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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
5章 忘却の蝶

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第39話


 シャンデリアの光が眩しい。何組もの着飾った男女の姿を眺めながら歩いていると、隣を歩くノクスに「キョロキョロするな」と呆れられた。


 イスカは今、ノクスのエスコートを受けて歩いていた。彼のそれはお世辞にもスマートとは言えないが、誰もが目を奪われるような端正な顔の持ち主であるのと、元々の立ち振る舞いが綺麗だからか、中々様になっている。


 首都を出た時は、エスコートなんて言葉は知らなさそうだったというのに。一体いつのまに勉強していたのだろうか。


 感心しながら歩いていると、ノクスが薄い唇を開いた。


「……そのドレスは?」


「ああ、これかい? これは昨年仕立てたものなんだが、着る機会がなくて眠っていたんだ」


 イスカはその場でくるりと回ってみせる。

 出発前に一度首都にあるハインブルグ家の別邸に戻ったイスカは、今着ているドレスを引っ張り出してきたのだ。光沢のある滑らかな生地が使われているこのドレスは、サテンロングドレスといい、丈が長く足元まで届いている。


 長身であるイスカのために作られたようなこのドレスは、シャンデリアの光を受けて神秘的に輝いていた。


 一方、隣にいるノクスの胸元では淡い色のタイが結ばれている。シャツもジャケットもスラックスも黒色だが、首元のタイだけは空色だった。


 そう、それはまるでイスカの瞳の色のようである。


 まさかと思う一方で、信じられない思いにイスカの胸は高鳴っていた。



 ノクスはどこへ向かっているのだろうか。主賓であるエクウォルの大使とセシルと合流するのかと思いきや、彼は一度挨拶をしただけで、そのまま中央へと突き進んでいる。


 まさか踊る気なのだろうか。不思議に思いながら横顔を見つめていると、彼はホールの中央で足を止めた。


「婚約者殿?」


「それ、やめないか」


 ノクスがゆっくりとイスカに向き直る。

 同時に、ピン、と張り詰めた弦の音が鳴った。

 ファーストダンスの時間が近づいているようだ。煌めくシャンデリアの下、そこかしこでやり取りが聞こえてくる。


「やめるって──」


 何をだろうか、というイスカの声は、音にはならなかった。


「──僕と、踊って頂けますか」


 ノクスの手がイスカへと差し出されている。

 信じられない思いに目を見開きながらも、イスカは声を絞り出した。


「き、貴殿は踊れないと……」

「無論、踊ったことはない」

「踊れないって、言っていたと……思うのだが」


 イスカはごにょごにょと口を動かした。

 そもそも、ノクスはこういった華やかな場が嫌いではなかっただろうか。彼と踊れる日を夢に見たこともあったが、まさかこんな日が来るとは思ってもみなかった。

 

 知らぬ間に練習をしていたのだろうか。何でもこなしてしまいそうなセバスチャンから教わったのだろうか。それとも、ひっそりと先生を呼んでいたのだろうか。


 目が回りそうな思いでノクスを見つめていると、彼は不満げに眉を寄せた。


「やはり、嫌か? 平民の僕と踊るのは」


「ち、違うよ! その……とても驚いていて」


 イスカは慌てふためきながらも、ノクスの手に自分の手を重ねる。


 すると、ノクスの顔に初めて見る表情が浮かんだ。


「なら、よかった」


 それはとてもささやかな微笑みだった。

 美味しいものをひと口食べて、思わず気が緩んでしまった時のような。


 一見すると女に見紛うほど整った容姿のノクスだが、手のひらはイスカよりずっと大きくて、皮膚は分厚くて。


 イスカは幸せを噛み締めるように、ノクスとの距離を詰めた。



 楽団が奏でるワルツは、貴族の子ならば誰もが踊れる著名な曲だった。目と耳を塞いでも自然と足を動かすことができるくらい、イスカには馴染みのある楽曲だ。


 密着して踊っているノクスは、難しい顔で足を動かしている。その様子から察するに、一夜漬けとまでは言わないが、短期間で覚えてきたのだろうと思った。


「嬉しいな、一緒に踊れるなんて。まさか貴殿が踊れるようになっていたなんて」


 ノクスの眉間の皺が深くなっていく。

 本来ならば見つめ合いながら踊るものだが、ステップを踏むだけで精一杯の彼にはまだ難しそうだ。


「……覚えたんだ」

「どうやって?」

「セネリオ夫人から渡された本で」


 ノクスがワルツを覚えたのはエヴァンからの差し金だろうか。それとも夫人が親心で渡したのだろうか。

 恐らく後者だろうと思っていると、ようやくノクスが顔を上げた。


「勘違いしないで欲しいんだが、僕は夫人に言われたから本を読み込んだわけではない。今日この日、貴女の婚約者として、貴女と踊りたかったから──一晩で覚えてきたんだ」


 戸惑いがちに動く手が、イスカの身体をくるりと回す。全てにおいて他の人たちよりも動きがワンテンポ遅いが、気づけば周りなんてどうでもよくなっていた。


「貴殿が……私と?」


 ワルツはたったの一晩で覚えられるものではない。いくらノクスの頭が良くて、記憶力がずば抜けていたとしても、何通りもあるそれを覚えるのは困難だ。


 一体どれほどの時間をかけたのだろう。

 他の誰でもない、イスカのために。


「貴女とファーストダンスを踊っていいのは僕だけだろう。──現時点では」


 澄ました顔で告げるノクスに、イスカは顔を綻ばせた。

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