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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
5章 忘却の蝶

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第37話


 首都を出てから五日目。同盟の調印式に出席するために首都を出た一行は、セネリオ領とリベラ領を経由して帝国最東の地・ハルメルス領へと入った。


 ハルメルス領は広大だが、その多くは人が住めるような土地ではない。規模に対して領民の数は少なく、その殆どは中心地であるメルスという街で暮らしている。


 メルスは長きに亘って帝国を外敵から守ってきた街である。街全体が城壁や土塁、堀などで囲まれ、外敵の侵入を防ぐように防御された造りになっており、街そのものが要塞化されているのだ。


 その為、メルスに入る前には厳しい検査を受けることになる。身元が証明できるものを提示し、訪問の目的を伝え、危険物を持ち込んでいないか持ち物まで検査をされるという。


「──メルスに到着いたしました」


 荒野に見飽きた頃、一行は目的地であるメルスに到着した。御者が扉を開けると、相も変わらず黒色の礼服を着ているノクスが馬車を降りていった。


 馬車を降りたノクスは、中を振り返ってイスカに右手を出してきた。その左手にはイスカの日傘が握られている。


「ありがとう」


 イスカはノクスの手を借りて馬車を降り、帝国唯一の城塞都市であるメルス城を見上げた。


「高いなぁ。こんなの、敵はどうやって攻めるのだろう」

「……登れるか?」

「私はね、落ちたら即死級の壁は登らない主義なんだよ」


 どんな主義だ、とノクスが微笑う。

 イスカはノクスが広げてくれた傘の下に滑り込み、けらけらと笑った。



 検査は滞りなく終えた。帝国の騎士団の一隊──それも皇帝の片腕であるアスランの隊が同行しているというのに、皇族の紋章が入った馬車の中まで検分されそうになるという事態に陥ったが、セシル自らが身元を明らかにしたことで収まった。


 なんと、その時セシルは馬車を降り、門番に一通の文を突き出したのである。


『──お仕事お疲れ様です。これをご確認頂けますか?』


 門番は本当に皇族なのかを怪しんでいたのだろう。こんな僻地に皇族が来るわけなどないと思うのは普通のことだ。


 訝しげな顔で文を受け取った門番だったが、封を開けた五秒後には「ひぃいっ」と声を上げて倒れた。


 セシルが提示したのはヴィルジール直筆の文だったのだ。そこには流れるような字で“早く通せ。さもなくばどうなるか分かっているだろうな”という旨が記されていたとか。


 後から聞いた話だが、その門番は新入りで、調印式に出席する一行が首都から来ることを知らなかったのだそうだ。馬車に乗っていたのがセシルではなくヴィルジールだったら、今頃どうなっていたのだろうか。



「確か、調印式は正午からだったね」


 イスカとノクスは迎賓館でセシルと別れ、調印式が執り行われる領館へと向かって歩いていた。馬車を使った方が早いが、いい加減に歩きたいとノクスが言い出したのである。彼はイスカとは違い馬車に不慣れだ。尻が痛くなったのだろうと思うことにした。


「ああ。その後は領館にエクウォルの大使を招いて夜会を開く予定だ」


 ノクスの顔が渋いものに変わっていく。非社交的な性格なうえ貴族嫌いである彼は、夜会や舞踏会といった貴族が主体となっているイベント事が苦手だ。何かと理由をつけて退散したいところだろうが、今回は国の代表として来ている身だ。逃げるわけにはいかないと本人も分かっていることだろう。


 せめてその時間を、良いものに塗り替えられたのなら。

 イスカは分厚い日傘の下で、ひとり考えを巡らせるのだった。


 領館ではローリエが待ち構えていた。一行の到着を誰よりも待ち焦がれていたらしく、イスカの姿を見つけるなり、大きな声で名前を叫びながら抱きついてきた。


「イスカちゃーん! 待ってたわよーん」


「ローリエ殿! お元気そうで何よりだ」


 首都で会った時は目が痛くなるくらいに煌びやかな格好をしていたローリエだが、今はきちんとした男物の礼服を着ていた。腰に佩いている剣の装飾は見ていて重そうだと感じたが、他はその辺を歩いている騎士と変わらない。


 ローリエと再会を喜び合っていると、隣にいるノクスが呆れ顔で間に割って入ってきた。


「ハルメルス卿。ところ構わず女性と触れ合うのはやめていただけますか」


 怒っている。ノクスの顔はいつもの無表情だが、イスカにはそう見えていた。

 でも、何故だろうか。彼が怒る理由が分からない。


「心の狭い男は嫌われるわよって、アタシ言ったわよね?」


「どうぞ嫌ってくださって結構です」


 ノクスの腕がイスカの腰に回される。突然のことに驚く間もなく、イスカはノクスの方へと引き寄せられた。


 予期せぬ事態に、イスカは口をぱくぱくとさせた。

 自分は今、ノクスに何をされているのだろうか。見れば分かることだが、頭の中は大混乱である。


「ふーん、へーえ、なるほどねぇ」


 ローリエは含みのある声で呟き、にやにやと笑っている。

 何が成程なのだろうか。イスカには全く分からない。


 イスカは腹部に回されているノクスの腕に触れ、恐る恐る後ろに顔を向けた。


「あのう、婚約者殿。私は今、抱きしめられているのだろうか」


「そんなわけがないだろう」


 ノクスはふいっと顔を逸らす。そうは言っているものの、彼の腕はまだイスカの体に回されたままだ。


「ならばこの腕はなんだい? 何をしているんだい?」


「……確保しているんだ。貴女が猿の真似事をしないよう掴んでいろと、宰相に頼まれている」


「ええっと……それを言われたのは私のような気がするけれど」


 それがどうしたと言わんばかりの顔でノクスが見返してくる。

 たまらなくなって、イスカは声に出して笑った。


 ローリエが誰かに呼ばれてやむなく立ち去ると、ノクスは我に返ったのか、イスカからぱっと手を離した。目を見開き、僅かに驚いたような表情をしていたのを見ると、どうしてこんなことをしたのかは彼自身にも分かっていないようだった。


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