第10話 狂信の火(罪の性質 : リュシア編)
夜のエルディア王都は静まり返っていた──
街路に灯る篝火はすでに風に吹き消され、石畳の上を白い月光だけが淡く照らしている。
──ひずむような駆動音が空を裂いた。
黒い影が屋根を飛び越え、五階建ての屋敷の窓辺に滑り寄る。
翡翠のたてがみを風に流す、馬型浮遊機〈Equus-287S〉──古代文明の乗騎。
その背に跨る少女の瞳は、夜よりも深い暗緑に輝いていた。
少女は、浮遊機を窓に横付けさせる。
ゆっくりと立ち上がり、窓枠へ手を掛けると、音も無く部屋へと舞い降りた。
「……目覚めよ、軍隊長」
部屋の主は熟睡していた。
軍隊長サディス。武骨な男の寝息が、広い部屋の静けさに溶け込んでいる。
その喉元へ──翠玉の剣がすっと滑り込んだ。
月光を受けた刃が淡く光り、首筋に冷たさを置く。
「……ん?……」
サディスは目を開いた。
目前に、凛と立つ少女の姿。
翡翠色の長髪が月明かりに煌めき、瞳は青緑に妖しく輝いていた。
「お……お前は!」
驚愕に声を荒げるサディス。
少女は口角をゆるめた。
「教会での剣裁きは見事だったのお。エルディア軍隊長サディスよ──
我はエルディアの純血……古代文明を正しく操る唯一の者、リュシアなるぞ…」
「な、何が目的だ!」
「ふふ…まだ、心は目覚めておらんようじゃな。軍隊長!」
囁きは、深夜の冷気よりも冷たく、しかし耳の奥に甘く絡みついた。
「おぬしも感じているだろう? この国はよそ者に奪われてしまった」
サディスは歯を食いしばった。
「カレン女王は……この国に富と平和をもたらした!」
「節穴か!」
リュシアの剣先がさらに押し込まれる。
「黒き船の襲撃も、干ばつも、寒波も、先日の落雷も……すべて“あやつ”が呼んだ災いではないのか?
奴は、この国を乗っ取るためにやって来たのだぞ!」
サディスの喉が鳴った。
「ど……どうしろと」
「ふふ……簡単なことだ」
リュシアは翠玉の剣をゆっくりと引き、彼の胸元に返した。
「軍隊長よ、偽りの女王を追い払え。 真のエルディア王国を築くのは……サディス、おぬしだ」
冷たい風が吹き込み、カーテンが揺れた。
次の瞬間、少女の姿は馬型浮遊機とともに夜空へ消えていた。
サディスは朝まで、その目を閉じる事が出来なかった。
* * *
訓練場に兵士たちの掛け声が響く。
「いち、にっ! いち、にっ!」
その列の端で、若い兵士ガルスが同僚に身を寄せ、小声で囁いた。
「なぁ……聞いてくれるか?」
「なんだよ、真面目に声出せって」
「昨夜さ……寝てたら、枕元に綺麗な少女が立ってたんだ」
「は? 夢だろ」
「分かんねぇ。 でも、心が洗われるような声で、俺の耳元で囁いたんだ。 “はやく気づいて、ガルス。今の女王は偽物よ。この国に災いを運んできたの。黒き船の襲撃も、干ばつも、寒波も、先日の落雷も、全部あの女王のせいなのよ” ……ってな」
「お前、ちょっと疲れてんじゃねぇか」
「……でも、あれは夢じゃなかった。 エルディアの本当の女神の姿に見えたんだ」
同僚は鼻で笑って取り合わなかった。
だがガルスの目は、熱に浮かされたように揺らめいていた。
その会話が、離れた場所にいたサディスの耳にも届いた。
刹那、背筋が凍る。
(……まさか……)
脳裏に蘇る昨夜の光景。
翠玉の剣の冷たい感触。
囁く声――「目覚めよ、軍隊長」。
(あれは夢ではなかった……! だが……今、兵士たちまでも……)
サディスは声を荒げることなく訓練を続けさせた。
だが剣を振るう兵士の影が、すべてあの少女の幻に見えてならなかった。
胸の奥に、決して拭えぬ動揺が広がる。
翠玉の剣の冷たさが、再び喉元に蘇った。
* * *
次の日の夜。
詰所で鎧を外した兵士たちが火鉢を囲んでいた。
ガルスは椀を握りしめ、先日の出来事を頭から振り払えずにいた。
隣に座る同僚が、不意に声をひそめる。
「……おい、ガルス。ちょっといいか……」
「なんだ」
「昨日、俺のところにも来たんだ」
ガルスの手が止まる。
「来た……? もしかして、お前の枕元にも?」
同僚は真剣な顔で頷いた。
「そうだ。美しい少女だった。 声は静かで……だが、心に突き刺さった」
「……何て言われた」
「 “偽物の女王の言いなりになってはいけません。 エルディアの神々が怒っております。 あなたが守るのです。 いまこそ真のエルディア国家を立ち上げる時です” ……そう囁かれた」
火鉢の炎がぱちりと弾け、二人の顔を赤く染めた。
ガルスの目は揺らぎ、同僚もまた沈黙のまま火を見つめた。
その囁きは、火の粉のように兵舎全体へと静かに広がりつつあった。
* * *
数日後──
王都の夜は再び静けさに包まれていた。
五階建ての屋敷の窓からは、月光が白く差し込む。
寝台の上で、サディスは目を閉じていた。だが眠気は訪れない。
あの日以来、眠れぬ日が続いた……
(……あれは夢ではなかった……)
胸の奥に冷たい刃の感触が甦り、汗が頬を伝う。
やがて、窓の外で微かな駆動音がした。
黒い影が、夜空からすべり込むように近づいてくる。
馬型浮遊機の上で翡翠色の髪が風に泳ぎ月光にきらめく。その背に跨る少女の瞳は、月よりも深い緑に妖しく光っていた。
リュシアは静かに窓辺に舞い降り、薄い笑みを浮かべた。
「おい……サディス! 古代の神々の怒りが頂点に達した。 もう時間は無いぞ」
寝台の上で体を起こしたサディスの喉が震える。
「な、何を……」
「さぁ、神々に選ばれし戦士サディスよ。 剣を取るのだ。 偽りの女王カレンに裁きを与えよ」
その声は甘く、しかし耳の奥に焼き付くような熱を帯びていた。
一瞬、サディスの心に迷いがよぎる。
(……だが、女王は……本当に偽物なのか……?)
しかし次の囁きが、その迷いをかき消した。
「そうすれば、エルディア王国と勇敢なる戦士サディスは、永遠に古代の神々が守り保つであろう。
決行は明後日、金曜の夜二の刻じゃ。 仲間を集めるがよい。 わしも其方の味方ぞ……共に、真のエルディア王国を手に入れようではないか」
その瞳に射抜かれ、サディスは声を失った。
「ど、どうすれば宜しいのですか?リュシア様…」
「ふふ、まだ尻込みをしておるのか? 答えを教えてやろう……偽りの女王は、悪魔の手下の魔女じゃ。 捉えて、皆の前で火炙りがふさわしい。 魔女の生贄を捧げるのじゃ。 そうすれば、エルディアの神々の怒りは静まるであろう……」
サディスの顎から汗が滴る……
「……その後は、エルディアの純血、新時代の女王となる、このリュシアに任せておけ。 エルディアは永遠の平和が維持され、英雄サディスの血筋は、エルディアの神々に永遠に守られるのじゃ……」
次の瞬間、リュシアの影は再び馬型浮遊機とともに月光の中へ消えていく。
サディスは震えながら、ひとり剣を握りしめた。
「古代のエルディアの神々よ……怒りを静めたまえ。 エルディアの為、真の女王リュシア様の為、このサディスは魔女の生贄を捧げます……」
その瞳は血走り、炎が宿っていた。
月明かりに浮かぶその影は、もはや冷徹な戦士ではなく、狂信に取り込まれた異様な姿だった。