第25話
雷が鳴り出した。大地を真っ二つに裂くような激しい振動があり、稲妻が雲に覆われた暗い空を鋭く走り、凄まじい雷を落とした。
「……どうしたんだ」
頭上からノクスが気遣うように声を掛けてきたが、何も返せなかった。遠くの空から次々と落ちてくる音と光に怯えながら、ぎゅっとまぶたを伏せる。
そうしているうちに、肩を叩く雨粒が大きくなっていった。
「……まさか、雷が怖いのか?」
信じられないとでも言いたげな声音で、ノクスが問いかけてくる。
イスカは必死に首を左右に振った。違う、そんなことはない、怖くなんてない、と声にならない声で訴える。
自制ができないほど震えていると、何かが頬を撫でた。
それがノクスの手だと気づいた時には、彼の両手に頬を包み込まれていた。
「目を閉じると、音はより鮮明に聞こえてしまうものだ」
「でも、目を開けたら……」
「目を開けろ」
「い、いやだ」
イスカはノクスから逃げるように顔を振った。小さな子供のように、いやだいやだと暴れ回る。
それでもノクスはイスカから手を離さなかった。逃れようとするイスカの手首を掴むと、あろうことか頭突きを喰らわせる。
その衝撃で、イスカは目を開けてしまった。
すると、びっくりするくらい近くにノクスの顔があった。
吐息が掛かりそうな距離だ。雷が鳴っていなければ、心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思うほどに。
ひゅっと息を呑んだまま固まっていると、ノクスがイスカの耳を撫でた。そんなことをしても、イスカの世界から雷鳴の音は消えやしないというのに。
だけど、真冬の夜空のような瞳が、イスカだけを見つめて。イスカだけに聞こえるように奏でられた声が、鼓膜を震わせたその時。
「僕の目を見ろ──イスカ」
イスカの世界から、空を裂く光の音が消えた。
「僕の目を見て、僕の声だけを聞いていろ」
信じられないほど優しいその声は、イスカの耳朶をじわじわと焼いていった。
「──わ、わた」
「うん」
「わたしは……雷が、怖いんじゃなくて」
ぽろりと、イスカの両目から涙がこぼれ落ちる。それを拭うノクスの指先は優しく、その手の温かさに声を上げて泣いてしまいたくなった。
「……何が、怖いんだ」
ぽろぽろと涙を落としているイスカを前に、ノクスは困った様子だ。けれどその顔に、呆れや苛立ちといったいつもの表情は浮かんでいなかった。
しばらくの間、イスカとノクスは互いに無言のまま向き合っていた。雨音だけがふたりの間に横たわり、やがて先に口を開いたのはノクスの方だった。
「──僕は、人が一番怖い」
イスカはゆっくりと瞬きをした。誰が相手であろうと毅然とした態度を崩さなかった彼にも、恐れるものがあったとは。
「……君にも、怖いものがあるんだね」
「僕を何だと思っているんだ」
信じられない思いに目を見開いていると、ノクスは懐から懐中時計を取り出した。以前彼と町へ出掛けた時に見たものと同じだ。随分と古い物であることから、誰かから貰ったものなのかもしれない。
ノクスは宝物に触れるような優しい手つきで蓋を開いた。
蓋の内側には、誰かの肖像画が納められていた。隣の時計の針は止まっている。修理に出す気はないようだ。
彼は懐中時計に目を落としたまま、静かな声音で語り出した。
「……ずっと昔。僕の目の前で殺されてしまった子がいた。守ると約束したのに」
彼は一瞬自嘲するような笑みを浮かべる。
しかしすぐにその表情を消すと、懐中時計の蓋を閉め、金色の表面を親指で撫でた。
「その子は……貴族に殺されてしまったのかい?」
ただなんとなく、そんな気がして。口をついて出た問いかけに、ノクスは軽く目を瞠りながら「そうだ」と頷いた。
その子はどんな子だったのだろう。ノクスに守ると約束された子は、男の子なのだろうか、それとも女の子なのだろうか。懐中時計の肖像画の人とは関係があるのだろうか。
色々と聞きたいことはあったが、今はまだ──訊いてはいけないような気がした。
そのまま黙っていると、ノクスがふらりと立ち上がった。何かを探すように空を仰ぎ、肺の中の空気全てを吐ききるような重いため息をついた。
雨はもう降り止んでいた。
「……あの子は、月のような髪をしていた」
見上げた空に月は浮かんでいない。雲で隠れているようだ。
イスカはずぶ濡れになった自分の髪の先に少しだけ触れてから、隣に立っているノクスを見上げた。
月も星も見えない空の下に佇むノクスは、そこにいるのにそこにいないかのような儚げな雰囲気を晒し出していた。はたはたと服から滴る水は、彼の涙のようにも思える。
常に黒一色の服を纏っていたのは、守れずに死なせてしまった“あの子”への弔意を表しているのだろうか。
「だから君は──いつも黒色の服を?」
ノクスは無言でうなずいた。その横顔があまりにも綺麗で、さびしくて、イスカはまた泣きたくなってしまった。
だけど、泣くわけにはいかない。
今のイスカには、やらなければならないことがある。
イスカは立ち上がって、ノクスの両手を取る。そしてぎゅうっと握りしめ、目一杯の笑顔を飾った。
「──うちに帰ろう、ノクス」
「……僕の家だが」
「いずれ私の家にもなる設定だろう。現時点では」
「……現時点ではな」
ほんの少しだけ柔らかい表情をしたノクスの手は、かすかに震えている。気づかれたくなかったのか、彼はイスカの手からするりと手を引き抜くと、ぎこちない動きでイスカと向き合った。
「触れても、いいか」
今の今まで手が触れ合っていたというのに。自分から離れておいて、何を言っているのだろうか。
イスカはぐいーっと首を横に傾けた。脇腹を突かれでもしたら、間違いなく倒れる勢いで。
「……えっと、どこにだい? 口に出してはまずいところかい?」
「……家まで担いで行くつもりだから、その前に許可をと思ったんだが」
思いがけない言葉に、イスカは手を打つように表情を明るくした。今度は嬉しくて目が涙に濡れそうだ。
「あはははっ、許可なんていらないよ。だって、君は私の婚約者なのだから」
イスカは両手を広げ、晴々とした笑顔を浮かべた。
ノクスは深い溜め息を吐きながら、黒い革靴で水溜りを踏んだ。飛び散った露は銀色に煌めいていた。




