第3話
やってしまった。イスカは振り払われた時にぶつかった手を眺めながら、ゆっくりと息を吐ききった。
ノクスはイスカとは違う。おはようと言ったらおはようと返すような人ではない。手を振ったら、同じように振り返してくれる人でないことはイスカも分かっていた。
分かっていても、手を伸ばしてしまったのは──望んでいたからだ。同じ歩幅で、同じ道を歩いていきたいと、願ってしまったから。
だが、この婚約はイスカが一方的に願い出て、第三者の権力によって叶えられたものだ。欠片も望んでなどいないノクスからしたら、ただの迷惑でしかない。
(──だとしても、私は)
イスカは遠ざかっていくノクスの背中を見つめながら、ゆっくりとまぶたを下ろした。
「先は長いね」
「だからこそ楽しいのですよ。恋というものは」
イスカの独り言に返事をしたのは、この邸の唯一の使用人であるセバスチャンだった。年齢は五十を超えているが、そこらの若者よりも活力がありそうな人だ。
自慢の髭を弄りながらノクスの背を見つめる眼差しは、孫を見つめる祖父のような温かさを感じる。
「恋とはどんなものだろうね」
「ご令嬢はノクス様に恋をされたから、婚約を申し込まれたのだと思っていましたが」
「いいや、これからする予定だよ」
イスカはセバスチャンと向き直り、口元を綻ばせた。唇に人差し指をそっと当て、ささやくような声で続ける。
「私は彼と恋をするために、婚約を申し込んだのさ」
「結婚してから恋愛をするのは、貴族様にはよくあることなので?」
「どうだろうね。他者の恋愛事情は知らないが、私は私がしたいようにしているよ」
セバスチャンは不思議そうに首を傾げた。
イスカは「それではまた」と優雅に一礼すると、先刻案内されたばかりの客間へと向かった。
ここは城下町の一角にあるノクスの邸だ。イスカが生まれた公爵家の邸と比べると、広さは半分以下。家具や調度品に華美なものはなく、どれもひと昔前のデザインだが、不思議と居心地のいい空間だった。
ノクスの役職である宰相補佐官は、言葉の通り宰相の補佐をするのが役割だが、その実態は宰相と変わらないという。国にひとりしかいない宰相の分身として、執務室で丸一日書類の山に埋もれる日もあるのだとか。
平民の出であるノクスが政官を志しただけでも凄いことだというのに、彼は史上最年少である十七歳という若さで試験を突破した。それも、首席で。
褒美に何が欲しいかと尋ねた皇帝に、ノクスはこう返したそうだ。──老人と二人で暮らせる家を一つ建ててくれ、と。
ノクスは日々多忙を極めているそうだが、必ず夕方には帰宅するという。セバスチャンから得た彼の情報を手帳に書き込んでから、イスカは長い髪を後ろで一つに束ねた。
ノクスの私室とイスカがいる客間を含め、部屋が六つほどある二階から一階に下りると食堂がある。厨房と隣り合うように造られたその空間の中央には、アンティークなデザインの茶色いダイニングテーブルがあった。
セバスチャンが腕を奮ってくれたのだろう。テーブルの上には豪華な料理が並んでいる。
イスカは疲れた顔をしているノクスと向かい合うように座り、目の前のグラスを目線の高さまで持ち上げた。
「──改めて自己紹介をしよう、婚約者殿」
「紹介して頂かなくとも、名前は存じ上げている」
ノクスは淡々とした声音で返すと、グラスを口元に運んだ。どうやら乾杯する気力もないようだ。
「ならば私についての話をしよう。貴殿のことも聞かせてくれないか?」
「生憎、貴女に興味はない。貴女の耳に入れられるような話も一つもない」
イスカはグラスを傾けたまま、口の両端を上げた。
「そうか。それは残念だ」
ならば、とイスカは続ける。まだ会話を続けるのかと言わんばかりにノクスの眉が不機嫌に歪んでいたが、イスカはお構いなしに唇を開いた。
「趣味はあるかい? 休みの日は何をして過ごすんだ?」
「…………」
「好きな食べ物は? 嫌いな食べ物は?」
ノクスはイスカの質問に一つも答えなかった。初めから何もなかったかのように、静かに食事を続けている。
手元のフォークとナイフしか見ていないノクスに振り向いてもらう方法を考えながら、イスカはグラスを置いた。




