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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
2章 波乱の幕開け

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第17話


 式典は滞りなく終えた。皇帝のスピーチの原稿が何者かにすり替えられていた点を除けば、概ね予定通りだったと言っていいだろう。


 式の途中でイスカが派手な格好をしている人と一緒に、口パクで何か言いながら手を振ってきた姿を見た時は、冷や汗をかかされたが。


「──ひとまずお疲れ様でした。これから夜会の準備に入りますので、夕刻にまた集合してください」


 ホールの二階──分厚いカーテンの裏側で、エヴァンが手帳を見ながらこの後の予定の確認をしている。今この場にいるのは皇帝であるヴィルジール、護衛であるアスランとその部下が四名、宰相であるエヴァンと補佐であるノクス、そして皇帝の身の回りの世話をしている少年だ。


 四時間後にはホールで夜会が開かれる。軽食とワインを片手に交流や社交ダンスを楽しむ場だが、貴族の集まりのようなものなので、ノクスは気が乗らなかった。


 身支度の為、一同はホールから居館へと移動をする。一階にある化粧室と客間が貸し出されているので、いつもは閑散としている玄関ホールが今日は賑やかになっていた。幸運なことにヴィルジールの姿を近くで見ることができた令嬢が、頬を赤く染め上げてうっとりとしている。


 ノクスが執務室へ戻ると、何故か中にはセバスチャンがいた。


「お帰りなさいませ、ノクス様」


 セバスチャンは深々と一礼すると、にっこりと笑った。毎日邸で見ているその姿を前にしていると、ここが自分の執務室であることを忘れそうになる。


「何故ここにセバスチャンが?」


「お茶を淹れるために馳せ参じたのですよ」


「わざわざ僕の執務室まで? どうやって入ったんだ……」


 ほほほ、とセバスチャンは笑いながら、茶器を使い始めた。いつものエプロン姿ではなく洒落た燕尾服を着ていて新鮮だ。お茶を淹れている姿はまるで執事のようである。

 差し出されたお茶の隣には、珍しく菓子があった。


「君が菓子を出すとは珍しいな」


「今日はいい日ですからのう」


 どこがいい日なんだ、とノクスは心の中で呟く。皇帝が即位して一年を迎えたのはめでたいことだが、民にとってはどうだろうか。


 民は平和で安定した生活さえ送れれば、皇帝は誰でも構わないのではないかと思う。現にノクスはそういう考えの持ち主だ。


 小皿に乗った菓子に口をつけると、ほんのりと甘かった。端が焦げたように黒いのが少々気になったが、イスカが焼いた炭の塊のようなパンに比べればずっといい。


「……セバスチャン。まさかとは思うが、この菓子を作ったのは?」


 セバスチャンは二度瞬きをしたあと、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。それが答えのようだ。



 夕刻、ノクスはジャケットだけを替えてホールへと向かった。セバスチャンとイスカが結託してアイスグレーの礼服を用意してくれていたが、ノクスは断った。黒色の服を着ていなければ落ち着かないからだ。


 そもそも、夜会に参加はしてもすぐに帰るつもりだった。皇帝に挨拶をし、エヴァンとひとこと二言交わせば、本日のノクスの任務は終了だ。平民であるノクスが貴族の集まりである夜会で、それ以上何をするというのか。


 一瞬、頭の中にイスカの顔が浮かんだ。パートナーがどうだと語っていた彼女の笑顔が。


 仮に彼女の言う通りに参加するとして、綺麗に着飾った彼女の隣に、マナーの欠片もない黒服の平民が立ったら、周りはどう思うだろうか。彼女に恥をかかせることになるのではないだろうか。


 いっそ恥をかかせて、一刻も早く婚約を解消したいと思ってもらうことも考えたが──それではイスカのために仕立てられたドレスが報われないだろう。


 だからノクスは顔だけ出して、イスカはノクスではない別の誰かと踊って楽しんでくれたらいいと思う。


 裏口からホールに入ったノクスは、エヴァンの姿を探して歩き出した。すれ違う人たちからは好奇な目で見られ、ひそひそと何かを囁かれるが、気にしなければただの雑音だ。


 人混みを抜けて中央へ出ると、階段のそばでエヴァンが先代の宰相と話している姿を見かけた。どうやらこの夜会はイスカのドレス姿を見ることなく終えそうだ。


 目的地へと向かって歩いていると、突然横から人が飛び出し、ノクスの行く手を阻んだ。


「貴方が死神政官、ノクス・プルヴィアですわね?」


 現れたのは真っ赤な色のドレスを着ている少女だった。見たところ貴族の令嬢のようだが、それにしてはドレスの糸がほつれていたり髪飾りが錆びていたりしている。


「……如何にも、私がプルヴィアですが」


 合っていると返事をすると、少女はかあっと顔を赤く染めるなり、手に持っていたグラスの中身をノクスへ目掛けてぶちまけた。


 はたはたと、赤色の液体が白い大理石の床に落ちる。赤ワインを掛けられたのだと気づいた時には、二杯目を頭から掛けられていた。


「貴方のせいで、わたくしの家はっ……、お父様を返してッ!!」


 ノクスは濡れた前髪の隙間から、少女の姿を眺めた。

 会ったこともなければ見たこともないが、彼女の発言から推測するならば──ノクスが半年前に不正を暴いたことで爵位を取り上げられ、職も辞すことになった男爵の娘だろうか。


 少女は泣きながら訴え、そして給仕をしている使用人から三杯目のグラスを引ったくるように取ると、ノクスへと向かって投げつけてきた。


「平民風情が、政官になったからといって──図々しいのよッ!!


 グラスが粉々に割れた音で、周囲にいた人たちが一斉に振り返った。


 何事かと問う必要はないだろう。ワインを掛けられた平民と、泣いている少女を見れば分かることだ。


 目線の先にいるエヴァンがノクスを見て駆け出すのが見える。これ以上騒ぎが大きくならないよう、この場から立ち去ろうと思い、踵を返そうとしたその時。


「──きゃあああッ!? だ、なッ……何ですのッ!?」


 なぜか少女が頭からずぶ濡れになっていた。


「すまないね、手が滑ってしまったようだ」


 聞き知った声がホールに響き渡る。声の主は少女の背後から現れ、勝ち気な微笑みを飾っていた。


 ノクスはその姿に思わず目を奪われていた。シャンデリアの光も宝石の輝きも飲み込んでしまいそうな、真っ黒なドレスに。城下町の仕立て屋でノクスが選んだ布で仕立てられたものではなく、ノクスのように黒一色でクラシカルなものだ。


 真っ黒なドレス姿で現れたのはイスカだった。ノクスにワインを掛けた少女をずぶ濡れにしたのも彼女だ。


 イスカはヒールを鳴らしながら歩み寄ってくると、頭ひとつ分背が低い少女を見下ろした。


「おや、三杯も彼にぶっ掛けたというのに、君のドレスはちっとも濡れていないね。赤色を着ていたのはこの為かい?」


 イスカの挑発的な問いに、少女は慌てふためいたように顔を赤くさせたり蒼くさせたりしている。


「そ、そんなわけないでしょうっ?!」


「貴女は頭から浴びても赤毛だから目立たないが、私が浴びたら人前に出られなくなってしまうよ。いいね、貴女の赤毛は」


「さっきから何なんですの!? 無関係のくせに、わたくしをこんな目にしてッ……!!」


 少女の頬に赤みが増していく。ワインを掛けられただけでなく、髪まで馬鹿にされたことで耐えかねたのか、すぐ近くのテーブルから並々とワインが注がれているグラスを手に取り、イスカへと目掛けて投げつける。


 だがイスカはそれに一瞥もくれずに避け、真後ろにいた男性からワイングラスを奪い取り、それを少女の頭から浴びせた。


「──それはこちらの台詞だよ。私の婚約者を、君の色で染めないでくれたまえ」


 イスカは少女の耳元でそうささやきかけると、にっこりと、そして不敵に微笑んだ。その姿に目を奪われ、動けなくなっていたのは、ノクスだけではないだろう。きっと。

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