第41話
イザーク・ハインブルグは、妻の死をきっかけに人が変わったようになってしまった。
日に一度は娘を抱きしめ、満面の笑みで愛を囁くような人だったというのに、いつしか彼は娘のイスカを邸の中に閉じ込めるようになった。
それから何をされていたのか、イスカはよく憶えていない。
気がついた時には自分の部屋にいて、身の回りの世話をする使用人や家庭教師が部屋を出入りしていた。そうして夜が来たら、また朝が来て──同じことの繰り返しだ。
いつしかその日々に飽きていったイスカは、ある日、カーテンを使って窓から外へと飛び出した。いつもは見下ろすだけだった邸の庭は思っていた以上に広く、久方ぶりに間近で花を見た時は感動で胸が震えたものだ。
その時、ふたりの少年がイスカへと手を差し出した。
──お前、転んだのか?
──ああ、手がどろんこですよ。痛い痛いですか?
イスカと同じ年頃の少年だった。
一人は品の良さそうな服を着ているが、もう一人は寝癖なのか癖っ毛なのか分からない髪に目が行く子供だった。
──わ、わたしは……。
喉から出たのは、自分のものとは思えない声だった。
耳に馴染まないそれに驚きながらも名前を名乗ると、彼らはイスカを立たせ、一緒に遊ぼうと誘ってきた。
差し出された手は、自分のものと変わらない大きさで。
勇気を出して手を伸ばしてみると、二人はこの上なく嬉しそうに笑い、イスカの手を握った。
それが、アスランとエヴァンとの出会いだった。
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懐かしい夢を見ていたような気がした。けれど、その内容までは覚えていない。目を覚ますといつも、幸せな夢はどこかへ消えてしまっている。
軽く身支度を整えて食堂へと降りると、ノクスがコーヒーを片手に書類と睨めっこしていた。レースのカーテンの隙間から伸びる光が、ノクスの端正な顔を照らしている。
「おはよう、婚約者殿」
「ああ。おはよう」
ノクスはイスカを一瞥すると、再び書類に目を走らせていた。急ぎの仕事だろうか。
「何かあったのかい?」
「ハルメルス卿からの報告書だ」
イスカはノクスの向かいに腰を下ろした。気の利く侍女が運んできてくれた白湯を飲みながらノクスを眺めていると、視線に気づいた彼が書類から顔を上げ、手に持っていたそれをイスカの前へと差し出す。
三枚綴りの紙の表には昨晩の日付が記されていた。
「昨日の調査報告書だ」
「ローリエ殿は無事なのかい?」
「無論だ。朝方帰ってきて、この報告書を書いてすぐに気絶するように寝たと辺境伯が言っていた」
ローリエはリュミエールと共に魔獣の巣の調査へ出向いている。魔獣は夜になると活発に動き出す為、巣を探し出して調べるにはこちらも夜間に動く必要があるのだ。
報告書には発見した巣を数カ所調査したが、特に異常は見つからなかったと書かれていた。昨夜はメルスから少し離れた人里でも出没したそうだが、そちらも問題なく討伐されたようだ。
「……ふむ。異常はないんだね」
「なのに増えている。時には日中にも現れ、人を襲うそうだ」
なぜハルメルス領で魔獣の出没が増えているのだろうか。他の領地と比べて安全な土地が少ないというのも理由の一つだろうが、だからといってあちらこちらに魔獣の巣があるわけではないだろう。奴らは人に見つかりにくい場所に巣を作る。
「領民は気が気じゃないだろうね。全員がメルスに移住するわけにもいかないだろうし」
「そうだな。僕はそれが最善の安全策だと考えているが、生まれ故郷を離れたくない領民もいるようだ」
身の安全のために、せめて原因を突き止めるまで避難してくれたのなら──そう語るノクスの表情はとても硬い。
ハルメルス領には自警団と辺境伯が所有している騎士団、二つの軍組織がある。二つとも領の平和を守るために組織されたものだが、自警団は主に領内の巡回と警備を行い、騎士団は辺境伯の指揮の下、魔獣の討伐をするのが主な仕事のようだ。後者はヴィルジールが新たな皇帝となったことで、戦へと駆り出されることはなくなった。とはいえ、毎晩魔獣の討伐に出ていては気が休まらないだろう。
せめて、魔獣と話をすることができたのなら。
あり得ないことだと分かっていても、そう考えられずにはいられない。
その晩、イスカはノクスの客室を訪ねた。夜分に来たことに対してなのか、真っ当にドアから訪ねたことに驚いているのかは分からないが、その時のノクスの顔は大変面白いものであった。
「──こんな時間にどうしたんだ」
意外なことに、ノクスはすんなりと部屋に通してくれた。彼は窓辺で読書をしていたのか、開かれたまま下を向いている本がある。
時計の針は二本とも真上を向いている。いったい何時に寝るつもりなのだろうか。
「ええと……眠れなくって」
「考え事でもしていたのか? それとも昼寝をしすぎたか」
「昼寝なんてしてないよ」
イスカが笑うと、ノクスもつられたように柔らかな表情を浮かべた。
「適当に座るといい」
イスカは頷いてベッドの端に腰を下ろした。
ノクスは読書の続きをするつもりなのか、窓の前にある一人掛けのソファに座った。
静寂に満ちた部屋に、しなやかな指先がページを捲る音だけが落ちる。彼の視線を独り占めしている本のタイトルが気になり、音を立てないように近づいていくと、ノクスが顔を上げた。
「……どうした?」
「な、何の本を読んでいるのかなあって思って」
イスカは咄嗟に両手を後ろへ隠し、へらりと笑った。何も持っていないが、なんだか隠したくなってしまったのだ。
ノクスは本に栞を挟み、イスカに見せるように突き出した。
その本は、以前ノクスの部屋の本棚の片隅にあったもので。
「──読んでみようと思ったんだ」
ノクスに悲しい顔をさせた“あの子”が持っていた童話の本だった。




