第42話
どういう心境の変化だろうか。
胸の鼓動が忙しなく動き出すのを感じながら、彼の手元の本に視線を落とす。
本は彼の手に渡るまでに壮絶な旅をしてきたのか、至る所がぼろぼろで、かろうじて表紙の絵が残っているが、タイトルが分からなくなっている。
だが、イスカはその本の名前を知っている。
「──忘却の花」
呟くと、ノクスが顔を跳ね上げた。
「知っているのか。この本を」
「うん。子供の頃に読んだことがあるよ。どんな結末だったかは忘れてしまったけど」
イスカは指先でそっと本を撫で、ノクスの足下に座り込む。すると、ノクスは立ち上がってイスカに椅子を使うよう促した。
イスカはやんわりと首を横に振った。きょとんとしているノクスの手を取り、並んでベッドに腰を掛ける。
それから暫くの間、ノクスは本をじいっと眺めていたが、意を決したように顔を上げた。
「以前、この本はあの子が持っていたものだと話したのを覚えているか」
「うん」
「あの子は、僕がまだ子供だった頃──突然目の前に現れたんだ。どこからか逃げ出してきたのか、髪も服もぼろぼろで、おまけに裸足で。ただひとつ、この本だけを持っていた」
ささやくような声で、ノクスは語った。
「どんな子だったんだい?」
「泣いてばかりいた。とても辛いことがあったのか、ずっと震えていて」
ぱたりと、ノクスは本を閉じた。今日はもう続きを読まないのか、閉じた本の裏表紙に視線を落としている。
ノクスの長い睫毛が震える。彼は囚われたように本を眺めていたが、ゆっくりと顔を上げていった。
「名前は、ルーネ。これは僕の憶測だが、本当の名を名乗るわけにはいかなかったから、この物語の主人公から借りていたのだと思う」
ノクスの手の中にある本の名は“忘却の花”という。亡国の姫となってしまったルーネと、敵国の王子であるソルとの恋物語だ。
結末は──果たしてどうだっただろうか。随分と昔に読んだものなので、イスカの記憶には残っていない。
「その子を、守れなかったと……言っていたね」
ノクスはしばらく黙ったままでいた。
どこか呆然としている。辛い過去を思い出して悲しくなってしまったのだろうか。ルーネを守れなかった自分のことを責めているのだろうか。
耐えかねたイスカがノクスの手に触れようと、手を伸ばした時。彼は長い長いため息を吐いてから、顔を振り上げた。瞳は潤んでいた。
「ひとりぼっちになってしまった、と泣いていた。だから、僕がずっとそばにいて守ってやると、約束をしたんだ」
「……うん」
「その時僕は、まだ七つの子供で。他人を守ることはおろか、自分の身すら守れない子供だったというのに」
かくんと、糸が切れた人形のようにノクスが下を向く。
「あの子は、僕を信じて……」
(その子は──)
開きかけた口を咄嗟に噤む。
イスカはノクスの頬へ手を伸ばし、ぴたりと手を押し当てた。
今のノクスに掛ける言葉が見つからない。世界中どこを探したって、見つかりやしないだろう。悲しみの海に沈んでいる人に手を伸ばしたところで、共に溺れてしまうだけなのだから。
──だけど。
イスカが雷に怯えて泣いたあの日。彼はずぶ濡れになるのも厭わずに、走って帰ってきてくれた。ひとり震えていたイスカを見つけ出し、抱きしめてくれた。
あの瞬間、ノクスが分けてくれた熱を、イスカは今でも憶えている。
そんな彼のために、イスカに出来ることがあるとしたら。返せるものがあるとしたら、それはきっと、ひとつだけだ。
イスカは立ち上がり、ノクスの前へと回る。そうして、ノクスのことをぎゅうっと抱きしめた。
「──泣いたって、いいんだよ」
「────」
「辛いときは、辛いと言っていいんだ」
もぞりと、ノクスが微かに身じろぐ。息をしづらくさせてしまったのかと思い、腕の力を緩めると、潤んだ瞳と目が合った。
「……貴女の目に映る僕は、泣きそうで、辛そうに見えるのか」
「うん。だけど、ずうっと我慢をしていたから、泣き方を忘れてしまったように見える」
「そうだな……」
弱々しく、自嘲的にノクスは笑う。彼には似合わない表情だが、長い間心の奥深くにしまっていたものを取り出して、見せてくれたような気がして。
ほんの少しだけ、彼に近づけたのだとも思えて、イスカは顔を綻ばせていた。
「……貴女はいつも笑っているな」
「笑っていた方がいいからさ。泣きたくなる時もあるけどね」
イスカはノクスから離れ、わざとらしく伸びをした。ちっとも眠くはないが、欠伸もしてみる。すると、背後でノクスが立ち上がる気配がした。
「──イスカ。願いが三つ叶ったら僕の前から去ると、貴女は言っていたな」
イスカが身体ごと振り向くと、ノクスはかたい表情でイスカを見つめていた。
「もしも三つ目に、婚約の続行を願われたら──申し訳ないが、僕は叶えてあげられない」
こくりと、喉が鳴った。
何か言わなければと唇を開いたが、何一つ発せなかった。




