第31話
「私は貴殿が平民でも貴族でも、求婚していたよ」
イスカの空色の瞳がノクスを真っ直ぐに見上げる。いつもより一段と煌めいて見えたのは、泣いた後だからだろうか。
返す言葉が見つからず、視線を窓に移す。雨が降り止む気配はないが、光はもう走っていなかった。
「……ねえ、婚約者殿。貴殿にとって私は、どんな存在だい?」
ノクスは切れ長の瞳を微かに見開いた。貴女は貴女だろう、と言いかけた口を閉ざし、イスカへと視線を戻す。彼女はノクスの顔をじっと見つめ、首を傾げている。指先でそっと目尻を拭ってやると、心地よさそうに目を細めていた。
(……どんな存在、か)
真っ先に浮かんだのは、皇命で婚約者となった相手だ。ある日突然ノクスの世界に飛び込んできた彼女は、予想外なことばかりしてノクスを驚かせてきた。
だが、時折見せる凛とした姿には目を奪われた。笑顔は陽だまりのように明るく、春の薔薇のような唇は煩わしいくらいに喋っていたけれど、日を重ねるにつれて気にならなくなっていった。
それはいつからだろうか。
「……貴女は、婚約者で」
イスカはゆっくりと頷いた。
「でもそれは、望んでそうなったわけではなくて」
「一刻も早く解消したいと思っているかい?」
ノクスは押し黙った。ないと言ったら嘘になるが、今はそれよりも、他に気になることがあるのだ。
雷が苦手な理由や、これまで雷が鳴った時はどのようにやり過ごしていたのか、味覚はちゃんとあるのかなど彼女には聞きたいことがある。
ノクスは疑問を胸の内に押し留めるために、ゆっくりと深呼吸をした。それからイスカの目を見つめ返し、形のよい唇を開く。
望んで婚約関係になったわけではないが、これだけは伝えたい。
「僕にとって、貴女は貴女だ」
イスカーチェリ・ハインブルグ。彼女は名門公爵家のご令嬢だが、ノクスにとってはイスカという名の一人の少女なのだ。
「そ、それって、どういう……」
「もう止んだみたいだな」
ノクスはイスカの言葉を遮り、窓辺へと目を向けた。
雷はもう鳴っていない。まぶたの裏側に焼きつきそうな光も、もう見えない。
イスカも泣き止んでいる。ならばノクスがここにいる意味はないだろう。雨水で冷えた身体を温めに行くために、彼女の身体から手を離すと、行くなと言わんばかりにシャツの裾を掴まれた。
「ま、待ってくれ。もう少しだけ」
もう少しだけ、どうしろと言うのか。
「僕にどうして欲しいんだ?」
イスカは怒られた子供のように顔を俯かせ、黙り込んでしまった。そっと開いた唇が何かを言いかけていたようにも見えたが、彼女はノクスの服の端を掴んだまま動こうとしない。
ノクスは小さく息を吐いてから、イスカをベッドの端に座らせた。自分は彼女の目の前に膝を着いて、彼女の手を両手で包み込む。その手は驚くほど冷たく、触れているこちらの手まで凍てついてしまいそうだった。
「……どうして、雷が怖いんだ?」
雨に降られてしまったノクスの手はとても冷たいはずだが、彼女の手はそれ以上に冷え切っている。それほどまでに、雷が怖かったのだろうと思った。
「あれは……私から全てを奪ったんだ」
「全てというのは……」
ノクスは途中で言葉を切った。誰もが知っている家門で生まれ、何不自由なく育った貴族の令嬢だと思っていたが、それはノクスの思い込みに過ぎない。
ノクスに恐ろしく感じるものがあるように、彼女にもまた、抱えているものがあるのだ。
「……思えば、僕は貴女の名前と家柄と、この邸での過ごし方しか知らないな」
イスカが顔を上げた。詳しく訊かなかったことに驚いたのか、軽く目を見開いている。だがすぐに唇を横に引くと、ノクスの手を握り返すように指をひとつひとつ折っていった。
「それは貴殿が私のことを知ろうとしなかったからだろう。最初の晩餐の時、私との会話を拒否していたじゃないか」
「あの時は微塵も興味がなかったんだ。一方的に婚約を取り決められたかと思えば、家に帰ったら貴女がいて」
ノクスは呆れたようなため息を一つ零し、苦々しい表情を浮かべる。あの日は人生で一番疲れた一日だったように思う。
「それから部屋にまで押しかけたんだったね。すごいなぁ、私は」
イスカはくすくすと笑いながら、空いている方の手でノクスの頭をくしゃりと撫でた。それから眩しいものでも見るように目を細め、ふんわりとした笑みを浮かべている。
ノクスははあ、と肩を落とした。
「何を感心しているんだ。どれもこれも褒められたことじゃないだろう」
「いやいや、何を言っているんだい。表彰されてもおかしくないことだよ」
「外から壁をよじ登って侵入しようとした人を、誰がどんな理由で表彰するんだ」
一人だけ心当たりはあったが、口には出さなかった。彼女もきっと、自分と同じ人を思い浮かべていることだろう。
ふと寒さを感じて、ノクスは立ち上がった。自分を見上げるイスカの顔に、もう涙は流れていない。
だけどこの先もきっと、彼女は雷鳴が聞こえるたびに泣き出してしまうのだと思う。
三つ目の願いを叶えるまでの間しか隣に立たない自分は、あと何度見つけ出してあげられるだろう。あと何度、その冷たい手に触れることができるだろう。
「……この調子では、貴女を置いていけそうにないな」
もしもまた今日のような雷雨に見舞われたら──イスカはひとり、泣くことになるのだろう。誰にも見つけてもらえず、音が止むまでひとり頬を濡らすことになるのだろうか。
そう考えると、彼女をここに残して行くのは不安に思った。
ノクスの独り言にイスカは首を傾げている。
仕事でひと月ほど家を空けることになったと伝えると、イスカはなるほどと頷いた。
「ハルメルス領にでも行くのかい?」
「よくわかったな。誰かから聞いていたのか?」
「いいや、なんとなくだよ。前からハルメルス領の話は聞いていたからね」
「東のエクウォルと共同戦線を張る。そのために同盟を結ぶんだが、調印式には陛下の弟君と僕が出ることになった」
並みの令嬢が聞いたら何のことやらという反応が返ってきそうな話をしているというのに、イスカは慣れたように相槌を打っている。流石はハインブルグ家の人間だと思いたいところだが、政治の話ができるのは彼女の周囲にいる人たちの影響によるものだろう。
「そうか。世のため人のために、頑張ってきたまえよ」
「……大丈夫なのか?」
「私かい? 私ならセバスチャンとお留守番をしているから大丈夫だよ」
イスカはニッと笑う。確かにセバスチャンは頼りになるが、ノクスが言っていることはそうではないのだ。
「大丈夫じゃないだろう。あんなに泣いていたのに」
「泣いてなんか──」
「貴女は泣いていただろう。イスカ」
イスカの顔から表情が消える。吊り上がっていた唇はへにゃりと歪み、繋いでいた手も離れていった。
ノクスは落っことしたものを拾い上げるように、イスカの冷たい手をすくい取った。何度触れても冷たいその手にぬくもりを伝えてあげられるほど、ノクスの手は温かくない。けれど、こんな自分でも分けてあげられるものがあるはずだ。
そう、教えてくれた人がいた。
その人はもう、この世界のどこにもいないけれど。
「怖いなら怖いと言っていいんだ。辛くて悲しいのなら泣いたっていい。大丈夫だと、気丈に振る舞おうとするのも構わないが、僕の前だけではやめてほしい」
「……どうして」
「どうしてなのかは僕にも分からない。ただ、気に入らないんだ」
ふにゃりと、イスカの頬が緩む。
「なんだい、それは」
ふふっと声に出して笑うイスカにつられるように、ノクスの口元も綻んでいく。
だが、あと少しのところで盛大なくしゃみが出てしまった。
「……そう言えば、濡れたままだったな」
「は、早くお風呂に入ってくれ。私のことなんてどうでもいいから」
「どうでもよくないから急いで帰ってきたんだ」
ノクスは二度目のくしゃみが出ないよう手で口元を抑えながら、急いでイスカの部屋を後にした。その後ろで、イスカが顔の赤らむ思いをしていたとは知らずに。




