第33話
宰相の執務室を出たノクスは、皇帝の執務室へと向かって歩き出した。国の頂点に立つ皇帝とその片腕である宰相は、朝から晩まで共に仕事をする日もあるというのに、二方の執務室はかなり離れている。毎年誰かしらが真隣に作ってはどうかと提案していたようだが、いまだに実現していない。
そのせいで、ノクスは居館の端から端へ移動する羽目になっていた。
(──全く、なぜこんなに遠いんだ)
現皇帝であるヴィルジールと宰相のエヴァンは幼馴染だ。十年以上の付き合いだからか、聞いている方まで恥ずかしくなるような痴話喧嘩もしている。それほどまでに仲が良いのだから、宰相の執務室を移設してはどうかとノクスも進言したのだが──ふたりは首を縦に振らなかったのだ。
『いくら私たちが仲良しこよしでいちゃいちゃする関係でもね、それだけはしないって決めているんですよ』
不思議がるノクスに、エヴァンはにこやかに微笑みながら続けた。
『会いたい時は会いに行く。その気持ちとほんの少しの労力をね、大事にしたいなあって思ったんです』
『そのほんの少しの労力と時間を惜しんで、寝袋を運び込んで入り浸っている奴がよく言うものだ』
『それはそれでワクワクするじゃないですか』
どこにだ、と呆れるヴィルジールの隣でエヴァンは笑っていた。あの時の二人のやりとりを、優しい表情を、ノクスは今でも憶えている。
冷酷で無慈悲だと恐れられているヴィルジールだが、彼を噂通りの人物だと思ったことはない。少なくともノクスの目に映るヴィルジールは悪い人ではなかった。
ただ少し、言い方が冷淡なだけで。
「──おお、ノクス」
「おはようございます。デューク卿」
ヴィルジールの執務室の前に到着したノクスは、扉の傍にいるアスランに軽く一礼してから中に入った。
「失礼いたします、プルヴィアです」
「──入れ」
中に入ると、仮面で顔を隠している人がノクスを出迎えた。金の刺繍が入った純白のローブが風に揺られている。髪はイスカよりも濃い黄金色で、肩下辺りで切り揃えられていた。
面と向かって話したことはないが、仮面を着けている人などこの城で一人しかいない。
「ご機嫌麗しゅう、補佐官殿」
「……魔術省長官、でしたね」
「ええ、リュミエールにございます。こうしてお話するのは初めてですね」
リュミエールと名乗った男は優雅に一礼する。ヴィルジールと話をしていたのか、応接用のテーブルには二人分の紅茶が置かれていた。
「先日は我が省の者が大変な失礼をしたようで、誠に申し訳ありませんでした。その後、婚約者様は元気にしていらっしゃいますか?」
ノクスは暫しの間考え込んだのちに、ああ、と思い出したように頷いた。どうやらリュミエールはイスカが魔術省に運び込まれた日のことを言っているようだ。
「お気になさらず。彼女なら元気にしています」
「それはようございました。すべて魔術で癒えたとはいえ、とても酷い怪我だったので心配していたのですよ」
「今は何事もなかったかのように元気に駆け回っています」
ノクスの言葉に、リュミエールは安堵したように頷いた。仮面をしているのでどんな表情をしているのかは分からないが、声音や仕草、話し方から気持ちが伝わってくるような不思議な人だ。
「相変わらずお転婆なようで」
続けて放たれた一言に、ノクスは開きかけた口を閉ざした。
まるで彼女のことを知っているような口ぶりである。
「それは、どういう……」
「ノクス。ハルメルス領の件だが、リュミエールが同行することになった」
ヴィルジールが濡羽色の皮椅子から腰を上げる。背もたれに掛けていた上衣を羽織ると、ノクスとリュミエールの前まで歩み寄ってきた。頭からつま先に至るまできちんとした格好をしているのは珍しい。これから謁見でもあるのだろうか。
「魔術省長官自らがですか?」
「そうだ。あの次男坊が拒否をしたから、代わりに行くと」
次男坊と呼ばれているのは魔術省のセドリック・オールヴェニスのことだ。ヴィルジールとは犬猿の仲だという噂がある。
「そうでしたか。イスカが行くと知ったら、やっぱり自分も行くと言い出しそうですが」
「それはご心配なく。魔術省には私か彼のどちらかが城に残らなければならないという掟がありますので」
それ即ち、セドリックが城に残ることは確定しているということだ。彼に対して良い印象を持たないノクスにとっては有り難い。
「なるほど。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。それでは陛下、私は失礼いたします」
リュミエールはその場で一礼すると、白色のローブをふわりと靡かせながら歩き出した。声を聞かなければ、女性と見間違えられそうな容姿だと思いながら眺めていると、彼は突然足を止めた。そして、体ごとノクスへ向き直る。
「──貴女の婚約者によろしくお伝えください」
白い指先が仮面の縁を摘み、すうっと押し上げる。その僅かな隙間からは彼の素顔が垣間見えた。
雪のように白い肌に、夏の薔薇を思わせる唇。長いまつ毛に縁取られている瞳は、浅瀬の海のような色。その顔立ちはまるで──。
「────」
ノクスの手から書類が滑り落ちる。足音ひとつ立てずに去ったリュミエールの残像に囚われたように、言葉もなく立ち尽くした。
どういうことだと、ノクスは胸の内で問いかける。
ノクスは何を見たのだろうか。何を見せられたのだろうか。
「──どうした、ノクス」
ノクスの肩にヴィルジールの手が乗せられる。顔を上げると、美しい青色の瞳と視線が交わった。
「……いえ、何でもありません」
ノクスは自分に言い聞かせるように呟いて、足元に落ちた紙を拾い上げた。
カーテンの隙間から差し込む夏の日差しが眩しい。身体が熱い気がしたのは、黒色の服を着ているせいだろう。




