第30話
部屋の中は真っ暗だった。室内をぐるりと見渡してみたが、イスカの姿はどこにもない。
「……いないのか?」
返事はなかった。
ノクスはランプに明かりを灯し、中へと入った。
イスカは衣類の整理をしていたのか、クローゼット周辺に衣服が散乱していた。中にはノクスが見てはまずいものまで転がっている。この現場を彼女に見られたら、何を見ているんだ、もうお嫁に行けないから責任を取れなどと言われそうだ。
他の場所を探しに行こうとしたその時、巨木を真っ二つに割るような落雷の音が響いた。近くの木にでも落ちたような大きな音だ。
窓辺から外を覗き込むと、どこか遠くから人の悲鳴のようなものが聞こえた。やはりどこかに落ちたようだ。
強風に煽られるように木々が揺れ、雨は大地を叩きつけんばかりに降っている。その間を目も眩むような光が走り抜けては、体の芯にまで響くような音が鳴っている。
ノクスは窓から離れ、出入り口へと向かって歩き出した。
ここにいないのならば、邸の中にある物置きにでも身を潜めているのではないかと思ったのだ。
だが、ノクスの予想は外れた。
「──ひ、ひうっ」
声が聞こえたのだ。背後のクローゼットの中から。
ノクスは大股で歩み寄り、取っ手に手を掛けた。
「──そんなところにいたのか」
イスカはクローゼットの中で背を丸めて小さくなっていた。両耳を手で塞ぎながら、小刻みに身体を震わせている。
ぎゅうっと閉じられているまぶたに親指を当て、目を開けるようささやきかけると、彼女は恐る恐る目を開けていった。空色の瞳は涙に濡れ、ノクスの姿を捉えるなりぽろぽろと大粒の雫をこぼしていく。
「……こ、婚約者殿」
「なんだ」
「勝手に乙女の部屋に入るなんて、破廉恥だ」
イスカはうう、と泣き出した。泣いている理由が別にあることは分かっているが、誤魔化すにしても別の言い方があるだろうに。
「馬鹿なことを言ってないで、早く出てこい」
「私は瞑想中だ。早く扉を閉めてくれ」
「そんなふざけた修行が何のためになる」
ノクスは呆れ混じりな息を吐きながら、イスカの細い手首を掴んで自分の方へと引き寄せた。
まさかノクスに引っ張られるとは思っていなかったのか、イスカは目をまん丸にしながらされるがままになっていた。ノクスの胸に倒れ込むと、んぎゃっと間抜けな声を出している。
イスカの肩はノクスよりもずっと細くて、頼りなくて。柔らかい黄金色の髪からは、花のような匂いがした。
しばらくの間、イスカはノクスの腕の中で大人しくなっていた。幼子を宥めるように、背中を撫でてやっていたからかもしれない。らしくないことをしている自覚はあったが、泣いている彼女を見ていると、どうにも調子が狂うのだ。
「……貴殿はどうしてびしょ濡れなんだい」
イスカが掠れた声で問いかけてくる。
ノクスはイスカの耳に唇を寄せた。この距離で話せば、雷の音なんて耳に入らなくなると思ったからだ。
ほんの少しの間でいい。彼女の鼓膜を揺らすのは、自分の声だけでありたい。
「馬車を使わずに走ってきたからだ」
「君の足より、馬車の方が速いと思うんだが」
「今日は僕の方が速い」
何を言っているんだ、とイスカがほろほろと笑う。頬ごと溶けていってしまいそうなその微笑みは、いつもの彼女のものとは違って見えた。
「あれが鳴ると、貴女はしおらしくなるな」
「らしくない、と思うかい?」
「ああ。そうして泣いている時だけは、ご令嬢に見える」
ノクスの吐息が耳元に掛かってしまったのか、イスカの肩がぴくりと跳ねる。恥じらいなんて言葉を知らなさそうな彼女だが、そんなふうに、年頃の少女のような反応をするとは。
ノクスの知るイスカは、いつだって勝気に笑っていて、予想外のことばかりするお転婆な少女だったから。
「悪かったね。普段は猿で」
小さな子供のように頬を膨らませたイスカの顔を見て、ノクスは口の両端を上げた。
「僕は貴女を猿だと思ったことはない」
「そうなのかい? ヴィルジールは私のことを山猿と呼ぶし、エヴァンには猪のようだと言われたよ」
「デューク卿は何と?」
「アスランは……何か言おうものなら、私に倍返しをされるから、何も言わなかったけど」
ノクスはふっと小さく笑った。確かに彼女は猿のようによじ登ってくるし、猪の如く突進していく。あの二人の例えは的を得ていると言えよう。
「デューク卿は女性が苦手だからな」
「貴殿は苦手ではないのか?」
「苦手ではないが」
「ならどうして貴殿に言い寄る女性が一人もいないんだ?」
こんなに素敵なのに、とイスカが意味のわからないことを口走る。何かまずいことでも言ってしまったのか、彼女は口元にぱふりと手を被せた。
質問の意図が分かったノクスは、ため息を一つ吐いてから口を開いた。
「こんな……黒ずくめの男に、それも平民の僕に言い寄ってくる変人は、貴女くらいだ」
ノクスの答えに納得がいかないのか、イスカが小さく首を振った。




