水境に語り部
語るべきか。騙らざるべきか。
秋野涼子は、靴底に絡みつく重い泥を振り落としながら、山深い簗瀬集落の細い道を進んでいた。肩にかけたリュックには、民俗ホラー雑誌『異談廻』の依頼原稿用のノートとレコーダーなどの取材道具がびっしりと詰まっている。
今回のテーマは『境界としての水』――特に、この地域に伝わる『境川信仰』と、それに関わる最後の『語り部』についてだ。
集落は、深い緑に覆われた谷間に、かろうじてへばりつくように存在していた。空気はひんやりと湿り、常に川の流れる音が耳の奥に響く。その音の源である境川は、集落と、鬱蒼とした禁忌の山「向こう側」とを分かつ、細くも急峻な流れだった。村人はこの水を「境水」と呼び、口々に「命の水」でありながらも「触れすぎてはならぬもの」だと語った。
「お嬢さん、そろそろ日が傾くで。川筋の道は、暗くなったら歩いたらあかんよ。それに小雨も降りよる」
通りかかった皺の深い老婆が、曇った目で秋野を一瞥しながら言った。声には、明らかな警戒と、外部者への疎外感がにじんでいる。
「はい、気をつけます。ところで……『語り部』という方は、どちらにおられますか?」
秋野は笑顔を作り、核心を突く質問を投げた。
老人の表情が一瞬でこわばった。
「……ウバ様か。あの方はな、境川のほとりの祠の番をしとる。だがな」
声が低くなり、かすかな震えが混じった。
「知らん顔して通り過ぎるのが身のためや。……くれぐれもな」
それ以上を聞く間もなく、老人は足早に去っていった。秋野の背筋に、説明できない冷たさが走った。集落全体が、川と「向こう側」について語ることを、異様に恐れている。
老人の言う通り、集落の一番外れ、境川が谷底でうねるすぐそばに、小さな祠はあった。苔むした石段を登ると、祠の前に一人の老婆が佇んでいた。背中は丸く、粗末な着物をまとっている。
彼女の周囲には、いくつかの木の柄杓と、水を張った桶が置かれている。秋野が近づく足音にも微動だにしない。これが語り部のウバ様だ。
「失礼します。民俗学を研究している秋野と申します。この地の境水の信仰について……」
秋野は少し距離を置いて声をかけた。
老婆はゆっくりと振り向いた。その顔は、年月と風雨に削られた岩のようだったが、一対の目だけは異様に鋭く、深い闇を湛えている。秋野をじっと見据えるその視線は、肌を刺すようだった。
「……知りたければ、雨の降らぬ日に来い。今は奥で見られておるからな」
ウバ様の声は、枯れ枝が擦れ合うようなかすれていたが、不思議と耳の奥に直接響く。
「雨の日は……水が濁る。境が曖昧になる。こっちを見るすべは減るがな……」
深く窪んだ目が、濁った川の方を一瞥した。
「代わりに、確かにいるのがわかる。匂いで、音でな」
「『見られている』……とは、何にですか?」
秋野はレコーダーのスイッチをそっと押しながら尋ねた。
ウバ様の目が、わずかに細くなった。直接の名を避ける秋野の言葉選びを、一瞬評価したようにも見えた。
「……晴れた日に来い。今は言えん」
秋野はその言葉の通り一度近くの民泊に泊まり三日後、青空が広がる日に再び祠を訪れた。境川の水は、確かに前日までの雨で濁っていたが、今日は澄み始め、深い緑色を帯びていた。しかし、澄めば澄むほど、その底に沈む「向こう側」の山影が、不気味なほどにはっきりと見える気がした。
ウバ様は桶の水を柄杓ですくい、祠の周囲に静かに撒いていた。
「……来たか」
振り返りもせずに言った。
「お約束通りです。境川が境界であるとは、具体的にどういうことでしょうか? 『向こう側』には何かがあると……?」
秋野は一歩近づいくとウバ様は撒く手を止め、深く息を吸った。そして、古い歌を詠むように、ゆっくりと語り始めた。
「境水 澄めば澄むほど 底に映る 向こうの山影……」
「夜鳴く鳥の 声数えよ 八つ過ぎて 戸を開けるな……」
「雨の夜は 水の鏡 見るなよ 見るな 映るのは……」
最後の言葉は、かすれるように途切れた。
「『映るのは』……何が映るんですか?」
秋野は詰め寄るように尋ねた。取材ノートに走るペンの動きが早くなる。
ウバ様がゆっくりとこちらを向いた。その目に、尋常ではない恐怖が走っていた。
「……形にしたらあかん。言葉に、形にしたら……呼ぶことになる。こっちに来る……」
彼女は柄杓の水を地面に乱暴にぶちまけた。泥水が跳ねる。
「……泥水が、泥水だけが守ってくれてるんや! 澄ませたらあかんのや!」
その時、秋野は長年の取材経験で察する。ウバ様が撒いていた水は、清めのためのものではないのだと。
撒くことで水を濁し、祠の周囲に「見えにくい」膜を作ろうとしていたのだ。それは湖底の泥をかき混ぜるような行為で、一時的な目隠しにはなっても、撒かれた場所に「ここに大切なものがある」と印を付けるようなものだった。
濁りは沈殿し、その場所への「関心」を積もらせる。長い目で見れば、危険な代償を伴う儀式だった。
「……水を撒くこと自体が、危ないんじゃないですか?」
秋野は思わず口にしてしまった。
その言葉にウバ様の目が見開かれ、驚きと、理解されたことへのある種の安堵、そして深い絶望が一瞬で通り過ぎた。
「……わかっておるか。だがな、せんことには守れん……一時でも、目をそらさせねば。」
彼女の声は震えていた。
「……泥が舞う間は、こちらに関心が向くかもしれん。目立てばな……他への関心が薄まるかもしれん。それだけが、せめてもの…… もう、戻りなされ。今夜も雨が降る」
「? 今夜は晴れの予報ですが......」
「予報などできん。それは、かみさんの所業。儂らには......雨の夜は合わせ鏡や気をつけい。いいな?」
そう言うとウバ様は下を向き黙り込んでしまったため、秋野は仕方なくその場をあとにした。歩き去る間、静かなその場所には老婆のすすり泣く音だけが響いていた。
その夜、秋野は集落唯一の民宿に泊まっていた。夕方から再び雨が降り出し、窓を打つ音が不気味に響く。ウバ様の警告が頭をよぎる。
『雨の夜は水の鏡』……。境川の水は、雨で増水し、さらに濁りを増しているはずだ。広い範囲で境界が薄れている。何かが動きやすい状態ということだろうか。
そんな事を考えていると遠くの方から、ドン……ドン……と、太鼓のような音が聞こえてくる。
いや違う、それは……水の中を重いものがゆっくり歩くような、ズブ、ズブ……という不気味でベタつくような音であった。秋野は耳を澄ます。
音は次第に近づいているのを感じる。宿の真下の川岸からか?
そう考えた瞬間、鼻を突く、強烈な腐敗臭と生乾きの雑巾のような臭いが漂ってきた。腐った水草と、沼底の泥、そして生臭い何かが混ざった、吐き気を催すような匂いだ。
秋野は思わず口を押さえた。同時に、背筋に氷の塊を滑らせられるような鋭い「冷たさ」が走った。
恐怖に駆られ、秋野は無意識に窓に近づいた。雨で曇った窓ガラスの向こう、闇に沈む境川の方向を見てしまった。川面は、雨粒が叩くにもかかわらず、奇妙なことに部分的に鏡のように光っている場所があるように見えた。その光る水面のすぐ脇の暗がりで、何かが蠢いている気配を感じた……。
「あっ……!」
その瞬間、宿の主である老婆が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「見たんか!? 見たんかあ!?」
老婆の声は金切り声に近かった。彼女は慌てふためきながら、手に持っていたでコップの水を、窓際にがぶがぶと撒き散らした。
窓際に溜まった埃と泥の混ざった水が跳ねる。
「ダメです! 今撒いたら……!」
秋野は叫ぶが、全てが遅かった。
ドロリ……
撒かれた水たまりの真下、あるいは床下から、重い泥水が動くような、粘っこい音がはっきりと聞こえた。同時に、先ほどの腐敗臭が、撒かれた地点を中心に、より濃厚に立ち上ってきた。老婆は凍りつき、青ざめた顔で秋野を見た。
「……しまった……しまった……まだウバ様は撒いとらんかったんか……引きよせてしもうた……ここに……ここにっ……!」
老婆は震えながらその場に崩れ落ちた。秋野は急いで窓を固く閉め、雨戸をがちがちと閉めた。外の不気味な音と匂いは、それでもかすかに、しかし確かに感じられた。撒いた水が、一時的に「目隠し」をしたのか、それとも……その場所への「関心」をさらに強く刻んでしまったのか。
結局、その夜はそれ以上何が起こることはなく、朝を迎えた。しかし眠る気にはなれず1日気を張り付けていた秋野は、別の部屋の一室で静かに窓を眺めていた。
すると入り口の向こうから、ウバ様の遣いを名乗る女が秋野を呼びに来た。秋野は恐る恐るドアを空けるとそこには、先日道で出会った老婆がいた。
「あれだけ言ったというのに。ウバ様がお待ちだよ。着いて来なさい」
老婆はそう口にするとウバ様のいる祠へと秋野を案内した。
そして着いた祠の前で待っていたウバ様は、一晩でさらに老い込んだように見えた。顔色は土気色で、深く窪んだ目は異様な光を放ち、周囲の空気が歪んでいるようにさえ感じられた。そして、かすかに……昨夜と同じ腐敗臭が彼女から漂っているように感じた。
「……お前さん、見たな。匂いも嗅いだな」
ウバ様の声は、さらに枯れ、地の底から這い上がってくるような響きだった。
「はい……窓を……」
「……あれはな」
ウバ様は秋野の言葉を遮った。
「『映り込んだ』んや。雨で水が濁り、境が薄うなって……水が鏡のようになった時に、向こうの『影』が映るんや。広く薄うなるから、形ははっきり見えんかもしれん……だが、いることはわかる。音も、匂いも……。もちろんアチラからもわかってしまう」
ウバ様は苦しそうに咳き込み、続けた。
「……何なのかは言えん。言ったら、もっと近くに呼んでしまう。形がはっきりしてしまう……お前さんは、女将に言うたらしいな。『撒いたらダメ』だと……よくわかっておる。」
ウバ様の唇が歪んだ。それは笑みなのか、苦悶の表情なのか。
「……清めの水? あれはな、湖底の泥をかき混ぜるようなもんや。一時は視えんくなる。だがな……泥が舞えば、そこに『何か』がおることに気づくやろ? 匂いで、音でな……。それに……」
彼女は秋野を真っ直ぐに見据え、目に狂気の色を浮かべた。
「……沈んだ泥は……いつか必ず底に積もる。撒けば撒くほど、その場所は『向こう』にとって……『見たい場所』になるんや。関心が……積もるんや……!」
その言葉に、秋野は凍りついた。宿の老婆が水を撒いた行為が、一時的な目隠しと引き換えに、その宿という「場所」と、そこで匂いを嗅ぎ、音を聞いた自分という「存在」への危険な関心を蓄積させてしまったのだ。
「……お前さんはもう、匂いを嗅いだ。音も感じた」
ウバ様の声は死の宣告のようだった。
「……次に雨が降る夜……お前さんの『水』は、もっと弱うなるかもしれん。気をつけろよ。……この村には、もう長くおられん。さっさと出て行きなされ」
「それは、わかっています。ですが『水』が弱くなるとは……?」
「……お前さん自身も、『境』みたいなもんになるいうことや」
ウバ様は不気味に笑った。
「……撒かれた場所と繋がったお前さんはな……次に雨が降った時、無意識に……水に触れんか? 顔を洗うか? 傘をさすか? その小さな水の動きがな……『撒く』ことと同じや。小さな濁りを起こす……お前さんの場所に、泥を巻き上げて知らせるんや……」
秋野の血の気が引いた。それは逃れられない罠だった。彼女はここを離れなければならない。すぐに。
「……ウバ様、あなたは……?」
ウバ様はゆっくりと祠に向き直った。
「……わしはな、最後の『語り部』やった。この祠と、この境を守るのが役目や……だが……語りすぎたかもしれん。聞かせすぎたかもしれん……」
ウバ様の背中は、限界を超えた重荷に押し潰されそうに見えた。そして漂う腐敗臭は、確実に強くなっているように感じられた。
「……行くんやな? ならば、早う行け。二度と戻ってくるな」
ウバ様は振り返らずに言い放った。
「……覚ておけ。境川の水は……どこへ行っても、お前の背中に付いてくる。水をまこうなどと考えるな。心に留めておけ」
その言葉を背に、秋野は宿に戻り、慌てて荷物をまとめた。宿の老婆は昨夜以来、部屋から出てこない。村の通りは、異様な緊張感に包まれていた。村人たちが境川の方を指さし、騒いでいる。
「水が……水が急に濁っとる!」
「こんな急な濁り方はおかしい……水かさも増しとる!」
「……向こう側の動きや……何かが近づいとる……!」
秋野は混乱する村人たちを無視して場を離れ、山を下るバス停へと急いだ。心臓が高鳴る。ウバ様の最後の言葉が耳朶にこびりついている。
バス停に着き、振り返った時、秋野は目を疑った。境川のほとりのウバ様の祠の周囲に、何か白っぽいものが無数に撒き散らされているように見えた。……水か? 大量の水が撒かれた跡なのか?
「……ああ、ウバ様が……」
隣に立っていた見知らぬ老人が、呻くように呟いた。
「……ついに、己が体いっぱいの水を……最後の清めに撒かはったんや……」
老人の目には深い悲しみと恐怖が映っていた。
「……それで『向こう』の目を……一身に集めたんや。祠と境川を守ろうとして……」
秋野の胃が冷たく締め付けられた。ウバ様は、自らを犠牲にした「撒き餌」となった。
膨大な量の水を撒き、渦巻く泥水で一時的に己の存在を誇示し、集落全体や祠への関心を、一身に引き受けたのか? それによって「関心の蓄積」のリセットを図ったのか? しかし、その代償は……。
秋野の乗ったバスが谷を下り始めた頃。窓から見える境川の水は、確かに異様な赤茶色になるまで濁っていた。そして、ふと川面の一部が、雨も降っていないのに、昨夜見たあの不気味な鏡のような光り方を一瞬だけ見せたような気がした。
その瞬間……。
ズブッ……
車内に、かすかだが、重いものが水から上がるような、あの忌まわしい音が聞こえた気がした。そして、ほんの一瞬、あの強烈な腐敗臭が、バスの冷房の風に混ざって鼻をかすめた。
秋野は息を呑み、必死に窓の外を見た。しかし、濁った川面は何事もなかったように流れている。ただ、ウバ様の祠があったあたりの上空だけが、妙に靄がかかり、歪んで見えた。
バスは谷を抜け、都市へ向かって走り続ける。秋野は震える手で取材ノートを開いた。ウバ様の謎めいた歌と警告がページを埋め尽くしている。そこには、宿の老婆が撒いた水、祠の周囲にウバ様が撒いた大量の水の跡についての詳細な記録もあった。
水を撒く行為が、一時の隠れ蓑と引き換えに危険な関心を蓄積させるという、矛盾に満ちた禁忌の核心が。
彼女は新しいページを開き、ペンを握りしめた。ノートの余白にウバ様の声が響く。
「……形にしたらあかん……」
その警告を胸に、秋野は筆を進め始めた。まず、あの腐敗臭について――
取材ノートには「腐った水草と沼底の泥が混ざった鋭い臭い」と記されていたが、原稿用紙には「深い森の古い土が長雨に濡れた時に放つ、重い匂い」と書いた。
境川の不気味な水音は、ノートでは「重い物体が泥水を掻き分けるようなズブズブという音」とあるが、原稿では「大きな礫が川底を転がるような低い響き」と表現した。
最も苦心したのは、雨の夜に川面に映ったあの光景だ。取材ノートには「鏡のように光る水面の縁で、不定形の黒い塊が蠢く気配」と走り書きしてある。秋野はペンを止め、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
その目には、ウバ様と同じ深い闇が宿っていた。彼女は原稿用紙にこう記した。
「雨に叩かれる川面のあちこちに、柳の枝が揺れる影のようなものが映っていたが、おそらくは木々の映り込みだろう」。
窓の外、遠くの山に雨雲が垂れ込めていた。バスの車内アナウンスが流れる。
「……前方、都市部ではにわか雨の予報が出ております……」
秋野はふと、ペンを持った右手が無意識に窓ガラスに触れているのに気づいた。冷たい表面に、自分の指の跡がくっきりと残っている。それはまるで――
原稿の最後の段落を書き終えた時、秋野は奇妙な感覚に襲われた。この文章が単なる報告ではなく、ウバ様が祠の周囲に撒いた水のように、読む者に「関心」を植え付ける装置になるのではないかと。
ノートに記された真実を比喩で包み隠す行為自体が、新たな危険な「撒水」になるかもしれないと。
雨粒がバスの窓を叩き始めた。秋野は冷たい窓ガラスに額を押し当てた。
遠く離れた簗瀬の谷間でウバ様が最後に撒いた大量の水が、今この都市の雨と地続きになっているような錯覚に陥る。そして、この原稿を読む誰かの背中に、境川の冷たい水が忍び寄る感覚を――それは取材者としての義務なのか、それとも新たな語り部としての呪いなのか。
「そういえば、作品にはキャッチコピーが無いと......」
秋野の握るペン先が紙の上を滑りこう締めくくられた。
語るべきか。騙らざるべきか。貴方はこの作品に何を感じましたか?
私はこの作品を執筆中に少しだけ、あの時に感じた臭いを嗅いでいた。
しかしこの作品を完成させて以降は、そういった事を感じる機会はなくなってしまいました。それはきっと"関心"が私から、この話自体に移ったのではないかと考える。
貴方はこの話を読んであの臭いを感じるだろうか?
貴方はこの話を思って村の気持ちを考えるだろうか?
語り部が水をまく行為は、何も形を伴うとは限らない。それはあの時の影のように、不定の認知が及ぼすことだってあり得る。
分からないなら分からないで構わない。でも少しでも感じたのなら、私やウバ様と同じ様に語ってみてはどうだろうか?
ー秋野涼子
※本作品は『異談廻』誌 新着怪異ファイル19■■年■■月号掲載記事の引用です。