第11話
願いごとが三つ叶ったら、イスカはノクスの前からいなくなる。これはノクスとの婚約を強引に決めたイスカが一方的に取り付けた誓約だ。
一つ目の願いは、ノクスにドレスを見立ててもらうこと。昨晩のノクスは全く乗り気ではなかったが、一刻も早くこの婚約を終わらせたい為か、早速休日を使って仕立て屋に連れてきてくれた。
意外なことに、ノクスは適当なことをしなかった。昨日も今日も何がどう違っているのか分からない黒色の服を着ているノクスだが、この衣装は似合うかとイスカが提案すると、真面目な反応が返ってきたのだ。
そして次には、イスカのことなんて微塵も興味がなさそうなノクスが、イスカに似合う布を選んでくれた。両の手では数えきれない色の布が並んでいる棚から、ただ一つ、夜色の布を選んでくれたのだ。
(──てっきり、既製品の中から手に取ったもので、適当に頷かれると思っていたのだが)
イスカは鏡に映る自分の姿を眺める。
同じ年頃の子と比べて背が高く手足も長いイスカは、ふわふわとしたお姫様のようなデザインが似合わない。それを自分でもわかっていて、敢えてノクスの前で広げて見せたのだが──ノクスは似合わないと首を横に振ってくれた。
それはイスカを見ていなければできないことだろう。イスカ自身を見てくれたから、できたこと。
イスカはシャツのボタンを留めながら、緩々と唇を綻ばせていった。
採寸室を出ると、ノクスはアンティークな革製のソファの上に行儀良く座っていた。イスカが戻ってきたことに気づくと、傍に置いていた日傘を手に取り立ち上がる。
「待たせたね」
ノクスは小さく頷くと、ジャケットの内側から懐中時計を取り出した。年季が入っているのか一部錆びているが、大切そうに使っている姿を見ると、彼の宝物なのかもしれない。
「もうこんな時間か」
時計の針は昼過ぎを指している。どこかでお茶でもと思ったが、ノクスが嫌がるのは目に見えている。
あ、とイスカは声を上げた。頭からつま先まで黒色ばかりのノクスを見ていて、ふと思い立ったのだ。
「君は夜会のために礼服を仕立てないのか? 私が見立ててあげるよ」
そう尋ねると、ノクスは腕を組んで俯いた。
「ほんの数分しか参加しない夜会のために、金を使う必要がどこにある」
イスカは目を瞬いた。
たった今注文を終えたばかりのイスカのドレスは、ひと月後に開かれる夜会のためのものだ。その日は正午から皇帝の即位一年を祝う式典があり、式の後には城下町でお祭りが、夕刻からは貴族階級の人間が集まる夜会が開かれる。
ノクスは平民だが、宰相であるエヴァンの片腕である政官だ。国を動かす立場にある彼は、嫌でも参加しなければならないのだろう。
「そうか、残念だな。私が贈ると言っても、君は受け取ってくれなさそうだし」
「高価な贈り物をする財があるなら、今後設立する施設へ寄付してもらった方が有り難い」
「何を設立するんだい? 詳しく聞かせてくれたまえよ」
イスカはノクスから日傘を受け取り、空いている方の手で彼の服の袖を握った。いつか彼の腕に手を添えられる日が来ることを夢見て、今は黒い布の端を掴む。
ノクスは伏し目がちに「とりあえず店を出よう」と言い、ゆっくりと歩き出した。邸を出た時よりも歩幅は小さくなっていた。
店を出ると、太陽の光が二人の顔を照りつけた。イスカは急いで日傘を広げ、陽の光から逃げるように傘の下へと潜る。
その時にノクスの服を掴んでいた手は離れ、彼とは一歩分の距離が空いてしまった。
「──先ほどの話だが」
イスカの斜め前を歩くノクスが、眩しそうに目を細めながら口を開く。イスカは小走りで隣に並び、傘を傾けて彼の横顔を見上げた。
「設立する施設というのは、子供のための施設だ。先の皇帝が色々とやらかしてくれたせいで、この国には親がいない子供が多い」
「それは孤児院のことかい? 首都にもいくつかあったと記憶しているが」
「いいや、孤児院とは少し違う」
どういうことかとイスカは首を傾げる。すると、ノクスと視線が交わった。真っ直ぐで綺麗な、深い青色の瞳だ。
「今ある孤児院は、微々たる国家予算と一部の貴族からの寄付で成り立っている、孤児のための施設だ。僕が設立したいのは、これとは少し異なる」
「孤児院と異なるところは?」
「親がいない子供に衣食住を与え、大人になったら出て行かせる場所ではない。住む場所も食べるものも生きる知恵も持たない子供に、国がそれらを与えるのは当たり前のことだと、僕は考えている」
ふとノクスは足を止める。その目は元気に走り回る子供たちへ向けられていた。
「僕は子供のための教育の場を設けたい。お金のある貴族だけが教師を雇い子供に学ばせるのではなく、この国の全ての子供が将来を選択できるようにしたい。──十年後、読み書きができない子供がひとりもいないように」
夢を語る声から、迷いはひとつも感じられない。
次に目が合った時、ノクスは長い間捜していたものが見つかったような表情をしていた。
イスカは胸元を押さえながら、静かな声音で問いかける。
「だから君は、政官になったのかい?」
「それも動機のひとつだが──」
夜に近い青色の瞳が、イスカの横へと逸らされたときだった。
道の先から数人の男がこちらへ向かって走ってきていた。先頭の男の腕には大きな袋が、その後ろを走る男の手には短いナイフが握られている。
「其処を退けッ!!」
「強盗よ! 誰か騎士団を呼んで──」
通りの向こうで悲鳴が上がった。男の集団から逃れるように、人が次々と流れてくる。
流れに呑まれないよう、イスカはノクスの手を取って走り出そうとしたが、イスカの指先はノクスの黒服を掠めただけだった。
「邪魔だッ!!」
「っ!」
どさ、と誰かの肩がイスカにぶつかる。イスカは咄嗟に傘を前に突き出したが、間に合わなかった。身体は大きくよろめき、整備途中のごつごつとした灰色の道が視界いっぱいに映る。
次なる衝撃を前に、ぎょっと目を見開いた時。誰かに手を握られたかと思えば、力いっぱい引き上げられ、ぐるりと景色が反転した。
知らない匂いが、びっくりするくらい近くから香る。目の前にはすべらかな黒色の衣服があった。そろそろと顔を上げてみると、鼻と鼻が触れ合いそうな距離にノクスの顔がある。
「──婚約者殿?」
ノクスは変な顔をしていた。呆けているのか、驚いているのか、焦っているのか──どれにも当てはまらない。
倒れそうになったイスカの手を掴み、力強く引き上げ、そして受け止めてくれたノクスは、無言でイスカを見下ろしている。次第にその瞳は見開かれていき、イスカがもう一度声を掛けようとした時にはもう、満月の如く丸くなっていた。
イスカは唇を開けた。だがイスカの声が喉元を越えるよりも先に、ノクスの柔らかい唇が音を奏でた。
「──早く離れてくれないか」
「────ん、んん?」
イスカは口を開けたまま固まった。




