第18話
イスカは立ち尽くしているノクスの目の前まで駆け寄った。冷たいワインを浴びせられたからか、彼の顔は蒼白色だ。白い手を握ると、吸い込まれるようにイスカを見つめていた瞳が揺れ動いた。
「大丈夫かい、婚約者殿。……ああ、こんなに濡れてしまって」
「……貴女こそ」
「うん? 私こそ何だと言うんだ」
イスカは小さく笑ってから、ノクスの手を引いて歩き出した。
ノクスはイスカの手を振り払わなかった。濡れた前髪からはワインが滴り、歩みを進めるたびに床に赤色の液が散った。悪いことをした子供のように俯いて、ただ足を動かしている。
イスカはノクスの手を握る手に力を込めた。冷え切ったワインのように冷たくなっている指先に、ほんの少しでも熱が伝わってくれたらいいと、そう思いながら。
逃げるようにホールを出た二人は居館へと戻り、近くにあった客間に入った。バスルームへと直行し、イスカはノクスが着ているジャケットを剥ぎ取る。
早く着替えないと風邪を引いてしまうかもしれないというのに、ノクスは一向に服を脱ごうとしない。
イスカは軽く肩をすくめてから、ほんの少しだけ背が高いノクスの顔を見上げた。
「ほら、早く脱がないと、風邪を引いてしまうよ。それとも私に脱がしてほしいのかい?」
冗談めかして言うと、ノクスは長い長いため息を吐いた。
「……異性の前で脱げるわけがないだろう。貴女には恥じらいというものがないのか?」
イスカはぱちぱちと目を瞬いた。どうやらノクスはイスカのことを女性として見てくれていたようだ。
イスカは苦笑を漏らしながら、カーテンの向こうへと身を隠した。
「すまないね。私のせいか」
ノクスは何も言わなかった。静かなバスルームには衣擦れの音だけが響いている。タイミングを見計らって、目を瞑りながら大きめのバスタオルを投げ込むと「突然投げるな」と怒られた。その声はいつものノクスのものだった。
「ねえ、覗いてもいいかい?大事なところは隠しているかい?」
「僕は今バスタブの中だが」
「なら問題ないか。失礼するよ」
問題だらけだが、と強めの口調で返してきたノクスの声を無視して、イスカはカーテンを捲った。バスタブのお湯が白色だったことは確認済みだ。透けて見えることはないから問題ないだろう。
「…………おい」
ノクスは怒り気味にそう言うと、肩までお湯に沈めた。その目は警戒態勢──いや、戦闘態勢の小型生物のようである。
「そう怒らないでくれたまえよ。私は君の髪を洗いたいだけなんだ」
「結構だ! 自分で洗える!」
「こらこら、暴れたら色々と見えてしまうよ。嫁入り前の私がアレコレ見てしまったら、私はお嫁に行けなくなってしまう。そうしたら責任を取るのは貴殿になるが」
「────はぁ」
ノクスは観念したようにため息を吐いて、バスタブの縁に首を預け、頭を外に出したのだった。
イスカは鼻歌を歌いながら、ノクスの髪をわしゃわしゃと洗った。突然思い浮かんだメロディにしては、なかなかよい出来栄えだと思うが、ノクスは変な顔をしていた。
「痒いところはないかい?」
「ない。早く流してくれ」
「何を言ってるんだ。これからマッサージをするよ」
「オプションは結構だ」
イスカは口を尖らせた。せっかく婚約者の入浴を手伝うというオイシイ展開になっているというのに。何かと理由をつけて艶やかな黒髪に触れていたかったが、今日のところは引くことにした。これ以上堪能していては、ノクスの綺麗な顔がさらに歪んでしまう。
イスカはバスルームの扉の向こうにある客室へと移動し、近くを通りかかった使用人に水とグラスを用意させ、ノクスが入浴を終えるのを待った。
バスルームから出てきたノクスは白いシャツに細身のズボンを履いていた。彼が黒色以外の服を着ているのを見るのは初めてのことでとても新鮮だ。白という色を纏っているせいか、普段よりもずっと柔らかい印象を受ける。
ノクスは窓を開け、夜風に吹かれながら髪を拭きはじめた。
「──どうして違うドレスを?」
ふと、ノクスは関心のなさそうな声音でそう問いかけてきた。その静かな声色に反して、青色の瞳は真っ直ぐにイスカを見ている。
イスカは自分が着ているドレスを見下ろしてから、薄らと微笑んだ。
「君こそ、私とセバスチャンがこっそり選んだ礼服を着てくれなかっただろう。せめてタイくらいはと思って、洒落たグレーのものを用意したのに」
「僕と貴女とでは違う。僕は頼んでいないが、貴女は僕に頼んだだろう。どうして貴女は僕が選んだものを着てこなかったんだ?」
イスカは手に持っていたグラスを置いた。
ノクスにドレスを見立ててもらったのは、イスカの願いごとのひとつ目だからだ。三つの願いごとを叶えてくれたら、彼の目の前からいなくなる──そのうちの一つを彼はちゃんと叶えてくれた。彼に選んでもらった布で仕立てられたドレスは、五日前に邸に届いていたというのに。
だけどイスカは着なかった。その理由は──。
「黒いドレスを着たのは初めてだが、中々似合っていると思わないか?」
イスカは立ち上がって、ノクスの目の前まで歩み寄った。ほんの少しだけ背が高い彼の綺麗な顔を見上げ、黒子ひとつない白い頬に指を滑らせる。
「本当は……君が選んでくれた、あのドレスを着たかったよ」
「ならどうして……」
「あれを着るのは今日じゃない気がしたんだ。だから今回は君に合わせて、黒色のものを着てきた。ただそれだけのことさ」
窓から射し込む青白い月光を背にしたノクスが、窮屈そうに眉根を寄せる。軽薄そうな唇がそっと開き、何かを言いかけたが、イスカは頬に触れていた手を少しだけ動かして、親指を唇に当てた。何も言うな、と伝えるように。
夜会のためのドレスを婚約者に見立ててもらうのは、女子にとって憧れだ。女子の誰もが一度は夢見ることを一つ目の願いにしたのは、普通の女子のような思いを味わってみたかったからだ。自分のために選んでくれたものを着たら、どんな気分になるのだろうかと。
だけどイスカは着なかった。黒色の服しか着ないノクスに合わせたというのは建前で、本当の理由は夜会にある。
ノクスはおそらく貴族が嫌いだ。彼の口から聞いたわけではないが、そうだろうと感じた場面が何度もある。
夜会は貴族階級の人間の集まりだ。取り繕った笑顔と言葉の裏側で、様々なものが張り巡らされている。敵か味方か傍観者しかいないあの場所を好き好んで参加している者はひとりもいない。
そんな場所に、選んでもらったドレスを着て参加をしたら、彼らと同じだと思われるのではないかと思ったのだ。
イスカも貴族だ。だけど彼らとは違うのだと思ってほしくて。同じだと思われるのが怖くて、着れなかったのだ。
「私も君もせっかくおめかしをしたのに、今夜は踊れないね」
イスカは冗談めかした声でそう言い、バスルームで濡らした裾をひらりと持ち上げる。
「……僕は踊れない」
「音楽に合わせて適当に足を動かすだけでいいんだよ」
「難しいことを言わないでくれ」
ノクスの声音が少しだけ和らぐ。夜空へと移された眼差しにいつもの鋭さはない。ハードスケジュールの後にあんな事が起きたからか、疲れているように見えた。
イスカはノクスの隣に並び立ち、彼に倣って夜空を見上げる。彼がどの星を見つめているのかは分からないが、同じものを見つけられていたらいいと思う。
「──ねぇ、婚約者殿。二つ目の願いを、今ここで言ってもいいだろうか」
「……無理難題でなければ」
「私のこと、名前で呼んでくれないか?」
イスカは月を見つめながら、願いごとを口にした。なんとなくだが、ノクスも月を見ているのではないかと思ったのだ。
「……イスカーチェリ」
「イスカ、と」
「イスカ。これでいいか?」
一度目はぎこちなさそうに、二度目は淡々とした響きを持って放たれたその声は、波紋を広げていくようにイスカの胸を温かくさせた。
イスカは頬を緩めた。名前を呼ばれるのは、こんなにも嬉しいことだったのだ。




