第18話
「エヴァン、今日はお天気も良いですよ。たまには一緒にお出かけしませんか? 先日お話した湖をエヴァンにも見せたいの」
彼女は微笑んでいた。
何の反応も示さない僕に向かって、その日の出来事や、男爵領の先にある美しい湖のことを語っていた。
記憶にない光景に困惑する。
記憶の中の彼女は、結婚後に口も聞いてくれず、冷たい表情を浮かべているだけの女性だった。
しかし今目の前にいるのは、無視を決め込んだように反応を見せない僕に対し、必死に笑顔を作る健気な女性だった。
ロザリアの両親は僕に呆れ、怒りを向けていた。
まともに口もきけず領地運営につゆほどの興味も抱かない私に対し、毎日のように悪態をついていた。
それをロザリアが必死にかばう。
「王都で色々あってまだ調子が戻っていないのよ。
いずれ時間が経てばもとの彼に戻るわ。もう少し待ってあげて」
しかし、義両親は次第に僕に暴力を振るうようになる。
僕をかばうロザリアに対しても。
ああ……やめてくれ。僕はいい。こんな死にぞこないのような男なら好きなだけ殴ればいい。
けどこんな男をかばう優しい人にまで手を出さないでくれ……。
やがて義両親は長期間家を空けるようになった。
旅行に出かけているらしい。それまでしばらくは王族の子を預かったことで自粛していたのだろう。
旅先で湯水のように金を使い豪遊する光景が見えた。
王家からかなりの支度金をもらったのかもしれない。
一介の貴族にしては度が過ぎる金遣いの荒さだ。
義両親がいなくなったことで、僕やロザリアへの暴力は無くなった。
ロザリアと僕はふたり慎ましく暮らしていた。
間もなく彼女の両親は、旅先で流行り病にかかり、あっけなく死んだ。
冷たくなった彼らを迎え入れ、ささやかな葬儀を行う。
ロザリアは気丈に振る舞っていた。
未だ無気力な僕に変わり、必死に領地運営に取り組んだ。
しかし、そこには問題があった。
決定的な財政難だ。
両親が残したのは財産どころか多額の負債。
王家の用意した支度金もとっくに底をついていた。
そして矢継ぎ早に届く借金の催促状。
ロザリアは僕に何度も相談を持ちかけた。
王家から何とか援助をもらうことは出来ないかと。
「僕はもう王家に関係ないよ」
ぼんやりとしながらもそう言って首を横にふるのを見て、彼女も諦めたようだった。
ロザリアは貸付を行った貴族のもとにひとりで出向いた。
返済を待って欲しいこと。そのうえでさらに資金を融通して欲しいことを伝えるために。
相手の貴族は、条件を飲めば追加の融資もやぶさかではないと言った。
その条件とは、彼女の体だ。
……やめろ!
ロザリア、だめだ……!
彼女は覚悟を決めていた。
自分がどれほどの辛酸を舐めようと、領地と僕を守り抜くと。
ロザリアは美しく気高かった。
だから、貸付を行った複数の貴族が一様に彼女に肉体を差し出せと迫っても、
決して弱音を吐くことは無かった。そして誰も見ていない屋敷の自室で泣いていた。
そのときの僕は彼女の苦しみも知らず、ただぼんやりと死体のように生きていた。
呪いに蝕まれ、思考も持たず、ただ過去の後悔と自分の不幸を憂いてばかりいた。
あるとき、彼女が僕に贈り物をくれた。
財政難な領地を何とかやりくりしながら貯めた金で買った、高価な万年筆だ。
僕のもとを尋ねる際、彼女はいつも香水をまとっていた。
自室の引き出しから大切そうに小瓶を取り出し、首筋や手に丁寧にこすりつける。
ああ僕はどうして思い至らなかったんだろう。
彼女はこの香水を、僕が贈ったものだと思い込んでいるのだ。
その香水をどんなときも纏っていたという事実が何を意味していたのか。
なぜ気づくことができなかったんだろう。
皮肉にも、彼女の行為は呪いの原因となって僕から理性を奪い、ますます彼女を孤独にしていく。
彼女はもう笑うことが出来なくなっていた。
あまりに多くの苦痛が彼女を襲い、笑顔を奪っていたのだ。
今の僕にはそれを眺めているしか出来ないなんて、これほど残酷な罰をほかに知らない……。
「エヴァン。……誕生日おめでとう」
小さな声でそう言って、ロザリアがプレゼントの箱を渡す。
僕は驚いたように目を丸くし「ありがとう」と言った。
箱を開けて万年筆を取り出すのをロザリアはじっと眺めていた。
久しぶりに笑顔を見せる僕を見て、ロザリアも微笑んでいる。
そして聞き取れないくらいの声で呟いた。
「エヴァン。あなたはどうか、幸せになって」
残念ながらそのときの僕の耳には届いていなかった。
彼女は涙を隠すように後ろを向いて、足早に部屋を出ていった。
僕が視線を彼女に向けたとき、見えたのは後ろ姿だけだった。
そして彼女が死んだ――
貴族の男に体を差し出し、歯を食いしばって耐えていたところへ、貴族の奥方がやってきたのだ。
激昂した奥方は兵を呼びつけ、ロザリアを斬り殺した。
貴族の男がヘラヘラ笑い許しを乞う中、裸の彼女の遺体はいつまでも床に置き捨てられていた。
憎い……。
この貴族の男ではない。
ロザリアを殺した兵士でもない。
彼女の両親でも、呪いを贈った王妃でもない。
……彼女のことを何も知らなかった自分自身が憎い。
自分の世界に引きこもり、ロザリア一人に苦しみを背負わせてしまった、僕が。
どこかの貴族と浮気していると思っていた。
その結果死んだのだから自業自得なのだと、事情を調べもしなかった。
屋敷に残った負債は彼女の散財によるものと決めつけていた。
もっと早く王家に助けを求めていたら……。
彼女と向き合っていたら……。
確かに僕は、呪いによって理性を奪われていた。
……だから何だというのだ。
自分自身を許す免罪符になど、なりはしない。
君のことを何も知らず、想いに応えることもなく、安穏と生き、そして死んだ……。
すまない……ロザリア。
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