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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
3章 眠らない夢

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第19話


 ただ一度、名前を呼んだだけで、この上なく嬉しそうに笑っていたイスカの表情を思い出す。それは果てのない雪原に春の光が差し込み、降り積もった雪を溶かすかのような、そんな微笑みだった。


「──おはようございます、ノクス。あの後は大丈夫でしたか?」


 呑気な上司の声で、ノクスは自分がぼんやりとしていたことに気がついた。執務室で今日の議会で必要なものを整理していたはずだったが、いつの間にか手が止まっている。


 何事もなかったかのようにエヴァンを見上げると、彼は穏やかな笑みを飾っていた。


「……おはようございます。昨日はお先に失礼してしまい、申し訳ありませんでした」


「よいのですよ、あんな事があったのですから。貴方もイスカも、怪我がなくて何よりでした」


 エヴァンは「逆恨みなんてこわいこわい」と肩をすくめ、いつもの調子で仕事に取り掛かっている。その前に、癖なのか寝癖なのか分からないハネハネの髪を直してはどうかと思ったが、エヴァンが運んできてくれたコーヒーと共に小言は飲み込んだ。


(──アーネルド男爵家、か)


 昨日の式典の後に開かれた夜会でノクスにワインを掛けてきた少女は、半年前に取り潰しとなったアーネルド男爵家の一人娘だ。当主である父親は帝国の法で禁じられている人身売買に加担した罪で捕縛され、爵位と財産を取り上げられた。牢の中で首を吊って死んだと聞いているが、その後彼の娘がどうなったのかまでは知らなかった。


「あの後、会場は大変だったんですよ」


「大変……だったのですか?」


「ええ、そりゃあもう。貴方たちがホールを出て行ってすぐに、陛下が踊られたもんですから」


 ノクスは驚きのあまりにコーヒーを噴き出しそうになった。


「踊られたのですか? あの陛下が」


「そうなんです! あの陛下が!」


「相手はどちらのご令嬢ですか」


 エヴァンは勿体ぶるように咳払いをすると、ノクスの耳元に顔を寄せる。


「驚かないで聞いてくださいね。なんと陛下と踊られたのは──ローリエ・ハルメルス卿です!」


 卿、という単語が名前の後ろにくっついていたのを、ノクスは聞き逃さなかった。東の国境を守るハルメルス辺境伯の跡継ぎと同じ名前が聞こえた気がしたが、そちらは聞き間違えかもしれない。


「ハルメルス辺境伯にはお嬢様もいらっしゃったのですか」


「……ええと、いませんよ?」


「ですが今、ハルメルス卿と仰られてましたよね。ですから息子だけでなく娘もいて、その娘は騎士なのかと」


 エヴァンは三拍置いたのちに腹を抱えて笑い出した。


「貴方も冗談を言ったりするのですねぇ。ハルメルス辺境伯の嫡男であるローリエは男性ですよ」


「はぁ。男性……」


「ええ、男性です。ローリエ・ハルメルス、性別は男。彼が陛下と踊ったのですよ」


「…………は?」


 ──彼が、陛下と踊った。エヴァンの発言を脳内で三度繰り返してから、ノクスはふらりと視線を持ち上げた。


 泣く子も黙る──いや、泣く子も眼差し一つで黙らせる皇帝が、男性と踊った?


「……何の冗談でしょうか」


「それがですね、冗談なんかじゃないんですよ」


 エヴァンは得意げな顔をして、昨夜ノクスがホールから出て行った後のことを語り始めた。



 アーネルド男爵令嬢が公衆の面前でノクスにワインを掛けた昨夜。颯爽と現れたイスカの手によって男爵令嬢は報復を受け、ノクスはイスカと共に会場を後にした。その後、男爵令嬢は数名の騎士に取り押さえられ、会場の外に放り出されたのだが、ホール内は騒然としたままだった。


 そこへ現れたのが、真っ赤なドレスに身を包んだローリエ・ハルメルスだった。彼は威風堂々たる立ち振る舞いでヴィルジールの目の前まで行くと、強引にホールの中央へと連れ出し、楽団に円舞曲を奏でさせた。


『──いやねぇ、陛下ったら。そこらの女よりイケてるアタシと踊ってるのに、何よその顔』

『──誰が踊れと言った?』

『せっかく綺麗な顔してるんだから笑いなさいよ。にこっと笑顔! イスカちゃんを見習ってェ』

『ローリエ、貴様』

『んふふ、ごめんなさいね。でもさぁ、嫌なら踊らなければいいじゃない? 貴方の一言でアタシを牢に放り込むことだってできたのに、こうして貴方は踊ってる。──この空気をどうにかするには、貴方が出ていくしかなったものね』


 ヴィルジールは公の場で踊ったことがない。今回の夜会が彼のファーストダンスだ。一生の一度しかないその機会は、一人の友人とその婚約者のために捧げられた。


 ──皇帝が辺境伯の跡継ぎ(男)と踊っている。その光景を前にしたら、没落貴族の令嬢と平民の政官の騒ぎなど、皆の記憶から忘れ去られるだろう。



「──というわけなんですよ。陛下が踊ったのは、貴方たちを守るためでしてね」


 エヴァンはコーヒーにミルクと角砂糖を入れた。くるくるとスプーンでかき混ぜている彼の横顔は、雨上がりの空のように晴れやかだ。


「……つまり陛下の犠牲によって、私のことなど皆忘れてくれているのですね」


「ええ、あの令嬢もね。ローリエのあの強烈なドレスなんて見ちゃった人は赤色なんて着たくないでしょうし」


 ローリエさんとやらはどんな赤色のドレスを着ていたのだろうか。まだ見ぬ辺境伯の御子息と我らが皇帝ヴィルジールによる武勇伝──いや舞勇伝は、この先もエヴァンによって語り継がれるのだろう。


「さてと、それでは朝議に向かいましょうか。今日は陛下がいないから荒れるだろうなぁ」


「面と向かって物申すことができない小心者に耳を貸す必要はありません」


「全員が全員、貴方のように誰にでも何でも言えるわけじゃないんですよ、ノクス」


 はあ、とノクスは気のない返事をして、エヴァンに続いて執務室を後にした。


 政官が一堂に会する朝議はノクスとエヴァンが交代で司会進行を務めている。会場は居館の西側にある広々とした政堂で行われているが、部屋の広さに対して参加者は少ない。政官の数が二十年前の半数しかいないからだ。


「──それでは本日の朝議を始めます」


 それぞれの配置についた政官の面々を見渡してから、ノクスはまっすぐな声を政堂に響かせた。

 

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