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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
4章 雨夜の旋律

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第34話


 ハルメルス領へと向かう出立の日は晴天に恵まれた。これから夏本番を迎えるというのに、ノクスは相も変わらず黒い服を着ている。今日くらいはお洒落をしてはどうかとエヴァンに呆れられたが、ノクスは涼しい顔で旅の荷物を馬車に積み込んだ。


 馬車はアスランの家から借りたものだ。当初の予定では近くの運送屋から馬ごと借りる予定だったが、護衛でアスランの隊が同行することになった為、快く手配してくれたのだ。


 アスランは女性が相手となると全く役に立たないが、仲間には惜しみなく力を貸してくれる頼もしい存在だ。


「──おはよう、婚約者殿」


 一日ぶりに聞く婚約者の声でノクスは振り返った。そこには日傘をくるくると回しながら微笑んでいるイスカの姿がある。頭からつま先まで黒色のノクスが言えたことではないが、イスカは厚着をしていた。手袋とタイツは乙女の嗜みとはいえ、かなりの重装備である。


「……そんなに着込んで暑くないのか?」


「仕方ないだろう、日焼けしたくないんだ。それよりこれを見ておくれよ」


 イスカが日傘を見せるように突き出してくる。

 ノクスは口元に手を当てて暫しの間考え込んだ。何の感想を求められているのだろうか。


「もしもーし、婚約者殿?」


 イスカが傘を傾けながらノクスを見上げる。


「ああ、何だ」

「何だじゃないよ。私の傘、見てくれたかい?」

「見たが、その傘がどうしたんだ」


 イスカがむすっと口を尖らせる。どこにでもあるような日傘にしか見えないものに、何と返すのが正解だったのだろうか。


 熱を孕んだ風が吹き荒び、イスカの長い髪がふわりと舞う。その一瞬、彼女の首元ではシンプルなネックレスがきらりと光っていた。


 ノクスは少しだけ口角を上げて、イスカの細い手首を掴んだ。驚いたように目を丸くさせている彼女から傘を奪い取り、するりとその下に潜り込む。


 傘の内側は外側とは違う模様の布が張られていた。星空をモチーフにしたものなのか、無数の星が散りばめられている。星座らしきものも描かれていたが、天体には詳しくないノクスには分からなかった。


「特別な仕掛けがある傘なのか?」


 ノクスは傘をくるくると回してみた。続いて反対方向も試してみたが、何も起こらない。柄を触ってみたり、上部の針金をじっくり見てみたりもしたが、普通の傘と何が違うのか分からなかった。


 ふと、隣にいるイスカがびっくりするくらい静かなことに気がついた。


 隣を見遣ると、イスカはノクスの胸元を見て固まっていた。その頬は薄らと赤く染まっている。


 ノクスに傘を取られたことに怒っているのだろうか。それにしては、柔らかい表情をしている。


「……イスカ?」


 名前を呼ばれたことに驚いたのか、イスカが顔を跳ね上げる。


「ふふ、何でもないよ。それよりこれ、使ってくれているんだね」


 イスカはノクスのタイに触れながら、柔らかに笑った。緩く結ばれている黒色のタイは、彼女からの贈り物であるタイピンが艶やかに光っている。


「……ああ。ある朝、起きたら部屋に置いてあった」


「差出人の名前が入ったメッセージカードが入っていただろう?」


「読まずにどこかへやってしまった」


 イスカが不満げに頬を膨らませていく。

 ノクスは彼女の右頬を軽く人差し指で突いてから、馬車へと向かって歩き出した。



 集合場所は城の正門である。ノクスとイスカを乗せた馬車が門の前に到着すると、騎士の隊服に身を包んだアスランが出迎えた。


「おはよう、二人とも。時間まであるのに早いんだな」


「デューク卿こそ」


 ノクスは慣れない動きで馬車から降りた。

 すると、イスカも外へ出て顔を出すつもりなのか、エスコートをせよと言わんばかりに手を差し出している。


 ノクスは固まった。女性のエスコートの仕方など全く分からないからだ。


「……デューク卿。恐れ入りますが、イスカに手を貸して頂けませんか」


「おいおい、目の前にお前という婚約者がいるのに、なぜ俺が?」


 アスランはやれやれと肩を落としながらも、イスカへと手を差し出す。

 だがイスカはその手を取らなかった。


「我が婚約者殿。私は貴殿の手を借りたいのだが?」


 イスカの空色の瞳がノクスを真っ直ぐに射抜く。その眼差しは全てを見透かしているのではないかと思うくらい、澄み渡っていた。


 ノクスは瞳を揺らした。貸せる手はあっても、貸し方が分からないのだ。そう言えばいいだけのことだが──。


 なぜか、今は言えない。言えそうにない。

 どうしたものかと考えていると、イスカがぱっと両手を広げた。


「では行くよ、婚約者殿」

「行くとは、どういう──」


 それは一瞬だった。戸惑いをほどく間もなく、イスカがノクスを目掛けて飛び込んでくる。


 突然のことに、ノクスの理解は追いつかなかった。受け止める力も抱き留める術も持たないノクスは、落ちてきたイスカとともに地面に倒れ込んでいく。


 イスカはしてやったりな顔をしていた。

 対する自分は今、どんな表情をしているのだろうか。


「……あの、婚約者殿?」

「────」

「お、怒っているのかい? ひょっとして、私は重かっただろうか?」

「──いや」


 ノクスの胸に飛び込むような格好で落ちてきたイスカは、ノクスの上でへちゃりと座り込んでいた。突拍子もないことをしておいて、申し訳なさそうに眉を下げている。


 重くないと言ったら嘘になるが、それはノクスが鍛えていないからだ。剣を握るどころか、馬にさえ乗れない男に、女性を受け止める力などないのだから。


 風に遊ばれたイスカの黄金色の髪が、ノクスの頬を撫でつける。日差しのせいか、今日はやけに眩しく見えた。


「せめて、僕の準備が整ってから落ちてきてくれないか」

「も、申し訳ない」

「いや……そもそも、エスコートができない僕に問題があるんだが」


 イスカがいそいそと立ち上がり、ノクスに手を差し出してくる。


 凝った刺繍の入った黒い手袋を眺めながら、ノクスはため息を吐いた。


 ハルメルス領から戻ったら、その手の教本を取り寄せよう。ノクスはそう誓ったのだった。


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