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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
5章 忘却の蝶

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第40話


 ハルメルス領に来て三日目の夕刻に、領の自警団と魔術師のリュミエールが城外へ出ることになった。晴れて同盟が成った今、二国間で魔獣の討伐が行われるのである。


 リュミエールはローリエを含む少数精鋭の剣の使い手を率いて、魔獣の巣の調査に向かうそうだ。白磁の仮面の下には、どんな素顔が隠されているのだろうか。


 門前は自警団を見送りに来ている人で溢れかえっている。彼らと同じく見送りにきていたイスカは、ローリエと話をしているリュミエールのことを遠巻きに見つめていた。


 軍府魔術省長官、リュミエール。常に仮面で顔を隠しているため、その素顔を知る人は誰もいないという。大貴族の令息であるセドリックを差し置いて長官の座に就いた彼は、なんと平民の出なのだそうだ。


 それほどまでに能力が高いのか、或いは他に理由があるのか。


 首都の城下町でイスカが魔獣に襲われ、重傷を負った時。魔術省に運び込まれたイスカの手当てをしたのは、リュミエールだと聞いている。


 あの時のお礼がまだ言えていないことを思い出したイスカは、仮面の貴人の元へと歩みを進めた。


「──リュミエール殿」


「これはこれは、公爵令嬢」


 リュミエールは深々と頭を下げる。

 風に靡く髪はイスカよりも色濃い黄金色で、そのまま溶けて光になってしまいそうなくらい透き通っていた。


「あら、イスカちゃん。見送りに来てくれていたのね」


「それもあるのだが、リュミエール殿に御礼を伝えたくてね。すっかり遅くなってしまったが」


 イスカはリュミエールに向き直り、公爵令嬢らしいお辞儀を披露する。


「魔術省長官リュミエール殿。先日は私の命を救ってくださりありがとうございました」


「とんでもございません。あれからどうしていたのか気になっていたのですが、貴女の婚約者殿から元気にしていると聞いて、安心していたのですよ」


 リュミエールは胸の前で手を組みながら、丁寧に頭を下げる。それは目上の人に対してする礼法の一種だ。


 イスカは公爵家の人間ではあるが、彼が頭を下げる必要はない。寧ろ礼を尽くすのはこちらだというのに。


 不思議に思いながらも黙っていると、笛の音が鳴り響き、先頭に現れた辺境伯が声を張り上げていた。どうやらもう出発の時間のようだ。


「ご武運を、リュミエール殿」


 イスカの言葉にリュミエールは頷く。しかしリュミエールは動こうとしない。もうローリエは門の前にいる辺境伯の元へと行き、馬に跨っているというのに。


 ふわりと、黄金色の髪が靡く。

 その時、風はささやきかけてなどいなかった。


「最近、身体の調子は如何ですか?」


 イスカは顔を上げ、頭二つ分背が高いリュミエールを見上げる。硬質な白い仮面が今はやけに冷たく感じられた。


「……? 私はすこぶる元気だが」


「では、匂いがわからなくなったり、味覚がおかしくなったりしたことは?」


 イスカは首を傾げた。魔獣に襲われたことによる後遺症でも心配してくれているのだろうか。だが、その傷は全て目の前にいるリュミエールが完治させてくれたと聞いている。


「味覚がおかしいのは元々だが」


「では、忘却の蝶というものに聞き覚えはありますか?」


 イスカの眉が微かに動く。

 聞いたことがあるかと訊かれたら、答えは是だ。その単語の出所は、亡き父の口からだが。


「……リュミエール殿は、私の父と親しかったのか?」


「親しかったも何も、私は公爵の部下でしたから。公爵邸の庭で貴女が元気に駆け回っていたのも憶えています」


 リュミエールの静かな声音が耳を打つ。

 それはつまり、イスカの父に仕えていたということ。それが意味することはただ一つ。氷の塊となって砕け散ったイスカの父が、何を成そうとしていたのかを知る数少ない人間のうちの一人ということだ。


「…………父は」


 不自然に言葉を切り、顔を俯かせる。口を閉ざしたイスカの頭を、リュミエールがそっと撫でた。


「それ以上は、私の口からは何も申せません。どうしても知りたいのなら、公爵家の本邸にお行きなさい」


 リュミエールの手が離れる。

 顔を上げた時にはもう、リュミエールはその場からいなくなっていた。



 ──忘却の蝶。それは、今は亡きイスカの父であるイザーク・ハインブルグが創り出そうとしていたものだ。


 イザークは類い稀なる魔術の才を持ち、歴史に名を残す魔術師になるであろうと謳われていた。


 妻は北方の領地を持つウォルターズ公爵の娘で、セシルの母親とは姉妹にあたる。二人は政略結婚だったが、とても深い愛情で繋がっていた。


 待望の末に生まれたイスカは跡取りとなれる男児ではなかったが、イザークは後継者としての教育を施した。妻がもう子を望めない身体になっても、他に妾を持つこともせず、妻も娘も心から愛し慈しんでいた。


 ──十年前、妻のセレーネが賊に襲われ命を落とし、娘のイスカまでも行方不明となった、あの事件の前までは。


「──何かあったのか?」


 見送りの後、部屋に戻ったイスカの元へノクスが訪ねてきた。イスカの様子がおかしいことに気づいたようで、彼が持っているトレーにはハルメルス領特産の果実を使った菓子とティーセットが乗っていた。


 ノクスが手ずから注いだお茶は綺麗な琥珀色で、ほんのりと甘い匂いがした。彼が好きなのは渋めのお茶だというのに、イスカの好みに合わせてくれたようだ。


「なんでもないよ。ただ少し、疲れが出てしまったようで」


 イスカは口の両端を上げてから、カップに口をつけた。まだ砂糖を入れていないのか、何の味もしなかった。


「……ハルメルス卿から薦められた茶葉なんだが、どうだ? 砂糖を入れずともとても甘いらしい」


 向かいに腰を下ろしたノクスが、じいっとイスカを見つめながら訊いてくる。


 イスカは琥珀色のお茶を眺めながら、あまいよ、と呟いた。


 何度口に運んでも、味はわからなかった。

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