたもので、本物でないことは、イスカが一番よく分かっている。けれど、その時間の中で、彼は“婚約者だから”という理由ではなく、自分自身の意思で手を差し伸べてくれたときがいくつもあったのだ。
それはイスカの胸を何度も躍らせ、時には震わせてきた。
だけど今、逃げるように飛び出していたイスカを追ってきた理由は──イスカが婚約者だからだという。
その事実がたまらなく苦しくて、悲しくて、さびしくて。びりびりと胸が痛んで、このままどうにかなってしまいそうだった。
イスカは涙で滲む世界の中心にノクスを捉えながら、震える唇で声を絞り出した。
「貴殿なんて──貴殿なんて、大嫌いだッ!!」
「────っ」
ノクスが息を呑んだまま唖然としたその時。
見張りの塔の鐘が、夢の世界にいる人々を呼び覚ます勢いで警告音を響かせた。




