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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
2章 波乱の幕開け

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第13話


「──やあ、ヴィルジール。ご機嫌は如何かな?」


 イスカがヴィルジールの執務室を訪れたのは、ノクスと婚約してから五日目の午前のことだった。


 これといって特に用事はないが、幼少期からの付き合いである友人とは定期的に会いたくなるものである。


 ヴィルジールはコーヒーを片手に書類を読んでいたようだが、窓の向こうから聞こえたイスカの声で顔を跳ね上げ、すぐに窓を開け放った。


「……全く。落ちたらどうするつもりだ」


「その時はその時さ。そもそも、君の執務室の窓が内側からしか開けられないのが問題だと思うのだがね」


「ここを誰の執務室だと思っている」


「皇帝の執務室だね」


 ヴィルジールの手を借りて室内に入ったイスカは、分かりやすい顔をしているヴィルジールを見て笑った。


 ヴィルジールは「何を言っているんだ貴様は」と今にも言い出しそうな顔である。だがすぐにその視線はイスカから逸らされ、彼は執務机の前へと戻った。重要な案件を前にしていたところを邪魔してしまったのかと思い、イスカは静かに近づく。


 ヴィルジールは誰かからの手紙と報告書らしきものを照らし合わせながら読んでいるようだった。


「それは誰からの手紙だい?」


「ハルメルス辺境伯の息子、ローリエからだ。報告書もこいつが書いたものだ」


 イスカは机の上を覗き込んだ。

 先ず目に入ったのは、いかにも貴族らしい趣向を凝らした便箋だった。押し花が添えられ、香りが焚き染められている。季節の挨拶から始まる文面はどこぞの貴婦人のようであり、字は女性のように繊細でなめらかだ。辺境伯の御子息が書いたものと聞いて驚く。


「へえ、ローリエ殿か。会ったことないな」


 辺境伯とは、その名の通り辺境の地を治める伯爵のことである。首都に別邸を構え皇城に出仕する伯爵とは違い、国境を接する重要地域を防衛している。滅多に社交界に顔を出さない為、国を挙げての公式行事くらいでしか顔を合わせることはない。


「ローリエは……そうだな、一度会ったら忘れられない奴だ」


「国境を治める一族の御子息となると、簡単にはこちらへ来られなさそうだけれど。式典には来れるのかい?」


「当主の代理で来るそうだ」


 当主の代理、それはつまり当主は来られないということ。ヴィルジールを支持する皇帝派であるハルメルス家の当主が、即位を祝う式典に参列できないとは。代理人が立てられているとはいえ、何かあったのだろうか。


 訝しげな顔をしたイスカに、ヴィルジールはローリエが書いた報告書を見せてきた。目を皿のようにして眺めると、そこには半年前から直近までの気候と、増加傾向にある数値が記されている。


「これは──魔獣か?」


「ああ。ハルメルス領では半年前から人里に下る魔獣の数が増え、討伐数は昨年の三倍だそうだ」


 魔獣とは、人を襲い人を喰らう獣のことだ。その多くは人里から離れた森林や沼地、険しい山々などに生息している。殆どの種が夜行性の為、夜間に人気のない場所にでも行かない限り遭遇することはないが、冬になると餌を求めて人里に下りてくることがある。


「じきに夏が来るというのに……増え続けているのか」


 イスカの呟きに、ヴィルジールは硬い声で返す。


「奴らの食い物がなくなった、という原因が考えられるが、それなら昼夜問わず現れるはずだ」


 このローリエという青年からの報告書によると、春が来ても魔獣は減らないどころか、夏を目前にした現在でも日増しに増えていき、夜になると人里を襲いに現れるそうだ。


「彼らの住処で何かあったのだろうか」


「その調査をする為に、魔術師団から腕の立つ者を数名貸してくれないかと打診があった」


「なるほどね。腕の立つ者か……」


 イスカは革のソファに身を預け、宙を見上げながら魔術師団の人間の顔を思い浮かべる。真っ先に浮かんだのは元婚約者であるセドリック・オールヴェニスだったが、彼は自分の手を汚すことを嫌う。やんわりと笑顔で断り、身代わりを推挙してきそうだ。


「セドリック・オールヴェニスには既に断られている」


「その名を出さないでくれたまえよ」


 イスカはくすりと笑いながら答える。寡黙なヴィルジールの口から、その名が出てくる日が来るとは。


 セドリックは皇帝派と反皇帝派のどちらにも属さない、中立派を代表するオールヴェニス公爵家の人間だ。だがセドリック個人はヴィルジールのことを嫌っているのか、以前イスカがセドリックの前でヴィルジールの名を出した時、それはそれは嫌そうな顔をされてしまった記憶がある。


「お前の記憶にいる魔術師なんて、あの次男くらいしかいないだろう」


「むむっ、それは聞き捨てならないね。こう見えて、何人かの顔と名前が浮かんでいるよ」


「なら今すぐここに連れてこい」


「私は君の部下ではないのだが?」


 無表情で難題を吹っかけてくるヴィルジールに耐えきれず、イスカはけらけらと笑い出した。そこへ、ドアを叩く音が鳴り、蹴破る勢いで開かれる。


 現れたのは宰相であるエヴァンと、その部下でありイスカの婚約者でもあるノクスだった。


「陛下、大変です!」


「なんだ」


 何かとんでもないことが起きてしまったのか、エヴァンはこの世の終わりのような顔をしている。その横にいるノクスを見遣ると、彼は疲れ切った顔をしていた。


「お疲れ様だね、婚約者殿。何かあったのかい?」


 ノクスはため息を吐くと、ヴィルジールの足元で体を丸めながら泣きついているエヴァンを顎で指す。


「見ての通りだ」


「ううん、全く分からないね」


 イスカは小さくなっているエヴァンに「何があったんだい」と声をかける。するとエヴァンが水を得た魚の如き勢いで顔を上げた。


「ご令嬢たちがっ……」


「ご令嬢たちがどうしたんだ?」


「式典の日の陛下のパートナーの座を巡って、ホールで喧嘩をしているのです!!」


 イスカはぱちくりと瞬きをした。

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