第32話
洗い清められたように澄み通った青空だ。昨晩空を覆っていた分厚い雲は所々ほころび、眩い光が切れ目に輝き出している。灰色に汚れていた雲は見違えるように白く軽くなって、のんびりと空を泳いでいた。
「よい朝ですなあ。昨晩の雨はどこへ行ったのやら」
セバスチャンは自慢の髭を弄りながら、ほうっと息を吐いた。大きな独り言に返事をする人は誰もいない。若い二人はまだ夢の中にいる。
「さてと、それでは朝食の支度をしますかの」
セバスチャンは庭の片隅にある小さな石碑に微笑みかけてから、邸内へと向かって歩き出した。
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「──ひと月ほど家を空ける。ハルメルス領に行くことになった」
ノクスの唐突な報告は朝食の席で行われた。イスカは昨晩話をした為全く驚いていないが、セバスチャンはポットを持ったままぱちくりと瞬きを繰り返していた。
「仕事ですかな?」
「無論そうだ。東の国・エクウォルと同盟を結ぶ為、その調印式に参加しなければならない」
「ほほう、左様でしたか。ハルメルス領は遠いですのぅ」
セバスチャンは寂しそうに微笑む。
それはそうだ、セバスチャンはノクスが生まれた時から誰よりも一番近くにいた存在なのだから。仕事でやむなく朝帰りをしたことはあったが、セバスチャンとは毎日必ず共に食卓を囲んでいた。
「だからその間、ひとりにさせてしまうことになるんだが」
セバスチャンの動きが止まる。ノクスのその言葉が意外だったのか、瞬きもせずに凝視している。
「……セバスチャン?」
「コ、コホン。失礼いたしました」
セバスチャンは我に返ったのか、咳払いを一つすると、嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「承知いたしました。その間、イスカーチェリ様は私とお留守番ですかな? それとも一度ご実家に戻られるので?」
「彼女もハルメルス領に行く」
イスカが弾かれたように顔を跳ね上げる。
「え、そうなのかい?」
ノクスはフォークを置いて溜め息を吐いた。
「置いて行くわけにはいかないだろう」
「でも、貴殿は仕事で行くんだろう? 政官でもなければ軍官でもない私が行くことを、ヴィルジールが許可するとは思えないのだが」
「貴女を連れて行くことに、陛下の許可は必要ないだろう。理由を求められたら、僕の荷物持ちで行くとか、適当なことを言えばいい」
「いや、そこは婚約者が心配で置いて行けないからとか、片時も離れたくないからとか、いい感じの理由を言ってくれないか?」
ぴくりとも表情筋を動かさずに、ノクスはイスカを見返した。
「僕がそんなことを言うわけがないだろう」
「言えない、の間違いではありませぬか?」
セバスチャンからの横槍でノクスは固まった。言われてみればそうかもしれないが、どこの誰が相手であろうと黙らせてきた“死神政官”の異名を持つノクスに言えないことなどない。
そう自分に言い聞かせて、セバスチャンのことをじろりと睨みつける。
「……セバスチャン」
「ほほ、それではじじいは退散するとしますかの。旅支度をせねばなりません」
セバスチャンは空のお皿で顔を隠すと、そのまま逃げるように厨房の奥へと消えていった。
ノクスは軽く肩を落とした。珍しくホイップクリームが乗っているコーヒーを一瞥してから、向かいに座るイスカに目を向ける。
目が合うと、イスカはぱっと目を逸らしてから、モニョモニョと口を動かした。
「……あの、婚約者殿」
「何だ」
「私を連れて行くのは、心配だからかい?」
ノクスは軽く息を呑んだ。恐る恐る顔を上げたイスカが、穴が空きそうなくらい見つめてきている。
(──心配? 僕が?)
雪色のホイップクリームが溶けていく。コーヒーと混ざり合い、カフェラテのような色合いへと変化していく様を横目に、ノクスは腰を上げた。
「……仕事に行ってくる」
「行ってらっしゃい」
誤魔化すようにその場を立ち去ったノクスに、イスカは怒ってこなかった。寧ろ、笑っていたような気がして。
「……僕は、心配だったのか」
ノクスはひとり、寄る辺なさげに呟いた。
城に出仕したノクスは、真っ先にエヴァンの元を訪れた。
ハルメルス領にイスカも連れて行くことを報告すると、聞いてはいけないことを聞いてしまったような顔で、執務室内をウロウロとし始めた。
「──イスカを連れて行くなんて、どういう風の吹き回しですか!?」
「まあ、色々とありまして」
「色々ってなんです?! 泣く子も黙らせる貴方が……この私の部下である貴方が、仕事先に婚約者を連れて行きたいなんてっ!」
エヴァンは頭を抱えながら崩れ落ちた。肩を震わせながらぶつぶつと何かを唱えている。
「ああ、どうしましょう……イスカに手伝わせようと思っていたのに」
「手伝わせるとは、何をですか?」
「政務に決まってるでしょう。ああ見えてあのお転婆さんは頭が回るんですよ。貴方の留守中、貴方の執務机を使わせて貴方の代わりに働かせようと思っていたのに……!」
エヴァンはノクスを恨めしげに見つめながら、八つ当たりをするかのように紙の束をくしゃりと握る。それは数分前にノクスが提出した今冬の予算案だ。
「宰相、それは私が胸が潰れる思いで作り上げた予算案ですが」
「お黙りなさい! 貴方のことですから、同じものが何枚かあるでしょう!」
「ありますが、そこまでくしゃくしゃにされてしまうと、再利用することができません」
「貴方がケチくさいのは分かっていますが、国の予算案を裏紙として使うのはおやめなさい!」
この間なんて──と、エヴァンがくどくどと説教を続けるのが目に見えたノクスは、予備の予算案をエヴァンの顔の目の前に突きつけた。そして、逃げるようにエヴァンから距離を取る。
「陛下のもとへ行ってまいります」
「ちょっと、まだ話は終わってませんよ!」
エヴァンが手のひらサイズの小鳥をノクス目掛けて飛ばしてきたが、寸前のところでドアを閉めて防いだ。
……小鳥はドアに衝突していないだろうか。
それだけは申し訳なく思うノクスであった。




