第2話 祈りの家 (星の目覚め : リュカレ編)
エルディア村での崖崩れ事故から二ヶ月後──
夏を前に、村には乾いた風が吹きはじめていた。気温は例年より異常に高い。
畑の土はひび割れ、井戸の水も浅くなる。雨雲は遠い空の彼方にも見えず、人々の心にも潤いが無くなっていった。
そんなある日、リヴェリアの容態が急変した。村の医者が診療に訪れ、額を曇らせて言った。
「……今夜が峠でしょう」
その言葉を聞いたリュシアは、小さな震える声で村長ゲノンやバロックに伝えた。すぐに村中に広まり、人々が灯火を手に集まってきた。
家の中には緊張が満ちていた。
リヴェリアの寝室には、ゲノン夫婦とバロック夫婦、そしてレオンとカレンが立ち会い、老女の横たわる姿を見つめていた。
枕元に座るリュシアは、リヴェリアの口に水を含ませようとしたが、衰えた喉はもう動かず、呼吸は浅い。
「おばあちゃん……」
かぼそい声で呼びかけても返事はない。外では祈りの声が響き、蝋燭の炎が壁に揺れていた。
やがて閉じられていた瞼がかすかに開く。
人々は息を呑んだ。
「 …… 」
口元が動き、声が漏れた。だがそのかすかな囁きは、枕元のリュシアにしか届かなかった。
──「カレンを……助けてあげなさい……」
リュシアは目を見開いた。
「え……何を……?」
問いかけるが、返事はない。
リヴェリアは薄い笑みを浮かべ、そのまま静かに息を引き取った。
部屋は沈黙に包まれ、すすり泣きと祈りの声が広がる。
ゲノンは「祈りの家が、またひとつ幕を閉じた」と呟き、人々は深く頭を垂れた。
そして、リヴェリアを心配していた視線は、自然とリュシアに集まった。
「ひ孫なら、きっと力を継いでいるはずだ」
「リヴェリアばあちゃんの後を……」
エルディアでは、困難の時、いつもリヴェリアの言葉や祈りが人々を救ってきた。
その『力』が偶然だったのか、実際の奇跡をおこしていたのか分からない。だが人々は何かあれば、古き時代より「祈りの家」の血にすがらずにはいられなかった。
──そして、当然のように村のその役割はリュシアへと継がれると誰しもが思っていた。
少女はその答えが返せず、視線を受け止めるしかない。
「……わたし、そんな力なんてないのに……」
胸の奥に、影のような重圧が広がっていた。
* * *
葬儀が終わると、暦は夏に向かった。
しかし、雨が降らない日が続く。陽射しは日に日に強くなり、畑は枯れ、川の水は細り、家畜は痩せていった。
夜の集会では、ため息と怒号が交じり合った。
「このままでは飢える」
「祈りでは水は得られん。古代文明の力に頼るしかないのでは」
「だが、それは村のタブーだ」
意見は割れ、村の空気は荒んでいった。
その一方で、人々の目は益々リュシアに注がれるようになった。
「お前ならできるだろう、リヴェリアばあちゃんの血を継いでいるのだから」
「頼む、祈ってくれ。雨を呼んでくれ」
最初は懇願の声だった。
だが次第に、それは圧力へと変わっていった。
「子供たちが飢えて死ぬんだぞ」
「祈りの家に生まれながら、何もせんのか!」
* * *
ある夜、村人たちはリュシアを祭壇に連れて行った。半ば強制的に…。
山のふもとに築かれた古い石の祭壇。苔むした石段には松明が並べられ、炎の光が赤々と夜空を染めていた。
男も女も、老いも若きも、皆が息をひそめ、ひとりの少女に全てを託すように視線を注いでいた。
「祈りの家のひ孫だ……」
「きっと雨を呼んでくれる」
その囁きは祈りの合唱のように重なり、炎のゆらめきと共に空へと昇っていった。
(出来ない……私はやった事がないのよ…)
その思いを伝えようとした時、村人達から怒声のような言葉が届く。
「早く祈れ!」
「俺たちを助けろ!」
リュシアは震える足を前に運び、石の祭壇に立った。
蝋燭の炎が風に揺れ、彼女の顔を照らし出す。
翡翠の髪は夜風に舞い、ターコイズの瞳は涙に濡れて輝いていた。
彼女は両手を胸の前で合わせ、幼き日に曾祖母リヴェリアが唱えていた言葉を思い出した。
「 夜明けを告げる月の光よ…… 星の神々よ…… 遥か遠くより…… 雲を連れてきたまえ…… 干からびた大地に恵みをあたえよ 飢えた人々に希望をあたえ給え……LUMIÈRE ELDIA ZOĒ AURORA(リュミエール・エルディア・ゾーエ・アウローラ) 」
その瞬間、松明の炎は大きく揺れ始め、風は祈りを運ぶかのように祭壇を取り巻いた。
誰もが奇跡が訪れると信じた。人々は地に膝をつき、目を閉じ、涙を流す者さえいた。
それは、すでに成功したかのような、荘厳で神聖な光景だった。
* * *
だが──次の日も、またその次の日も、日照りは激しくなるばかりだった。
雲ひとつない空の下で、土はますます乾き、川の水は細り、作物は萎れていった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、雨は降らなかった。
「どうしてだ……」
「嘘だったのか……」
「祈りも、血も……偽りだったのか」
その声は囁きから怒声へと変わり、信頼は裏切られた憎悪へと姿を変えていった。
リュシアが村を歩けば、刺すような視線が背中に突き刺さった。
「なぜ雨を呼べない」
「なぜ救わない」
「偽物の血だ」
その言葉は、矢となる。矢は幾本も、幾百本も、少女の心に放たれた。
胸の奥には次々と矢が刺さる。傷だらけになっても、自分で抜く事も出来ない。
「……ごめんなさい……」
ただ、その言葉しか口にできなかった。
* * *
干ばつは続き、畑はひび割れ、川は細く、村人たちの心はますます荒んでいった。
やがて会議の場では、古代文明の力を使うべきか否かが議論の中心となっていった。
古代文明の解析がすすむ中『天の気を整える』との説明がある、装置が発見されていたからだ。
「いや、神の領域を人が犯してはならぬ」
「古代文明の利用は罪では無い。我々の祖先が残した財産だ」
その声を会合の隅で聞きながら、リュシアはうつむき、祖母の最後の言葉を繰り返し思い出していた。
──「カレンを助けてあげなさい」
なぜ自分にその言葉を伝えたのか?
その答えは、まだ見つからなかった。
* * *
畑の作物は葉を丸め、黄色く枯れ、麦の穂は実をつける前に干からびていく。川は岩肌を見せ、井戸は日に日に浅くなった。子供たちは痩せ細り、老人は疲れ果て、村人の顔からは笑みが消えた。
「このままでは冬を越せぬ」
「雨を呼ばねば……」
夜の集会では、もはや祈りの言葉よりも切実な議論が飛び交った。
「古代文明の力を使うしかない」
「古代の兵器を操ったように、天をも操れるはずだ」
レオンは立ち上がり、強い声を放った。
「安易に頼るべきではない! 過去の伝説を忘れたのか? 高度な文明を過信し、民族同士で争い、古代のエルディア文明は滅びたんだ!」
カレンも頷き、言葉を添えた。
「わたしも赤ん坊を抱えています。水がなくて困っているのは同じです。でもリヴェリアおばあちゃんは言っていました── “祖先が文明を封印した理由を忘れてはならぬ” と……」
しかし、群衆は譲らなかった。
「滅びた祖先は、使い方を誤っただけだ!」
「戦争の為に使うのではない。平和の為に文明を使えばいいのだ!」
「文明の発展とともに人類は生きてきた!」
「目の前で、子供たちが飢えて死ぬのをただ見ていろ というのか!」
怒号が飛び交い、議論は崩れた。
そしてついに決断が下された。
──教会の地下に眠る古代文明の装置を起動させる。
* * *
教会の隠し扉の更に奥、認証装置『星の聖杯』を開けた、その先に装置は眠っていた。
半球状のドーム。中央には透明な結晶体や鉱石。放射状に伸びる管は外気へと通じ、まるで大気そのものを掴み取ろうとしているかのようだった。
村の集会にて、古代文明の研究者と町から来た気象学者が説明する。
「研究の結果です。やはり古代の気象制御装置が発見されました……。大気中の水分子を凝結させ、雲を生み出し、人工的に雨を降らせる仕組みです」
人々は息を呑む。
「我々も研究をしていた “クラウドシーディング” と同じ原理だ。ただし我々の方法は、ヨウ化銀や塩の微粒子を散布して雲に結露を促すだけ。しかし古代文明は違う。結晶体を核として、量子場を発振させ、大気そのものをナノ単位で振動させる……」
説明は続いた。
「水分子の運動状態を直接変化させることで、自然の何倍もの効率で雨のしずくを形成します。さらに、地表の温度差を読み取り、上昇気流を人工的に生み出す制御システムまで備えている。
つまり――自然を操作するのではなく、自然そのものを増幅する力なのです」
「これが動けば、雲を呼び、雨を降らせることができる」
人々は熱狂の囁きを交わした。
「救いだ……!」
「やはり古代の知恵は我らを導く!」
* * *
そして、その矛先は当然のようにカレンへと向けられた。
つい先日までリュシアに注がれていた視線と願いが、今度は彼女へと移っていた。
「カレン様、どうか」
「あなたなら、雨を呼べるはずだ」
「伝説をもう一度!」
戸惑う彼女の背を、誰かが押した。
カレンは必死に首を振る。
「わたしは……そんな力を……」
だが群衆の切実な眼差しと祈りに似た圧力は、彼女を逃さなかった。
まるでリュシアが祭壇に立たされた時と同じように……
──否、それ以上に強い熱狂の中で、カレンは装置の前に立たされる事となった。
半ば強制のように、震える両手が鉱石に導かれる。
それでも、アクアマリンの宝石のような瞳は真っ直ぐに鉱石の光を受け、神々しい輝きを帯びていた。
その姿は祈りを捧げる女神のようであった。カレンは、古代文明の研究者にて、一部解読された古文書の祈りの言葉を読み上げた。
「夜明けを告げる銀の月よ 星々の瞬きを束ねし者よ 遥か天の海を渡り 雲を連れてきたまえ
乾いた大地に恵みを 飢えた人々に潤いを……LUMIÈRE ELDIA ZOĒ AURORA(リュミエール・エルディア・ゾーエ・アウローラ)」
その瞬間、エメラルドグリーンの光が結晶から放たれ、装置全体が脈動する。低い振動が床を揺らし、管の奥へと吸い込まれていった。
やがて、空に黒い雲が現れた。最初は淡い灰色だったそれが、瞬く間に濃く、重く、漆黒の天井となって村を覆った。雷鳴が響き、風が巻き起こる。
そして――ぽつ、ぽつ、と雫が落ちた。
「雨だ……!」
その声を合図に、空は一気に大粒の雨を注ぎ始めた。
乾ききった大地に雨が叩きつけられ、ひび割れた畑は黒く濡れていく。村人たちは歓声を上げ、互いに抱き合い、涙を流した。子ども達は口を開けて空を仰ぎ、笑い声を響かせた。
リュシアも教会の庭に駆け出ると空を見上げた。
翡翠色の長い髪が潤う。目をつむり天を仰ぐその凛とした横顔のラインの上で雨の雫達が踊った。
リュシアは、教会の入り口で天を仰ぐカレンを振り返りると、静かにひとりほほ笑んだ。
やがて人々が熱狂し、カレンが「女神!」「女神!」と呼ばれるその場に、彼女はそっと背を向けた。
雨に濡れながら、ひとり家路へと歩いていく。
その背を振り返る者は誰もいなかった。
──その日を最後に、リュシアの姿を村で見ることはなかった。
少女は静かに荷をまとめ、山奥へと身を隠したのである。