第24話
誰かが泣いている。そっと目を開けてみると、目の前には背を丸めて蹲っている少女がいた。ぎゅうとまぶたを閉じて、耳を手で塞いでいる。その子が幼い頃の自分なのだと気づいた時には、狂ったように怒鳴っている父の声も聞こえた。
──どこにいる。逃げるな。こちらへ来い。これはお前のためだ。
父の声は今も響いている。延々と同じ言葉が繰り返され、波紋を広げるように木霊している。
声を上げて泣くことも許されなかった少女は、震える唇を噛み締めながら涙をこぼしている。雨粒を落とす音なら、誰にも聞こえてやしないだろうと。
幼い自分は静かに泣き続けている。目の前にいるというのに、どうすることもできずに立ち尽くしていると、誰かがイスカの右手を掴んだ。
イスカと変わらない大きさの手だ。
(──誰だ?)
温かい手だ。その感触をイスカは知っている。
胸が高鳴るのを感じながら振り返ると、鮮烈な光が世界を切り裂いた。
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ゆっくりと目を開けると、頼りなく揺れる蝋燭の灯りが、すぐ傍に座っている人の顔をほんのりと照らしだした。その横顔を見て、イスカは瞳を揺らした。
「──……婚約殿?」
「起きたのか」
ノクスは読みかけの本を閉じると、イスカの顔を覗き込んできた。涎でも出ていたのか、訝しげな目をしている。
「……ええと、ここはどこだい?」
「魔術省の治療室だ」
イスカは飛び起きた。この世で一番お近づきになりたくない場所にいるとは、一体何事だろうか。
「それは由々しきことだね。早く帰ろう」
「大怪我をしたんだから、このまま寝ていたらどうだ」
「私は大怪我をしたのかい?」
掛け布団を剥がして脚があることを確認してから、頭から順に体中を触ってみると、ちゃんと感覚があった。包帯一つ巻かれていない腕を眺めながら、イスカは首を傾げた。
「まさか覚えていないのか?」
「魔獣に遭遇したところまでは覚えているけれど」
「その魔獣に大怪我を負わされたんだ。ハルメルス卿が血塗れの貴女をここに運び込んで、魔術省の長官が治療をしたと聞いた」
イスカはノクスの顔を見上げてから、窓の外に目を遣った。ローリエと町を歩いていた時からどれくらい経ったのだろうか。今日の空は雲に覆われ、星一つ見えない。
「……雨が降りそうだから、お家に帰ろう」
イスカはいそいそとベッドから降りた。辺りを見回し、自分の私物があるかどうかを確認してみると、城下町で買った雑貨が入った紙袋が置いてあった。それを胸の前で抱きしめながら、キリッと顔を上げる。
すると、変な顔をしているノクスと目が合った。
「雨に降られたくないなら、城に泊まればいいだろう」
「ヴィルジールと一つ屋根の下なんて嫌だよ」
「この部屋と陛下が寝起きしている部屋は別々の建物だが」
むむ、とイスカは口を尖らせる。部屋の中を見渡してみると、扉の上に見覚えのある紋章が浮かんでいた。残念ながら、ここが魔術省の一角であることに間違いはないようだ。
「では婚約者殿」
イスカはわざとらしい咳払いを一つしてから、腕組みをしているノクスをちらりと横目で見る。
「何だ」
「私はセバスチャンが作ったご飯が食べたい」
それ即ち、ノクスの邸に帰りたいのだというイスカの主張に、ノクスは渋い顔で頷いたのだった。
魔術省は夜間であろうと人がいる。騎士が夜間に見張り番をするように、魔術師たちも交代で有事に備えている。
イスカがノクスを連れて部屋を出ると、ホールには三名ほど残っていた。そのうちの一人に声を掛けてから出て行った。
城門を出た頃には、雨が降り始めた。雨粒は小さいが、ノクスの邸に着く頃にはしっかりと濡れてしまうかもしれない。雨具を借りに城に戻るか悩んでいると、斜め前を歩いていたノクスが突然足を止めた。
なんと、着ていたジャケットを脱いで、突きつけるようにイスカに差し出してきたのだ。
イスカは飾り気のない黒一色のジャケットとノクスを交互に見てから、こてんと首を傾げた。
「え、くれるのかい?」
「どうしてそうなるんだ。濡れるから頭から被れという意味だが」
「だったらそうと言ってくれたまえよ」
「それくらい、言わなくても分かるだろう」
イスカは「分からないよ」と笑いながら、ノクスのジャケットを受け取った。装飾一つないシンプルなそれは、何度見ても喪服のようである。言われた通りに頭から被ってみると、微かにノクスの匂いがした。
再び歩き出した時、ノクスはイスカと並んで歩いていた。今はもう何ともないとはいえ、数時間前に大怪我をした人間を心配してくれているのかもしれない。
なんだか勝手に嬉しくなって、イスカは歩調を弾ませた。
「こうして歩いていると、まるで恋人同士のようではないかい?」
そう言って、隣を歩くノクスに目を向けると、ノクスは変なものでも食べたような顔をしながら、ほうっと息を吐いた。
「世の中の通行人は、街中で男女が歩いているのを見て、そのように判断するのか?」
「スパイスが足りないのなら、手でも繋いでみるとか」
「断る。そういうことは他の人を当たってくれ」
そういうことこそ、婚約者とするものであり婚約者としか出来ないことなのだが。そう思ってはいても、口に出すことはできない。イスカとノクスの婚約は、終わりが約束されているのだから。
イスカは苦く笑いながら、頬を撫でてくるノクスのジャケットを指先で摘む。歩いているうちに雨水を吸い、しっとりと湿ってしまっていた。
「手が嫌なら、腕を組んでみるとか」
「何のために?」
「……私がときめくために?」
「なんだそれは」
ふっ、とノクスが小さな笑みを零した。その一瞬の表情を、イスカは見逃さなかった。初めて見る表情を前に、瞬き一つせずに見入ってしまう。
ノクスは戸惑い気味に眉を寄せる。
「なんだ、僕の顔をまじまじと見て」
「え、ええと……その、鼻筋がいい感じだなあって思ったんだよ」
我ながら苦しい言い訳だったが、ノクスは気にも留めることなくいつもの調子で「はあ」と返した。
そうして、何気なく空を見上げた時。鮮烈な光が雲の隙間を走り抜けたかと思えば、間を置かずに、天地が逆になるような音が響き渡った。
「ひゃっ」
知らない声が出た。出所は自分の口である。
イスカは両の手で両耳を塞ぎながら、その場に崩れ落ちた。




