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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
2章 波乱の幕開け

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第15話


 その日のノクスの帰宅は遅かった。


「お帰りなさい、婚約者殿」


 入浴後だったイスカは寝間着姿でノクスを出迎えた。髪が乾いていない為、首にはタオルが掛けられている。令嬢としてそれは如何どうなのか、と小言を言われるのは目に見えていたが、ノクスは何も言わなかった。


 ノクスはイスカをちらっと一瞥すると、一つ頷いてから横を通り過ぎる。遅れてやってきたセバスチャンには「ただいま」と言うと、シュルッと解いたタイと鞄を預け、奥へと向かって歩き出した。


 イスカはその隣を歩きながら、労うように肩に触れる。男性にしては細く、押したら倒れてしまいそうな気がした。


「今日は随分と遅かったんだね」


「やる事が多かった。今朝のくだらない騒ぎに時間を取られたというのもある」


 ノクスの端正な横顔には疲労の色が滲んでいる。今朝の騒ぎの後も色々とあったに違いない。


「城は常に人手不足のようだね。行政府の省の長官が二つ空席だとか」


「ああ。埋めようにも、そう簡単に埋められるものではない」


 行政府を取りまとめるのが宰相のエヴァンで、その補佐がノクスだ。行政府には六つの省があり、外務、財務、工務、刑務、祭務、内務と六つの部署に分かれている。そのうちの二つ──祭務省と内務省には長官がいない為、ノクスとエヴァンが舵をとっている。


 祭務省は祭事に関する事務を司り、内務省は外交・財政・司法といった専門的な知識を必要としない事務を司る。この国の行政組織の内部は、先の皇帝が身勝手な理由で政官を削減したせいで人手不足に陥り、さらに二つの省の長官が空席である為猫の手も借りたい状況だという。


「私が男だったら、政官になれたのにな」


 イスカの呟きに、ノクスは驚いたように目を瞠った。


「貴女は政治に興味があるのか」


「私を誰だと思っているんだい?」


「イスカーチェリ・ハインブルグ」


「ははっ、それはまあそうなんだけど。これでも私は公爵家の出身で、ヴィルジールとエヴァンの友人を十年もやっているからね」


 イスカはふふっと笑いながら、食堂の扉を開けた。ノクスに先に入るよう促し、彼の後に続いて中に入る。


 食堂ではセバスチャンが温め直した料理を運んできたところだったようで、会話を弾ませながら入ってきたイスカとノクスを見るなり嬉しそうに笑んだ。


「……なるほど。確かに、あの二人と交友関係を持つなら、馬鹿では無理だな」


 ノクスは椅子に座り、水を一気に飲み干した。よほど疲れていたのか、肺の空気を全て吐ききるように息を吐いている。


「私は公爵家の後継者として教育を受けてきたから、あの二人と世論を交わすことなんて造作もないことさ」


 イスカはノクスの向かい側に座り、頬杖をつきながらノクスの顔を眺めた。


 ノクスは所作が綺麗だ。グラスの持ち方も、フォークとナイフの動かし方も、公爵令嬢であるイスカと並んでも遜色ないくらいに。


 じっと見つめていたことに気づかれたのか、ノクスがすうっと顔を上げた。


「僕の顔に何か?」


「すまないね、見入ってしまっていた。貴殿の目と鼻と唇と手に」


 イスカの返答に、ノクスは変なものを食べてしまったような顔をした。はあ、と呆れたような声を返すと、フォークとナイフを置いて水が入ったグラスを手に取る。喉に流し込むのかと思いきや、ノクスは何もせずにテーブルの上に戻した。


「ご令嬢。今朝のことだが」


「ガルシア侯爵令嬢とリベラ伯爵令嬢のことかい?」


「ああ。貴女は何故あんなことを言ったんだ?」


 イスカはセバスチャンが持ってきてくれたホットミルクをひと口飲んでから、ほうっと息を吐いた。


「ああでも言わないと、あの二人はカチカチに凍っていたと思うよ」


「凍るとは?」


「ヴィルジールに決まっているじゃないか」


 ノクスはイスカが何を言っているのか分からないようだ。切れ長の瞳は軽く瞠られている。


「ヴィルジールは桁違いの魔力を持っていてね。怒りや悲しみの感情が強くなると、本人の意志に関係なく辺りを凍てつかせてしまうんだよ」


 イスカはカップの中の白い液体を見つめながら、形のいい唇を横に引いた。


 人は皆魔力を持って生まれてくる。魔力とは魔法や魔術を使うために必要な力であるが、血筋によって受け継がれる才能を持った者、或いは才能を開花させた者にしか扱えない。


 魔法も魔術も目に見えて起こる現象は酷似しているが、魔術は魔法の応用であると専門家は語っている。


 イスカの生家であるハインブルグ公爵家は政官も魔術師も輩出している家系だが、父は後者の才能があり生前は魔術省長官であった。だからイスカも魔術を扱える。


「つまり、あの時貴女が出てこなければ、あの場が凍りついていたと?」


「もれなく全員の足が凍っていたと思うよ」


 ノクスは訝しげな顔をしながらも、イスカが言っていることは嘘ではないと思ったのか、再びグラスを手に取っていた。


「……だからと言って、あの発言は。嘘を吐いたからにはほんとうのことにしないと、陛下の信用にも関わるだろう」


「だったらこれからパートナーを探せばいいだけのことさ。最悪、エヴァンに女装でもさせればいい」


 イスカは頭の中でエヴァンにカツラを被せ化粧を施した姿を思い描いてみた。ヴィルジールの隣に並び立つには美貌が足りないが、なかなかいけるのではないだろうか。


 イスカがくすくすと笑っていると、ノクスが音を立てて立ち上がった。突然のことに、イスカだけでなくセバスチャンも目を丸くさせている。


「貴女ではいけないのか?」


「それは私に、ヴィルジールのパートナーを務めろと言っているのかい?」


「貴女は公爵家の令嬢だ。陛下の幼馴染でもある貴女なら、誰も何も言えないだろう」


 それはそうだ、と思う。イスカ以上の適任がいないことは、イスカ自身もヴィルジールもエヴァンもアスランでさえも分かっている。けれど何も言わないのは、彼らのイスカへの優しさなのだ。


「ご存知の通り、私には婚約者がいる。私のパートナーを務められるのはこの世でただ一人、貴殿だけだ」


「しかし、そうなると陛下が──」


「仮に私がパートナーとして夜会に出席したとして、貴殿の隣には誰が立つんだ? 誰と踊るんだ?」


 そう言って、ふふ、と声をもらして笑うイスカを見て、ノクスは言葉に詰まったようだった。不自然に目を逸らして、椅子に座り直している。


「私がヴィルジールの隣に立ってしまったら、いつか現れるであろう彼の大切な人にやきもちを妬かせてしまうことになるよ。私は彼の未来の想い人と友人になって、互いの想い人がどんなに素敵な人か語り合いたいんだよ」


 その頃には、イスカの隣にノクスはいないかもしれない。イスカとノクスの関係は、願い事が三つ叶ったら終わるものなのだから。


 けれど、もしも。たったひとりの弟と、十年間友人として傍にいた人たち以外の人間に心を閉ざしてしまったヴィルジールが、運命の人と出逢えたその時は──。


 皆で祝福するその場には、ノクスも居てほしいのだ。

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