第35話
「──気をつけて行ってくるのですよ、ノクス」
見送りにはエヴァンを筆頭とした行政府の人間が何人か来ていた。そんな暇があるのなら仕事をして欲しいものだ。戦力の要であるノクスが一時的に抜けるのだから。
「見送りありがとうございます、宰相」
「ローリエによろしく伝えておいてくださいね」
ノクスが肯首すると、エヴァンはノクスの隣にいるイスカと向き直った。
「良いですか、イスカ。ハルメルス領では大人しくしているのですよ。木登りは厳禁です」
「わかっているよ、エヴァン」
「信用できませんねぇ。もうしないって言った五分後に壁をよじ登っていたのはどこのどなたやら」
イスカはううっと苦い顔をしながらノクスの背に隠れる。それを見たエヴァンは何かを閃いたのか、ぱんっと手を叩いた。
「良いことを思いつきました。ノクス、イスカが飛び出していかないように、貴方の腕を掴ませておいてください」
「腕をですか?」
エヴァンは満面の笑みを浮かべながら、ノクスの腕に触れる。肘を軽く曲げるような格好になるよう動かすと、そこにイスカの手を添えさせた。
「うんうん、良い感じです。男女はね、社交の場ではそのようにして歩いているのですよ」
ノクスは喉を鳴らした。それくらい知っていると言い返したいが、これではまるで貴族のようである。
「……私は仕事で行くのですが」
ぼそりと呟いたノクスに、イスカがくすくすと笑いかける。
「細かいことは気にしなくていいんだよ」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」
ノクスはイスカのことを軽く睨んでから、今まさに階段を降りてきたヴィルジールの元へと足を進めた。
ヴィルジールの隣には柔らかい雰囲気を持つ少年が立っていた。ヴィルジールを冬に咲く青い花と喩えるならば、その少年は春に咲く清廉な白色の花のようである。艶やかな銀色の髪は後ろで一つに束ねられ、どことなくヴィルジールと顔立ちが似ていた。
ノクスはその少年と会ったことがある。それはヴィルジールの即位一年を祝う式典の時だ。エヴァンとともに形式的な挨拶をしただけだが、記憶の片隅に残っていた。
何故なら、その少年は──。
「──揃ったようだな」
ヴィルジールは主だった面々を見渡すと、隣にいる少年の背をそっと押した。
「気をつけて行ってこい」
少年はヴィルジールの顔を見上げ、力強く頷いてみせてから微笑みを飾った。
「行ってまいります。兄上」
ヴィルジールのことを兄と呼べるのは、この世で唯一人。皇帝の弟であるセシル殿下だけだ。皇帝自ら見送りに来るなんて、二人は異母兄弟だというのに随分と仲が良いようだ。
セシルはヴィルジールへと向かって一礼してから、ノクスとイスカの目の前までやってきた。
「お久しぶりです、イスカ姉さん。そちらは──」
「ノクス・プルヴィアにございます。セシル殿下」
ノクスは左胸の前に手を当て、軽く腰を折った。隣のイスカはノクスの腕に手を添えたまま、美しいお辞儀を披露している。その姿を見て、彼女が公爵令嬢であることを改めて思い知った。
セシルはノクスとイスカの顔を交互に見てから、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
「では貴方が噂の婚約者様なのですね」
「噂とは?」
ノクスは軽く瞬きをした。噂になるようなことをした覚えがないからだ。
「セシルには文で伝えていたんだよ」
「なぜそんなことを」
「従弟いとこに婚約を報告するのは別に普通のことだろう?」
イスカがくすっと笑う。
ノクスはイスカとセシルの顔を順に眺め、成程と頷いた。
改めて見てみると、二人の瞳の色は同じだ。ヴィルジールのものよりも淡い、澄み渡った真昼の空の色だ。
セシルの母君である妃はセシリアといい、先代の皇帝へ一番早く嫁いだ御方だ。だが十年もの間子に恵まれず、それを理由に皇太子妃の座を下ろされ、心も体も病んでしまったというのは誰もが知っている話である。
だが、イスカの母親が公爵家の人間だったとは知らなかった。セシルと従弟だったことも、二人が手紙でやり取りをする仲だったということも。
「そう──だったんだな」
イスカと婚約して間もなくふた月を迎えるが、まだまだ彼女に関して知らないことがあるようだ。
城門を三台の馬車が出て行く。一台目はノクスとイスカが乗り、二台目にはセシルが、三台目には魔術省長官のリュミエールが乗っている。
本来ならば先頭には皇族であるセシルを乗せた馬車を走らせるべきだが、彼の身を案じたヴィルジールが真ん中で挟むようにと指示をしてきたのだ。
護衛として同行している騎士の一隊はアスランが率いている。アスラン自身はセシルの馬車に張り付くようにして馬を走らせているが、その他の騎士たちは一向を囲むように配置されていた。
小窓から外を覗き込んでみると、ノクスの馬車の周りにも複数の騎士の姿が見えた。
「手厚い警護だな。貴女がいるからか」
「何を言っているんだい、貴殿のためでもあるんだよ。ああ見えてヴィルジールは過保護でね、自分のテリトリーにいる人は大事にする人だから」
アスランを同行させているのが証拠じゃないか、とイスカは笑う。
「貴女は陛下の幼馴染だが、僕はただの臣下だ。それも平民の」
「ヴィルジールは身分でどうこう考える人じゃないと思うよ」
何を根拠に、という言葉が出かかったが、寸前のところで飲み込んだ。言われてみれば確かにそうだ。身分で一線を引く人だったのなら、今ここにノクスはいない。
「それはそうと、婚約者殿」
向かいに座るイスカがぐぐっと前のめりになり、顔を近づけてくる。今日は化粧をしてきたのか、彼女の唇には紅が引かれていた。
「なんだ」
イスカは曇りなく笑うと、いそいそとノクスの隣に移動してきた。いくらノクスが細身と言えど、一人用の座席に二人並ぶと肩が触れ合い窮屈である。
「うん、いいねえ」
「狭いんだが」
「夢だったんだよ。婚約者と並んで馬車に座るのが」
こてん、と。イスカの頭がノクスの肩に乗る。
イスカは優しい夢でもみるようにまぶたを下ろすと、ふうっとひと息吐いた。
「セドリック・オールヴェニスとは馬車に乗らなかったのか」
「一度もないよ。彼とは極力二人きりにならないようにしていたから」
ノクスは瞬きの回数を増やした。大貴族に名を連ねる家の子息であり、老若男女問わず人気もあるセドリックならば、彼女を完璧にエスコートしていたのだろうと思っていたが。
どうやらそれはノクスの一方的な思い込みだったようだ。元婚約者であったイスカの顔には苦渋の色が浮かんでいる。
仕事の関係で数回、廊下で絡まれた時にほんの少し話しただけのノクスに、セドリックのことはよく分からない。だが、彼の本性は噂とは違うことは身を以て知っている。
元魔術省長官の娘と、同じく魔術省に身を置く令息。恐らく二人は貴族社会ではよくある、政略結婚とやらをするはずだったのだろう。だがそれは何かを理由に解消され、新たな婚約者にはどこの馬の骨とも知れないノクスが選ばれた。
セドリックからしたら、ノクスは目の上のたんこぶというわけだ。
ノクスは窓の外へと視線を移す。
家と職場の往復しかしないノクスにとって、首都の外は新鮮である。移り変わる景色を眺めようと思ったのだが、すぐ近くから気持ちよさそうな寝息が聞こえてきたので、そっとカーテンを閉めた。
(……無防備だな)
ノクスはすやすやと眠っているイスカの頬を指先で突いた。
寝顔を他人に見せたら、彼女は怒るだろうか。




