第29話
朝議の後、ノクスはエヴァンと共に皇帝の執務室を訪れていた。扉の横にはアスランが腕組みをして立っており、執務机の前に座るヴィルジールの隣には先代の宰相であるエヴァンの祖父、そして反対側にはローリエの姿もあった。
ローリエは今日首都を発つ予定だ。その前に顔を出しに来たのだろうか。
ヴィルジールは室内にいる面々を見渡し、徐に口を開いた。
「揃ったようだな。では始めろ」
んん、とローリエが改まったように咳払いをすると、懐から一通の手紙を取り出した。封にはハルメルス家の紋章がある。
「ごめんなさいね、忙しい人たちを呼びつけたりして。この手紙はアタシの父様──辺境伯から早馬で届いたものなの」
「辺境伯は何と?」
「東の国・エクウォルと同盟を結ぶことになったの。半年前からハルメルス領での魔獣の出没数が増えているのは手紙で知らせたと思うんだけど、それは隣国でも同様に起きているようで」
エクウォルは大陸の東にある国だ。ハルメルス領と隣接しており、数年前までは敵対関係だった。だが、ヴィルジールと同時期に即位した新王がとても友好的な人物で、即位早々に条約を結ばないかと提案してきたのだ。
「共同戦線のようなものですか?」
「ええ。そうするにあたって、ハルメルス領で調印式を行うことになったのよ。陛下の代理人として、弟君のセシル殿下が行かれることになったんだけど、政官からも代表を立ててほしくて」
セシル殿下はヴィルジールの異母兄弟だ。冷淡なヴィルジールとは違い、穏やかで優しい好青年である。年はノクスよりもいくつか下だろうか。
皇帝の代理人としてセシル殿下が行くのは、ヴィルジールが城を空けることができないからだ。近隣の領地を視察するならまだしも、ハルメルス領はとても遠い。
同行する政官は宰相であるエヴァンが適任だが、彼の祖父である先代の宰相がこの場にいるということは、どちらかの助太刀人として来てくれていると考えられる。
エヴァンが行くならば、城にはノクスが残ることになるが、そうなると主な政務はノクスとヴィルジールの二人で執り行うことになる。業務上問題はないだろうが、二人には共通点があるのだ。──口数が少ないという点が。
「……私が行くしかないでしょう。宰相を辺境の地へ行かせるわけにはいきません」
ノクスの迅速な決断に、エヴァンはころころと笑った。
「そうですよねぇ。私が城を空けたら、陛下を止められる人が誰もいなくなりますもん」
それはどういうことだとヴィルジールがエヴァンを睨みつける。
エヴァンはお構いなしに笑顔を飾ると、ノクスの肩をぽんぽんと叩いた。
「ハルメルス領へは馬車で何日ほどでしょうか」
「馬を飛ばして五日なので、ひと月近く帰れないと思った方がよいでしょうね」
ノクスは馬に乗れない。農家に生まれた平民ならまだしも、下町生まれの下町育ちの平民に乗馬を学ぶ機会などない。それを恥だと感じたことはないが、移動手段が馬車になることでひと月近く帰れないとなると、セバスチャンのことが心配だ。
「もしや、イスカを置いていくのが心配ですか?」
「まさか。家にいる老人がボケないか心配しているだけです」
神妙な面持ちでいるノクスに、エヴァンがにやにやと迫り寄る。
イスカは自分が居なくともセバスチャンと仲良くやれる人だ。しばらくの間留守にしたとて、好き勝手に過ごすことだろう。
──だけど。自分のいない間に空に稲妻が走ったら、誰が彼女の耳を塞いであげるのだろうか。
ノクスは降り頻る雨の音に耳を傾けながら、何も持たない左手をそっと握りしめていた。
ノクスが城を出る頃には、雨は憤っているような凄まじい降り方をしていた。大粒の雨は激しい音を立てて地面を叩き、霧のような飛沫をあげている。
「酷い雨ねぇ。こんな中ウチへ帰るの?」
今まさに雨の中に身を投じようとしていたノクスの隣に、難しい顔をしているローリエが立った。
ローリエは水を弾く素材で作られた外套を羽織っている。少し前に開発されたそれはまだ市には出回っていない代物だ。さすがはお洒落好きだ。もしかしたら、アスラン辺りに強請ったのかもしれないが。
「ええ、家で待っている人がいますので。そういうハルメルス卿こそ、この雨の中領地に戻られるのですか?」
「びしょ濡れになるのは嫌だけど、一刻も早く帰らないと。イスカちゃんによろしく伝えておいてね」
何をよろしく伝えるのだろう。はあ、と適当な返事をしているうちに、ローリエは颯爽と馬に飛び乗り、豪雨の中を駆け抜けていった。
ノクスは空を見上げた。雨は全てを押し流すほど凄まじく降っている。自分の持つ雨具では気休めにしかならないだろう。馬車を借りに戻ろうと足を引いたその時、目の前が光った。間を置かずに、肺にまで響くような落雷の地響きが伝わってきた。
婚約者殿、と。
聞こえるはずのない声も聞こえた気がして。
気がつけば、ノクスはフードを深く被り、勢いよく地を蹴って駆け出していた。
邸にたどり着いた時、ノクスの息は上がっていた。蹴破る勢いで扉を開け、ずぶ濡れで肩を上下させているノクスを見て、セバスチャンの糸目はまん丸に見開かれていた。
「おかえりなさいませ、ノクス様。まさか、この雨の中を走って帰ってこられたのですか?」
「時間が惜しかった」
ノクスは雨具を脱ぎ捨てると、セバスチャンから差し出されたタオルで乱暴に身体を拭いた。
「お湯の用意なら出来ておりますよ」
「そんなことより、彼女はどこにいる?」
雨具を拾うセバスチャンの手が止まる。
「イスカーチェリ様でしたら、お部屋にいらっしゃるかと。何やらすることがあると申されていたような……」
ノクスはタオルを頭から被ったまま、雨水を吸って重くなった上衣を脱いだ。衣服を脱ぎ捨て、セバスチャンに拾わせたことなど子供の頃以来だ。セバスチャンも驚いていたが、ただならぬ様子のノクスを見て何かを察したようだった。
「すまない、セバスチャン」
ノクスは早口でそう言い、仕事鞄を床に放り出した。これはトドメの一撃だったようで、流石のセバスチャンも「ひょわっ」とお茶目な声を出していた。
階段を駆け上がり、客間が三つ並ぶ廊下を走る。一番奥の角部屋がイスカの部屋だ。
ノクスは声も掛けずに部屋の扉を開けた。




