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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
4章 雨夜の旋律

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第36話

 日が沈む頃に一行はセネリオ伯爵領に入った。ハルメルス領へは五日かかる為、今夜はここで宿を取るのだ。


 セネリオ伯爵家は現宰相であるエヴァンの生家である。新興貴族であるため歴史は浅いが、エヴァンを含め優秀な文官を輩出している。領地の面積は首都の四分の一ほどだが、夜でも明かりと笑いが絶えない賑やかな地である。


 セネリオ伯爵家の本邸に到着すると、一人の貴婦人が出迎えた。


「ようこそお越しくださいました」


 貴婦人はおっとりとしたタレ目を和らげながら微笑む。飾り一つないブラウンのドレスは貴族にしては随分シンプルだが、歩き方や礼儀作法は淑女そのものであった。後ろできっちりと結い上げられている髪は焦げ茶色で、その雰囲気と目元といい、見れば見るほどエヴァンの姿を彷彿とさせる。


 もしやと思っていると、またもや馬車から飛び降りてきたイスカが貴婦人の元へと駆け寄っていった。


「夫人!」


「まあまあ、イスカちゃん。しばらく見ない間に綺麗になったこと」


 貴婦人の胸に飛び込んだイスカは、幼い子供のようにふにゃりと笑う。彼女を受け止めた貴婦人は久方ぶりに帰ってきた娘を出迎えるかのように、イスカを両腕で抱き締めている。


 貴婦人の正体はエヴァンの母君で間違いないようだ。

 ノクスは二人の元へと歩み寄り、作法の教本通りのお辞儀をした。


「お初にお目に掛かります。セネリオ伯爵夫人」


 夫人の目がイスカからノクスへと移る。

 夫人はノクスをしげしげと眺めたのちに、お返しをするように頭を下げてきた。笑顔がエヴァンにそっくりである。


「初めまして、セネリオ伯爵の妻のネルネです。お会いできて嬉しいわ。貴方がイスカちゃんの婚約者ね?」


「ええ、はい」


 頷いたノクスを見て、イスカが夢から覚めたような顔つきでノクスの隣に戻ってきた。


「どうだい、いい男だろう?」


「ええ、とっても。エヴァンからの手紙に書いてあった通り、イケメンさんだわ」


 エヴァンは伯爵夫人に何と書いたのだろうか。内容によっては、城に帰還したら問い詰めることになりそうだ。


「さあ、どうぞ中へ」


 夫人の声で邸の扉が開かれる。

 ノクスはイスカの手を引いて後ろに下がり、今しがた到着したばかりの馬車から降りてきたセシルに先を譲った。続いて降りてきたリュミエールにも先に入るよう促したが、彼はノクスの前で足を止めた。


「どうぞ貴方がお先に。私は所用がありまして、すぐに出ることになったので」


「これからですか?」


「魔獣が活動するのはこれからですから」


 夕陽に照らされ、白色の仮面が艶やかに光る。

 リュミエールは優雅に一礼すると、颯爽とした足取りで騎士団の元へと向かっていった。



 その夜、伯爵邸では夕食会が開かれた。料理好きな夫人自らが作った品々はどれも温かく、懐かしくて優しい味がした。常に毒味役を必要としていたらしいセシルも、夫人が作った料理には何の躊躇いもなく口をつけていた。それは彼女がエヴァンの母君だからというのもあるのだろうが、その人柄によるものだろうと思った。


 堅物と呼ばれているアスランでさえ、夫人の前では子供のようになっている。セバスチャン以外の人間とは会話が続かないノクスも、夫人とは普通に話すことができていた。


 イスカのことを訊かれ、言葉に詰まった瞬間もあったが──母親が生きていたら、こんな感じだったのだろうとも思った。



 夕食後、客室と隣接しているバスルームで汗を流したノクスは、テラスで風に当たっていた。もう良い子は寝ている時間だというのに、邸から見える街並みはまだ明るく、どこか遠くから賑やかな声も聞こえてくる。


 小さいが、活気にあふれた土地。それがセネリオ伯爵領だとセバスチャンは語っていた。


 そろそろ寝ようかと思い、部屋の中へと戻って明かりを落とした時、控えめなノック音が二度響いた。


 扉を開けると、そこに立っていたのはイスカだった。何をするつもりなのか、大きな枕を抱いている。嫌な予感がした。


「……良い子はもう寝る時間だが」


「残念ながら、私は悪い子なんだよ」


 イスカは悪戯っぽく笑うと、ノクスを押し退けるようにして室内へと踏み入った。


 夜半に男女が同じ部屋にいるというのは如何なものだろうか。いくら婚約者と言えど、夜に会うべきではない。今すぐ追い出すべきなのだろうが、大きな窓から見える星空を見上げているイスカを見たら、何も言えなくなってしまった。


 ノクスは諦めてイスカの隣に立った。


「こんな時間に何の用だ」

「用がないと来てはいけないのかい?」

「そうとは言っていないが」


 イスカの白い手がガラスの扉を押し開ける。彼女は隙間から吹き込んでくる風に目を細めながら、形の良い唇を綻ばせた。


「気持ちの良い場所だね、セネリオ領は」


 ノクスはゆっくりと頷いた。彼女の言う通り、領内ですれ違った人たちは皆笑っており、休憩がてら寄った町ではとても親切にしてもらった。


 通りすがりの果物屋の男からは特産だという果実をもらった。その場で齧ってみろと言われたのでひと口食べてみると、とても渋くて食べられたものではなかった。


 男は豪快に笑いながら、今度は口直しにと赤い果実を渡してきた。顔を顰めていたノクスの隣で、イスカだけが「美味しい」と笑っていた。


 雲の切れ間から顔を出した月が、イスカの白磁の肌を照らす。真白な頬は化粧を落とした為か、月光のせいなのか、蒼白く見えた。


 その横顔を眺めているうちに、つい先日の出来事を思い出したノクスは、気づけば口を開いていた。


「貴女に兄弟はいるのか?」


「貴殿が私に質問とは珍しいね。私に興味でも持ってくれたのかい?」


 ノクスは頷く代わりに、イスカの右の手首を掴んだ。

 弾かれたように振り向いた彼女の顔には、見たことのない表情が浮かんでいる。


「知りたいから訊いている」

「君が──私に?」

「そうだが」


 イスカの頬が赤く染まる。顔色が悪く見えたのは気のせいだったようだ。


「それは嬉しいことだ」


 イスカはノクスの手に自分の手を重ねると、嬉しそうに口角を上げた。


「私は一人娘だ。父に妾はいなかったから、私の他に子はいなかったと思う。……君は?」


 躊躇いがちに紡がれた問いに、ノクスは首を左右に振った。


「僕も一人っ子だ。母は僕が小さい頃に亡くなったから顔は憶えていないが、父のことはよく覚えている」

「君に似ていたかい?」

「断じて似ていない」


 ノクスはふっと笑った。

 ノクスの父親はよく笑いよく喋る人だった。仕事が忙しい為か、滅多に家に帰ってくることはなかったが、たまにの逢瀬ではノクスを強く抱きしめ、母の分まで愛を囁くような人だった。


「では、貴殿は母親似なのだろうね」

「僕もそうだと思いたいが、髪色以外は父親似だとセバスチャンに言われた」

「セバスチャンが言うのなら間違いないね。……でも、どうして急に兄弟のことを?」


 ノクスは満天の星空を見上げた。瞬きをするたびに増えているのではないかと錯覚するくらい、星が散らばっている。


 イスカはどの星を見つめていたのだろう。


「……貴女にそっくりな人を見かけたからだ」


 ノクスの呟きに、イスカはただ「ふうん」と返してきた。


 相変わらず冷たい彼女の手は、今日は熱を持っているように感じられたが、果たしてそれはどちらから移ったものだろうか。


 ふと隣にいるイスカへと目を向けると、彼女の真昼の空色の瞳には夜空が映り込んでいた。


 似ている。仮面の下に隠されていた、リュミエールの顔に。平民でありながら魔術省長官にまで上り詰めた彼は、イスカと関係があるのだろうか。


 ノクスは窓の外へと視線を戻し、ゆっくりと息を吐いていった。


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