第28話
暗闇を潤すように雨が降っている。昼間は雨の気配を微塵も感じさせない空模様だったというのに、夜が深まった途端に銀のような大粒の雨が若葉に降り注いでいた。
中々寝付けなかったノクスは、厨房でひとりお湯を沸かしていた。適当なティーカップを出し、ポットに茶葉を入れて、そのまま鍋の下で揺らめく炎を眺めていると、ふいに厨房全体がぱあっと明るくなった。
「……セバスチャン?」
ふらりと身体ごと入り口へ向くと、そこには予想通りの人が立っていた。
「珍しいですなぁ。ノクス様がこのような時間にいらっしゃるのは」
セバスチャンはお風呂から上がったばかりなのか、首からタオルを掛けていた。見慣れない寝間着はエプロンと同様彼女からの贈り物なのか、不思議なデザインをしている。
「寝付けないから、温かいものでも飲もうかと思ったんだ」
「それはそれは。お呼びくださればお持ちいたしましたのに」
「こんな時間に老人を起こすのは悪いだろう」
ノクスはちらりと時計を見遣る。針はもう真上にいる。セバスチャンはいつもこんな時間まで起きていたのだろうか。
セバスチャンは飄々と笑いながらノクスの隣に来ると、目元を和らげた。
「何を仰います。お楽しみはこれからなのですよ」
「こんな時間から何をするんだ」
「それはじじいの秘密でございます」
「そういう時だけ爺さんぶるな」
ノクスははぁ、とため息を吐いた。
お茶を淹れるまでの間、セバスチャンは何も言わなかった。一杯飲むかと尋ねると、それはそれは嬉しそうに笑って頷いた。
適当に取り出したもう一つのティーカップは、イスカが気に入って使っている柄のものだった。白い花が描かれているものだ。この花が好きなのかどうかは分からないが、彼女の性格上好きだから使っているのだろうと思う。
別のティーカップを出し、ほどよく蒸らされたお茶を注いでいく。立ち上る湯気からは香ばしい匂いがした。
「セバスチャンはどうして彼女が作ったものを美味しく食べられるんだ?」
ノクスはイスカが作ったものを美味しく食べられない。彼女はよくセバスチャンの仕事を手伝っているが、その結果はお世辞にも良いとは言えない。
ほんの少し焼くだけでよいパンは何故か黒くなる。皮を剥くだけでいいものは肝心な身まで削られ、セバスチャンが剥いたものよりも遥かに小さく、ざっくりと洗って出すだけでいい簡単なものも不思議な進化を遂げて出てくる。
ノクスがセバスチャンならば、間違いなく厨房から追い出すのだが、セバスチャンはそうしない。いつだって嬉しそうに顔を綻ばせながら、彼女が作ったものを美味しいと言って食べているのだ。
セバスチャンはノクスが淹れたお茶を有り難そうにひと口啜ると、ほうっと息を吐いた。
「誰かが自分のために作ってくれた物というのは、それだけで有り難く美味しいものなのですよ」
「いつもいつも焦げているじゃないか。よく許せたものだ」
ありがた迷惑だと呟くノクスに、セバスチャンはそっと微笑みかけ、そしてゆっくりと首を左右に振った。
歳のせいか湿っぽい瞳が、ティーカップからノクスへと動く。
「実は今日、ハルメルス様とお茶を飲まれている時に、スコーンをお出ししたのです。ハルメルス様のスコーンに添えたジャムは普通のものを、イスカーチェリ様の方には砂糖ではなく塩を使ったものを」
ノクスはぱちくりと瞬きをした。
「……何の嫌がらせだ?」
「それがですね、イスカーチェリ様は甘くて美味しいと言っておられたのですよ。それはそれは美味しそうに食べてくださったのです」
「どこまで味覚音痴なんだ」
セバスチャンはどうしてそんなことをしたのだろう。彼女の味覚音痴がどれほどのものなのか知りたかったのだろうか。
「お茶も特別渋いものをお出ししましたが、普通に飲まれておいででした」
「嫌がらせの嵐だな」
「そうではないのです、ノクス様」
セバスチャンの声が低くなった。語尾が悲しげに震えていたことに気づいたノクスは、手に持っていたカップを台に置いて向き直った。
「これはじじいの勝手な推測ですがの。おそらくイスカーチェリ様は味覚音痴ではなく、味が分からないのではないかと」
「どういうことだ?」
「何を食べても、全部同じように感じるのではないかと──そう思うたのです」
ノクスは青色の瞳を窓の向こうへ投げる。
雨は秋の長雨を思わせるような陰気な降り方をしていた。
◆
翌朝、ノクスはいつもより早く出仕した。特別な何かがあったわけではないが、彼女が目を覚ますよりも前に家を出たかったのだ。彼女がノクスの邸に来てから、共に朝食を取らずに見送りも受けずに家を出たのは、今日が初めてだった。
あとで小言を言われるのは目に見えているが、その頃にはよく分からないこの気持ちは消えているだろう。
「──浮かない顔をしていますね、ノクス」
朝から山積みの書類に囲まれているノクスへと呑気な声が降る。
ノクスは手を動かしながら、いつもの調子で返した。
「そうでしょうか」
「何かあったのですか?」
ノクスの上司は聡い。いつものほほんとしていて、不思議なくらいに笑っている人だが、実際は人のことをよく見ている。慣れた手つきでお茶を淹れると、ノクスにそっと差し出してきた。
ノクスは有り難く受け取り、そっとひと口喉に流し込んだ。昨晩セバスチャンと飲んだものよりもずっと甘くて飲みやすいが、ノクスは老人と飲む渋いお茶の方が好きだ。
「……イスカの好きな食べ物を知っていますか?」
らしくない質問をしているのは自分でも分かっていた。
エヴァンは一瞬目を丸くさせていたが、すぐに笑みを浮かべた。
「うーん。何でも美味しそうに食べているので、何が特別好きなのかまでは」
ノクスは夕暮れの空のような色をしているお茶を眺めながら、次の質問を投げかける。
「では、嫌いなものは?」
「それは私も知りたいですねぇ。一度でいいので、んぎゃっと言わせてみたいです」
エヴァンはふふっと笑うと、ノクスの向かいに椅子を置いて腰掛けた。
「彼女のことなら、私よりもアスランの方がよく知っていると思いますよ。幼い頃から家同士で交流があったはずですから」
アスランとはデューク侯爵家の次期当主であり、騎士団に所属している青年の名だ。彼女だけでなく皇帝のヴィルジールや目の前にいる宰相のエヴァンとも幼馴染である。
ノクスとはこの中で一番接点が少ないが、仕事の関係で顔を合わせた時は気さくに接してくれた。彼ならばエヴァン同様に快く答えてくれそうだが、これ以上踏み込むのは良くない気がした。
なるほどと頷いていると、エヴァンが顔を近づけてきた。
「それはそうと、貴方から恋バナをされる日が来るなんて……嬉しいものですねぇ」
「は? 恋バナ?」
「え、違うのですか?」
「ただの質問です。よく分からない方向に転換するのはおやめください」
ノクスはずずっとお茶を啜り、腰を上げて伸びをした。
窓の外では、昨晩から続いている雨が絶え間なく降っていた。




