表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
5章 忘却の蝶

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/60

第42話


 どういう心境の変化だろうか。

 胸の鼓動が忙しなく動き出すのを感じながら、彼の手元の本に視線を落とす。


 本は彼の手に渡るまでに壮絶な旅をしてきたのか、至る所がぼろぼろで、かろうじて表紙の絵が残っているが、タイトルが分からなくなっている。

 だが、イスカはその本の名前を知っている。


「──忘却の花」


 呟くと、ノクスが顔を跳ね上げた。


「知っているのか。この本を」


「うん。子供の頃に読んだことがあるよ。どんな結末だったかは忘れてしまったけど」


 イスカは指先でそっと本を撫で、ノクスの足下に座り込む。すると、ノクスは立ち上がってイスカに椅子を使うよう促した。


 イスカはやんわりと首を横に振った。きょとんとしているノクスの手を取り、並んでベッドに腰を掛ける。


 それから暫くの間、ノクスは本をじいっと眺めていたが、意を決したように顔を上げた。


「以前、この本はあの子が持っていたものだと話したのを覚えているか」

「うん」

「あの子は、僕がまだ子供だった頃──突然目の前に現れたんだ。どこからか逃げ出してきたのか、髪も服もぼろぼろで、おまけに裸足で。ただひとつ、この本だけを持っていた」


 ささやくような声で、ノクスは語った。


「どんな子だったんだい?」


「泣いてばかりいた。とても辛いことがあったのか、ずっと震えていて」


 ぱたりと、ノクスは本を閉じた。今日はもう続きを読まないのか、閉じた本の裏表紙に視線を落としている。


 ノクスの長い睫毛が震える。彼は囚われたように本を眺めていたが、ゆっくりと顔を上げていった。


「名前は、ルーネ。これは僕の憶測だが、本当の名を名乗るわけにはいかなかったから、この物語の主人公から借りていたのだと思う」


 ノクスの手の中にある本の名は“忘却の花”という。亡国の姫となってしまったルーネと、敵国の王子であるソルとの恋物語だ。


 結末は──果たしてどうだっただろうか。随分と昔に読んだものなので、イスカの記憶には残っていない。


「その子を、守れなかったと……言っていたね」


 ノクスはしばらく黙ったままでいた。

 どこか呆然としている。辛い過去を思い出して悲しくなってしまったのだろうか。ルーネを守れなかった自分のことを責めているのだろうか。


 耐えかねたイスカがノクスの手に触れようと、手を伸ばした時。彼は長い長いため息を吐いてから、顔を振り上げた。瞳は潤んでいた。


「ひとりぼっちになってしまった、と泣いていた。だから、僕がずっとそばにいて守ってやると、約束をしたんだ」


「……うん」


「その時僕は、まだ七つの子供で。他人を守ることはおろか、自分の身すら守れない子供だったというのに」


 かくんと、糸が切れた人形のようにノクスが下を向く。


「あの子は、僕を信じて……」


(その子は──)


 開きかけた口を咄嗟に噤む。

 イスカはノクスの頬へ手を伸ばし、ぴたりと手を押し当てた。


 今のノクスに掛ける言葉が見つからない。世界中どこを探したって、見つかりやしないだろう。悲しみの海に沈んでいる人に手を伸ばしたところで、共に溺れてしまうだけなのだから。


 ──だけど。


 イスカが雷に怯えて泣いたあの日。彼はずぶ濡れになるのも厭わずに、走って帰ってきてくれた。ひとり震えていたイスカを見つけ出し、抱きしめてくれた。


 あの瞬間、ノクスが分けてくれた熱を、イスカは今でも憶えている。


 そんな彼のために、イスカに出来ることがあるとしたら。返せるものがあるとしたら、それはきっと、ひとつだけだ。


 イスカは立ち上がり、ノクスの前へと回る。そうして、ノクスのことをぎゅうっと抱きしめた。


「──泣いたって、いいんだよ」

「────」

「辛いときは、辛いと言っていいんだ」


 もぞりと、ノクスが微かに身じろぐ。息をしづらくさせてしまったのかと思い、腕の力を緩めると、潤んだ瞳と目が合った。


「……貴女の目に映る僕は、泣きそうで、辛そうに見えるのか」


「うん。だけど、ずうっと我慢をしていたから、泣き方を忘れてしまったように見える」


「そうだな……」


 弱々しく、自嘲的にノクスは笑う。彼には似合わない表情だが、長い間心の奥深くにしまっていたものを取り出して、見せてくれたような気がして。


 ほんの少しだけ、彼に近づけたのだとも思えて、イスカは顔を綻ばせていた。


「……貴女はいつも笑っているな」


「笑っていた方がいいからさ。泣きたくなる時もあるけどね」


 イスカはノクスから離れ、わざとらしく伸びをした。ちっとも眠くはないが、欠伸もしてみる。すると、背後でノクスが立ち上がる気配がした。


「──イスカ。願いが三つ叶ったら僕の前から去ると、貴女は言っていたな」


 イスカが身体ごと振り向くと、ノクスはかたい表情でイスカを見つめていた。


「もしも三つ目に、婚約の続行を願われたら──申し訳ないが、僕は叶えてあげられない」


 こくりと、喉が鳴った。

 何か言わなければと唇を開いたが、何一つ発せなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ