第3話 偽りの血(星の目覚め : リュシア編)
カレンが古代文明の装置を起動させた雨の夜──
カレンの事を『女神』と呼ぶ村人の歓声に背を向け、リュシアはただ山の奥へと歩き続けた。雨は髪を貼りつかせ、裾は泥がまとわり付き、足取りは重かったが、振り返る理由はどこにもなかった。
やがて岩肌がむき出しになった急な斜面に、洞窟を見つける。入口には古い獣の爪痕が残り、山奥の冷気が肺に刺さる。リュシアは肩から荷物を下ろし、火打ち石で火を起こした。湿った枝に息を吹きかけて炎を大きくした。火は彼女の頬の冷えをとき、洞窟の壁に少女の影を描いた。
山奥での生活は単調で、寂しさに満ちていた。
朝は渓流で水を汲み、山いちごや木の実を拾い、倒木の皮を剥いで薪を作る。
昼は川に糸をたらし、魚たちとの会話を重ねた。
夕暮れは自然の恵みに感謝しながら、ナイフを石で研いだ。
夜は、焚き火にあたりながら白湯で喉を潤した。
風は洞窟の入り口で歌い、火の粉達は彼女の前で舞を披露した。
翡翠色の髪は日に焼けて褪せ、伸び放題のまま肩と背を覆う。川面に映る顔は、村にいた頃の透明な明るさを失い、痩せた輪郭だけがくっきりしていた。
「……私なんて、誰も必要としていない」
独り言が洞窟に落ち、濡れた石に染みていった。
リヴェリアのひ孫として祈りの家に生まれたのに、人々の祈りに応えることはできなかった。
村を救ったのは、女神と崇められるカレン。
自分はただ逃げた──それが胸の奥で固まってゆく唯一の答えだった。
「おばあちゃん……どうして “カレンを助けてあげなさい” なんて言ったの?」
膝を抱えて身を小さくし、焚き火の赤い輪郭に問いかける。火の粉は答えずに、楽しそうに舞うばかりだった。
* * *
数日後の夜だった――
どこかで、高周波の音が聞こえた。
しばらくすると、耳の奥で高周波が鳴り響く。すぐに消えたが、その後しばらく自分の声が遠くに響くように聞こえた。
数分後、今度は “人の気配” を感じた。
リュシアは、ハッと振り向く。洞窟の入り口に月明りをバックに黒装束の人影が立っていた。
「誰!?」
その声は震えていた。
顔は黒い仮面に覆われている。洞窟に吹き込む風よりも、静かな圧のある佇まいだった。
「……レオンさん……?」
思わず漏れた名は、火に弾けた薪の音にかき消えた。
黒仮面は答えない。
一歩、また一歩と、焚き火の輪に踏み入る。
肩幅、立ち姿、歩き方、足音の重み、輪郭は確かにレオンを思わせた。
リュシアの胸が、切なさと安堵と混乱で、ひとつ強く跳ねる。
「どうしてここに……? わたしを探しに来てくれたの?……」
問いかけは宙にほどけ、黒仮面の男は低く、冷ややかな声を落とした。
「剣を持て」
「え……?」
「お前が民を救うのだ」
短い言葉は刃のように鋭く、未来の一点をまっすぐ指していた。
「わ、わたしが……? 剣は無いわ?」
「お前しかいない。その木を握ってみろ」
リュシアは岩壁に立てかけてあった、ナイフで削りだした木刀を握る。掌からは汗がにじみ、指が震えて木肌がきしんだ。
仮面の奥から響く声は、感情を抑えたように平坦なトーンだったが、不思議と抗いがたい重みを含んでいた。胸の奥で燻っていた灰のような火が、微かに色を取り戻した。
「……私なんかが剣を?……」
ためらいは強い言葉の端で崩れた。
「ためらうな。構えてみろ」
黒仮面は、木刀の角度、足の開き、膝の折りを、無駄なく説明して正していく。
「重心は踵ではない。土の上に立つのではない、土に “ 刺さる” ように立て。視線を落とすな。打つ前に呼吸を落ち着けろ。脈を聞け。自分の、そして相手の」
火の赤が仮面の黒に揺れて、目の位置だけが馴染まず闇に溶けている。
その夜から、黒仮面とリュシアの修行が始まった。
* * *
『毎日の修行だ』と、黒仮面は朝から夕方までの『行い』を伝えていた。
朝は霧の森の中を駆け、倒木を飛び越え、崖の獣道で足腰を鍛えた。
昼は渓流で片足立ちのまま釣りをして、体幹と集中力を研いだ。生木を削り、素手で枝を折って握力をつける。
夕暮れ、洞窟の前で素振りを千回。腕は鉛のように重く、手の皮は剥けて血がにじみ、木剣の柄に赤い輪がついていった。
毎日、夕方にならないと彼は現れなかったが、遠くから見守られていると感じていた。
今日も、夕方の薄暗くなった頃。黒仮面は現れた。
「もう一度、素振りをしてみろ」
黒仮面の声は冷たかった。失敗しても責めず、成功しても褒めない。ひたすらに『 型 』を通し、『 間 』 を叩き込まれた。
リュシアは何度も泥に膝をつき、そのたびに歯を食いしばって立った。
夜更け、焚き火の影が長く揺れる頃、ふと奇妙なことに気づく。
男の輪郭が、熱のゆらぎ以上に微かに “波打つ” のだ。
「……幻?」
目をこすり、瞬きを置いてもう一度見ると、黒仮面は変わらずそこにいた。
気のせい。疲れのせい。そう自分に言い聞かせ、木剣を握り直す。
数日が過ぎ、数週間が過ぎ、筋は少しずつ通い始めた。
姿勢は地に刺さり、呼吸は波間のように静まり、目は光と影の速さを追えるようになった。
けれども、心の底には渦のような不安が沈んだままだ。
──本当に、この人はレオンなの?
──それとも、違う人?
答えは与えられない。
ただ一つ、変わらず落ちてくる言葉だけが胸に刺さった。
声は仮面でこもっているが、やはりレオンの声に似ている……
「忘れるな。お前が民を導くのだ」
風が洞窟に吹き込み、火の粉達がひときわ高く舞い踊った。リュシアは膝に置いた木剣を見つめ、息を深く吐く。
「……分かった。強くなる。わたしが、やってみせるわ……」
* * *
寒く長い冬を越えた数ヶ月後の夜、稽古の汗が額から顎へ細い道を描く頃、黒仮面はリュシアに告げた。
「次の修行だ」
「……師匠、何をすればいいの?」
「教会の地下に眠る、古代文明の剣を持ってこい」
リュシアは思わず顔をこわばらせた。
「それは無理よ……あそこは認証がなければ開かないわ。星の加護を受けた者── カレンさんにしか……」
口にした名は、火の粉の弾ける音にまぎれ、胸に小さな痛みを残した。
黒仮面の声が低く響く。
「カレンは偽りの血。 カレンは偽りの祈りだ。 真の女神はお前なのだ。 エルディアの神の血を、お前が継承するのだ」
言葉は冷たいのに、胸の奥が熱を帯びた。
(あの扉が、私で開く?)
信じたい気持ちと、信じたくない恐れが拮抗し、リュシアは唇を噛む。
「……分かったわ。 師匠」
その返事は、火のはぜる音と重なり、舞う火の粉達は逃げるように消えていった。
* * *
夜──
月は薄雲の向こうで擦りガラスのように滲み、村は早い眠りに落ちていた。
リュシアは黒のフードを被り、黒のフェイスマスクで顔を隠した。
石垣の陰を縫うように教会へ向かう。
空気は乾き、遠くで犬が一度だけ吠えて沈んだ。
教会の木扉は冷えた鉄の匂いを纏い、押すと、古い蝶番が短く鳴いた。
ノクティウス襲撃の時に、リヴェリアおばあちゃんやカレンさん達と逃げた、この場所。その時に、教会地下へと続く秘密の隠し扉も知っていた。
重たい隠し扉を開く。その下の石段は体温を吸うように冷たく、松脂の灯りが壁の古い聖画の影を揺らした。
重い石壁の前に立つ。中央に神具「星の聖杯」がエメラルドグリーンの光を反射して揺れていた。
聖杯の側面。複雑な幾何学紋が薄く発光する。
リュシアを待っていたかように……
さらに近づくと鼓動に呼応するように光が脈打つ。
「本当に……わたしで開くの?」
掌をそっと置く。皮膚の荒れが紋の細い溝に触れる。
リュシアは呟くように祈りの言葉を捧げた。
「開けて……LUMIÈRE ELDIA ZOĒ AURORA……」
瞬間、エメラルドグリーンの光がリュシアの体を駆け抜ける気がした。
「きゃっ!」
その悲鳴と同時に、奥の石壁がゆっくりと荘厳な音をたてながら開いた。
冷たい空気が、古代の吐息と共に押し寄せた。
リュシアは息を呑む。
自分の血が……祈りが、ここを開けた。
格納庫は石と鋼の大きな洞で、天井に沿って古い導管とケーブルが走る。壁面の格納棚には、透明な棺のような収容ケースに古代の遺物が整然と眠る。
ノクティウスとの戦いの時に活躍した生き物を模した兵器は、ふたたびの長い眠りについている。
鎧、盾、翼の機械骨格、発光の止まった小型エネルギー核。
そして、壁に数本の剣が飾るように掛けてあった。
鞘は深い夜の色で、鍔には古い文字が扇のように刻まれている。近づくほどに、刃の内側から翡翠色の光が薄く漏れ、台座の周辺に露を結ばせた。
指に触れた瞬間、刃は微かに震え、翡翠の髪が風もないのにそっと揺れた。
──剣が応えている。
リュシアは鞘に入れた剣を両手で抱き上げる。肘に重み、手の中に確かな意志。呼吸が浅くなり、鼓動が刃の脈に重なる。
その時──
「誰だ!」
怒号が階段の上から響き、松明の炎が幾つも飛び込んできた。
先頭の男がリュシアを射抜くように見、目を見開いた。
「サディス隊長!残党ではないようです」
部下の声に応じ、筋骨たくましい男── サディスが一歩前に出る。
「……誰だ!何者だ!……女……か?」
その声には、怒りより先に、理解不能の驚愕が混じっていた。
リュシアは返す言葉を見つけられない。
剣を胸に抱えたまま、一歩、後ずさる。靴底が石の粉を鳴らす。
「捕えろ!」命が飛んだ。
四方から迫る影。松明の火、金属の擦れる音、足音の重さ。
リュシアは咄嗟に剣を抜いた。光が刃から溢れ、格納庫の暗を裂く。
「大人しくしろ!」 サディスも剣を抜く。
サディスが斜めから踏み込み、真っ直ぐに一太刀。
硬い金属の衝突音。火花の白が二人の頬を照らす。
「なぜだ……! なぜお前が、その剣を起動させている!?」
リュシアは答えない。答えられない。
サディスの眼光は鋭く、リュシアの動きから一瞬も離れない。
サディスの二撃目は重かった。腕が痺れ、掌の皮が裂け温い血が滲む。
彼は一瞬、剣先を下げてリュシアと目があった。
「……お前は、誰だ。剣をそこに置け!」
言葉は最後まで結ばれない。リュシアが踏み込んだ。
刃が交差し、金属の鳴りが天井に駆け上がる。
リュシアの剣筋はまだ粗く、力任せ──だが刃は応える。エメラルドグリーンの光が激しく瞬き、サディスの剣をわずかに押し返す。
部下たちが半円に散り、剣先が一斉にリュシアに向いた。
(……囲まれた……この人数が相手では……)
背を探るリュシアの踵に、何かが触れた。
横目で素早くと確認すると、台座に馬の形をした機械が鎮座している。鞍のような部分には、何かの文字が……
古代文明の浮遊機── 馬型のアンドロイド。
(……お願い!助けて!)
鞍に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、薄い膜のような光が手の甲から鞍へ流れ込み、幾何学の紋が走る。
──〈主認証 完了〉
無声音の声が、脳の奥で静かに鳴った。
リュシアは鞍に足をかけ、剣を抱えたまま身をひるがし、跨った。
馬型の眼がエメラルドグリーンに灯り、胴の内側で低いハミングが聞こえた。床の砂塵が浮く…
「なに……馬まで!」
サディスの驚愕が漏れる。
馬型がふわりと浮く。足元の石が遠ざかる。馬型は、前足を高く掲げて嘶いなないた。烈風が格納庫を駆け抜け、巻き上げられた埃が旋回した。松明がいくつか吹き消された。
次の瞬間、馬型浮遊機は光の尾を引いて隔壁を駆け抜け、夜気の冷たさの中へ飛び出した。
「待て——!」
サディスの声が遠く後ろに聞こえた。
* * *
夜空は雲の切れ間に星を散らし、月は薄いベールの内から白い光を落とした。
馬型機は谷筋の風を掴み、森を越え、岩稜の上を滑るように進む。
リュシアは剣を胸に抱きしめた。怖い……けれど、風を裂く感覚が心の奥まで震わせる。手綱も脚の合図も要らない。ただ、思念のわずかな傾きが機体の進路を変える。
──まるで、ずっと昔から知っていた乗り物のように。
谷を抜け、崖の陰を回り、洞窟の前。
ハミングが低くなり、馬型機は静かに地表へ降りた。
鞍から飛び降りると、膝が少し笑った。
腕は震えている。柄の血は乾きかけ、指紋の線を暗く染めていた。
洞窟の入り口、焚き火の影の外に黒仮面が立っていた。
「リュシア。 よくやった。 さすが真のエルディアの女神だ。 その力で古代文明も目覚めたのだ。 自分で証明できたろう……」
声は低く平らで、そのまま石に吸い込まれるように響いた。
「それが真の継承だ」
リュシアは剣と馬型浮遊機を見やり、唇を震わせる。
「……これが、本当に……正しいことなの?」
問いは、風にさらわれたように小さく、しかし火より熱かった。
仮面の奥の沈黙は、夜気よりも冷たい。焚き火が一度大きく爆ぜ、火の粉が星のように舞って暗へ溶けた。
やがて、その沈黙を破るように、闇に沈む仮面の奥から、さらに冷酷な囁きが続いた。
「リュシア。 次の修行だ……偽の女神はもう必要ない。
真の女神リュシアよ──
偽の女神、カレンを殺すのだ……」