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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
5章 忘却の蝶

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第38話


 調印式でのノクスの姿は立派なものだった。


 何だあの黒ずくめの若造は、と囁く輩がいる中で、彼は威風堂々たる態度で壇上へ向かい、帝国の執政官の代表としてそこに立っていた。


 その姿に見惚れていたのはイスカだけではない。周囲の人間が息を呑んでいたのは勿論のこと、彼のそばにいたセシルも、彼と向かい合っていたエクウォルの大使も、目を瞠りながら彼を見ていた。


 互いの国の君主からの書状を読み上げ、同盟について記された書面にサインをし、握手をする。それだけのことだったが、それだけのために遥々この地にやって来たノクスの姿は、目に焼き付けたくなるくらい格好よかったのだ。


 初めに立ち上がって拍手をしたのはイスカだと、彼は気づいてくれただろうか。



 式の後、イスカは案内された客間に入り、大きなベッドに倒れ込んだ。旅の疲れが出たのか、体が重いのだ。


 イスカは風邪一つ引かないくらい健康体だが、これでも一応蝶よ花よと大切に育てられた令嬢である。ここまで宿を取りながら来たとはいえ、身体は疲れているようだった。


 模様のない天井をぼんやりと眺めながら、ゆっくりと息を吐き出していく。このままひと眠りしたいところだが、夜会の準備をしなければならない。女の身支度は時間が掛かるのだ。

 イスカは体を起こし、バスルームの扉を開けた。



 その日の夜のこと。

 ハルメルス領の領館の前では、着飾った男女が続々と馬車から降りてきていた。


 今日(こんにち)オヴリヴィオ帝国とエクウォル王国の間では同盟が結ばれた。その調印式を終えたばかりだが、今宵は親睦会が開かれるのだ。


 身支度を整えたイスカは、会場のどこかにいるであろうノクスを探して歩いていた。物珍しい色のサテンロングドレスを身に纏っているせいか、すれ違う男たちからひっきりなしに声を掛けられている。


 ノクスもきっと黒色の服を着ていると思い、彼に合わせて衣装を選んできたのだが──肝心なノクスの姿が見当たらない。一度客室に戻るか迷っていると、すれ違いざまに誰かの肩がぶつかった。


「──これは失礼」


「いえ、こちらこそ」


 足を止めて謝ってきたのは、赤髪の長身の男性だった。頭には輪っかのような飾りを着けており、翡翠のような石が額で煌めいている。見たことのない装飾品と衣装だ。彼はエクウォルの人だろうか。


 向こうも同じことを考えていたのか、イスカのことをまじまじと眺めていたが、すぐに微笑みを飾った。


「美しい人ですね。貴女のお名前は?」


「イスカーチェリ・ハインブルグと申します」


 イスカは流れるような動きで片足を後ろに引き、軽く膝を曲げ、身を低くさせた。


「ハインブルグ……そうか、貴女があの男の」


 男が感心したように頷く。ハインブルグ家のことを知っているような口ぶりだが、嫌な予感しかしなかったイスカは軽く身を引いた。


 今すぐここから立ち去るべきだと、イスカの中の何かが告げている。


 イスカは笑みを張り付け、男と距離を取りながら軽く一礼した。


「パートナーが待っているので、失礼いたします」

「どちらにいるんです?」

「会場のどこかに──」


 男の手がイスカの手首を掴んだ、その時だった。


「待たせてすまない」


 よく聞き知った声が背後から降る。ふわりと肩に添えられた手を辿るように目を動かすと、そこにはノクスが立っていた。急いできたのか、彼は肩で息をしている。


「……婚約者殿」


 イスカは弾かれたように顔を上げた。待ち合わせをしたわけでもなければ、エスコートを頼んだわけでもない。ノクスは仕事で来ているのだから、今夜はワインを片手に要人たちと今後の話でもするのだろうと思っていた。


 なのに、どうして。


「僕の婚約者に何か?」


 どうしてノクスは今、イスカを庇うように立っているのだろうか。


 エクウォルの男はノクスの姿を認めた瞬間、焦ったように周囲を見回し、取ってつけたような笑みを浮かべながら頬を掻いた。


「これはこれは、失礼いたしました。お一人だったものですから、パートナーはいらっしゃらないものだと」


「見ての通りだ」


 ノクスの声色が不機嫌なものに変わる。

 イスカは慌ててノクスの袖口を掴み、くいっと引っ張った。


「こ、婚約者殿」


 ノクスがゆっくりと振り返る。相も変わらず黒色の服を纏っていたが、胸元のタイだけは色が違っていた。口を開けたまま呆けるイスカに、ノクスはますます不機嫌な表情になっていく。


「ひとりで何をしていたんだ」


「貴殿を探していたんだよ。そうしたらぶつかってしまってね」


「それで捕まっていたのか?」


 ノクスがイスカの手を掬い上げる。思った以上に強く握られていたのか、先ほど男に掴まれた手首は赤くなっていた。


「捕まっていたというか、掴まれたっていうか」


「同じだろう」


 ノクスは溜め息を吐きながら、赤くなったイスカの手首を指先でなぞる。撫でているのか摩っているのか分からないが、壊れ物に触れるかのように優しい手つきだった。


 ノクスの睫毛はこんなにも長かっただろうか。


 見ているだけでため息が出そうになるくらい美しい顔を眺めていると、ノクスが急に顔を上げた。


 翳りのない宝石のような彼の瞳に映る自分と目が合った時。じくじくと、胸の辺りで重い痛みを感じた。

 

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