第9話 黒い雷鳴(罪の性質 : カレン編)
エルディア王国──
その夜、王都は雨上がりの匂いを残して静まっていた。
書架に積まれた書類の山の向こうで、女王カレンは羽根ペンを置いた。
窓の外に目をやり、ぽつりと漏らす。
「……リュシア。あの子、どこへ行ったのかしら……」
壁にかけられた古い地図が、灯りの揺らぎに小さく揺れた。
脇で報告書を束ねていたレオンが顔を上げる。
「村にも、寺院にも、姿はなかったらしい。リヴェリア婆さんと一緒に暮らしていた家にも、誰も立ち寄った様子は無いそうだ……」
カレンは胸もとに手を当てる。指先に触れる星祝のペンダントが、冷たく落ち着いた。
「……優しい子だから……森の奥とかで暮らしているだけならいいけれど…」
「ねぇ、レオン。仕事が落ち着いたら、一緒に探しに行きたいわ」
カレンの言葉に、レオンは静かに頷いた。
「そうだね。必ず……」
* * *
女王の執務は、息も継がせぬ忙しさだった。
干ばつ対策の灌漑計画に印を押し、北境の寒波被害への補償案を修正し、商会との価格協議に臨む。玉座の間、評議の間、執務室──
場所を移すたびに、女王印の朱が一枚、また一枚と積み重なっていく。
そんな折、急報が飛び込んだ。
「隣国グラナディアより、国王陛下ご自身が特別列車で来訪されたし。 新規資源の貿易交渉、並びに古代文明遺産の共同研究についての協議を求めています」
通信兵の声に、廷臣たちがざわめく。
軍隊長のサディスが前に出る。
「護衛は私が統率します。国境手前の鉄橋で一旦合流し、騎兵が先導に当たります」
カレンは短く微笑んだ。
「サディス隊長。 ありがとう。 グラナディアは、資源豊かな心優しい人々の国と聞いています。 両国にとって、必ず実りある会談にしましょう」
* * *
北の関門――峡谷をまたぐ長く大きな鉄橋。
崖のこちら側で、サディス率いる騎兵が待機していた。山風はまだ冷たく、馬の鼻息が白い。
遠いトンネルの闇から、汽笛が尾を引いて響いた。黒漆の国賓列車が姿を見せ、橋へ差しかかろうとする。
そのときだった──
にわかに、エルディア王国の方向から黒い雲が立ちのぼり、みるみる空を呑み込む。さっきまで澄み渡っていた蒼は、夜のような暗さに塗り替えられた。
風が変わった。大地がざわつく。
その時、閃光……
落雷が、峡谷の縁にそびえる老樹を直撃した。爆ぜるような音とともに幹が裂け、燃え上がった巨木が、橋の手前の線路へ倒れ込む。
「まずい……!」
機関車の警笛が悲鳴のように鳴った。鋼の歯が軋み、車輪が火を散らして急制動をかける。
ガクン、と列車が前のめりに止まった。
車両の中では、人々がよろめき、座席に額を打ち付ける。
サディスは馬首を返し、谷を迂回する小道へ飛び込んだ。
「負傷者の救出だ! 国賓を最優先に守れ、急げ!」
橋のたもとへ駆け上がった時、ふたたび空が裂けた。
第二の稲妻が、崖上の別の大木を穿つ。裂けた幹が悲鳴のように軋み、こちら側へと傾いだ。
「退け――っ!」
サディスの号令よりも早く、巨木が斜面を滑り落ちてきた。騎兵たちは散開し、土砂と枝の雨をかいくぐって身をかわす。かろうじて馬群は難を逃れたが、行く手はふさがれた。
橋上では煙が上がり、列車の窓から負傷した従者が救いを求める手を伸ばしている。
サディスは奥歯を噛みしめた。
(くそっ…土砂と大木で…行けぬ……!)
舌の上に、苦い鉄の味がにじんだ。
やがて、雨の幕の向こうで国賓車両の扉が開き、グラナディアの王が護衛に支えられて姿を見せた。額のあたりに白布。急停止の衝撃で打ったのだろう。王は険しく空を見上げ、暗い雲と焦げた大木、塞がれた線路を順に見渡した。
サディス達が大回りして橋が見えたころ、列車は後退を始める。
エルディアの大地へ足を踏み入れることなく、来賓は峠の闇へと引き返していった。
* * *
その日の夕刻──
エルディア城、玉座の間にグラナディアの使節が到着した。濡れたマントの裾から、まだ雨の滴が落ちている。
使節は礼も略し、まっすぐ玉座のカレンを指をさして叫んだ。
「エルディアの女王カレン! 本日、我が王は命を落としかけた。鉄路を塞いだ落雷、大木の炎──偶然と誰が信じる!」
廷臣たちがざわめく。使節は一歩踏み出し、声を張り上げた。
「エルディアでは 、“ 天の気をも操り、古代文明の兵器を自在にあやつる魔女 ” が女王だとの噂を聞いた! この噂は誠か!」
玉座の間の空気が凍る。
レオンが一歩出かけ、拳を握り締めて止まった。サディスは沈痛な顔で目を伏せる。
カレンは立ち上がった。
その声は柔らかく、それでいて揺らがない。
「負傷された方々に、心からお詫び申し上げます……ですが、私たちは誰ひとり、貴国の王を害そうとはしていません。 原因の究明と再発防止に、王国の総力を挙げることをお約束します」
使節の目は冷たいままだった。
「弁明は聞いた。 だが我らは、我が王の安全を第一とする。 よって当面の交渉はすべて停止し、国交は凍結する。 今回の事で、我らグラナディアは、魔女の国エルディアを、敵国として見ざるを得ない!」
言い切ると、使節はマントを翻し、重い扉の向こうへ消えた。
残された玉座の間に、痛いほどの沈黙が落ちた。
カレンは拳を見つめ、そっと開いた。
(どうして……こんな事が……)
王冠の下で、こめかみの鼓動だけが強く打っている。
横目でサディスを見た。彼は僅かに顔を上げ、何か言いかけて、飲み込んだ。
やがて、廷臣たちが散り、広い間にカレンとレオンだけが残った。
レオンはそっと、女王の肩に手を置く。
「……大丈夫だ。まだ終わりじゃない」
カレンはわずかに笑みを作った。
「うん。終わらせない。私は、この国を守る」
石床に響く二人の足音が、長い廊をゆっくりと去っていく。
その背中を、遠い雷鳴の残響が、いつまでも追いかけてきた。
──この日、空を裂いた稲妻は、国と国のあいだだけでなく、エルディアの内にも、細く長い亀裂を刻みつけた。
誰の目にもまだ見えないほど細い亀裂は、やがて、取り返しのつかない断層へと育っていくのだった。