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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
2章 波乱の幕開け

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第12話


 どうしてこの手は、彼女の手を掴んだのだろうか。


 何度自分の心に問いかけても、答えはひとつも返ってこなかった。今ここにセバスチャンが居たならば、目の前で倒れそうな人がいたのなら、手を伸ばすのは当たり前のことだと言いそうだが、ノクスにはそういった親切心はない。


 ならどういうことなのかと、イスカを眺めながら考える。折れそうなくらい細い身体に添えた手に、吃驚するくらい冷たかった指先に、今朝は白かったけれど今は赤みを帯びている頬に、そして空色の瞳に。


 光で染まったような髪が風に揺られ、ノクスの指先を掠めた時。口を衝いて出たのは、己の行動と矛盾している一言だった。


「──早く離れてくれないか」


「────ん、んん?」


 案の定、イスカは固まっている。抱き止めているくせに何を言うんだとばかりの顔で。


「受け止めておいて、何を言うんだい」


 それはそうだ、とノクスは思った。イスカから顔を背け、手も離し、ゆっくりと深呼吸をする。三回目をし終えた時、頭の中はすっきりとしていた。 


「変な噂を立てられたら面倒だろう」


「例えばどんな?」


「……皇命で婚約者となった女が目の前で倒れそうになったのに無視をして、その結果女は頭を打ち、見るに耐えないコブを作ってしまった、とか」


 最後の方はぼそぼそとした声で言ったので、彼女に伝わっていたかは分からない。だがイスカの耳にはばっちり聞き取れていたらしく、彼女はお腹を抱えて笑い出した。


「ぷっ……あはははっ!」


 イスカは目尻に薄らと涙を浮かべながら笑っている。ノクスの例えはそんなに面白かったのだろうか。


「……何が面白いんだ」


 イスカは指先で涙を散らし、首を左右に振る。面白くて笑ったわけではないのだと訴えたいようだが、その姿に説得力はない。


 ノクスが眉を寄せ、戸惑いを顔全体に広げた時。


 イスカは改まったような変な咳払いをしてから、頼りなく細い指先でスカートを摘み、綺麗なお辞儀を披露した。


「助けてくれてありがとう。婚約者殿」


「いや、その……」


 唇がうまく動かない。お礼を言われるようなことをしたつもりはないと言いたいのに、晴れやかな笑顔を飾っているイスカを見たら、声の出し方が分からなくなってしまった。


 令嬢というものを、ノクスはよく知らない。だけど目の前にいるイスカという少女が、変わり者であるということは分かる。


 この世の中で男と肩を並べて歩き、恥じらうことなく声をあげて笑う令嬢など、国中のどこを探しても彼女以外いないだろう。


 それからどうしたらいいのか分からず黙っていると、イスカが地面に落ちた日傘を拾い上げ、ノクスに笑いかけた。


「帰ろうか、婚約者殿」


 ノクスは黙って頷き、イスカから日傘を受け取った。何か特別な素材で作られているのか、傘の下は思った以上に涼しく、陽の光も遮断している。


 これは中々に便利だ。女性だけが使うものだと認知していたが、男性でも使えるように──男性でも使えるものを作らせたい。


 日傘を持ったノクスの隣に、イスカが入り込む。何か楽しいことがあったのか、彼女の足取りは軽く、羽が生えたらどこかへ飛んでいきそうだった。


「──もう少し行った先に、美味い店がある。公爵家のご令嬢である貴女の口には合わないかもしれないが」


 何か食べて帰らないか、という遠回しな提案に、イスカは瞳を輝かせた。


「君の好きなものを教えてくれるのかい?」


「別に好きというわけでは」


「ならば嫌いなのかい?」


「嫌いではないなら好き、という解釈はやめてくれ」


 イスカはんん、と唸る。


「じゃあ、普通」


 黙ったノクスを見て、イスカは人差し指をピンと立ててみせた。


「ならばこれでどうだい? 美味いか、不味いか」


「君の料理よりも遥かに美味い」


 即答したノクスに、イスカは苦笑で返す。


 私と比較しないでくれよ、と笑った彼女の頬は日に当てられてしまったのか、赤く染まっていた。



「──ほほー、仕立て屋デートですか」


「別にデートというわけでは」


 翌日、城に出仕するや否や、ノクスは上司である宰相のエヴァンに捕まっていた。どこからか情報を仕入れたのか、或いは身近に目撃者でもいたのか、なぜかノクスがイスカと出掛けていたことを知っていたのだ。


 今日は皇帝の執務室ではなくノクスの仕事部屋に居座る気なのか、エヴァンは書類の山と椅子を一つ運び込んでくると、そこで仕事をし始めた。


 イスカ並みにお喋りなエヴァンの口は話題が尽きることがないらしく、ノクスを余計に疲れさせたが、これほど喋れなければあの皇帝の側に十年も居られないのだろうと思った。


「──ところでノクス。式典のことですが」


「どうかなさいましたか」


 もう間もなく、この城では現皇帝の即位一年を祝う式典が開催される。戦後から一年しか経っていないのにお祝いごとをするのは、と皇帝は開催を渋っていたが、名だたる貴族たちが開催を懇願したのだ。お祭り騒ぎで首都を活気づかせることで、経済は回り、民のためになるからと。


「東の国境を治めるハルメルス辺境伯が、参加できないと返書を寄越してきたのです。ここのところ、東では問題事が絶えないらしく」


 エヴァンはノクスに一通の手紙を見せてきた。差出人はその辺境伯のようで、ざっと目を通してみると、忙しいから無理だという旨が記されている。


「当主の御子息は代理で来られないのですか?」


 ハルメルス辺境伯には息子が何人か居たはずだ。


 エヴァンは渇いた笑みを零すと、懐からもう一通の手紙を取り出し、ノクスに差し出した。

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