72 憎しみは真理にあらず14739
刹那。
「――誰だッ!」
電光石火の如く、素早く振り向く。
俺が急に大きな声を出したため、元老院の方々だけでなくエリアまでもが驚いてしまったようだ。脅かすつもりはなかったので許して欲しい。
しんっと静まり返った広間で、俺は素早く視線を巡らせる。
俺は今しがた後方から視線を感じた。まるで品定めするような視線だった。加護を取り戻せたおかげで以前のように、いや、加護がない状態で過ごしたことにより感覚がいっそう研ぎ澄まされたため、何者かの気配や殺気に敏感になっているようだ。うなじがチリチリと疼き、誰かがいると訴えている。
しかし、その視覚はその直感を裏切る。
俺の後方には誰もいなかった。
視界には何も動くものはない。
「……エイジ?」
怪訝そうに俺の名を呼ぶエリア。
だが、その声に答えることもできず、剣を握ったまま警戒する。
本当に誰もいない……?
いや、違う。
魔王の広間は大回廊らしく、壁の中腹あたりで通路が設けられている。簡単に表すと、二階構造で中央吹き抜けの大回廊である。
その二階部分――最初は誰もいないと思っていたのだが、よくよく見ると連なる柱の裏に人影のようなものがあった。あの人影が感じた視線の正体であると確信する。
俺は警戒心を強めながら、その人影に向かって声を発した。
「おい、そこのお前。見てないで降りてきたらどうだ?」
声に反応し、黒い人影はやはり生物であったのを照明するようにぴくりと反応し、だが俺の指示には従わず、踵を返した。
「待て! 風素召喚――」
瞬時に俺はその姿を追わんと、風素を召喚。エリアが制止するためか俺に手を伸ばしたが、それよりも早く解放した風素を足場にして、二階部分に跳躍する。
人影は立ち止まって俺の方を見ていた。
黒い、そんな感想を抱いたのは、単純に纏っているローブが黒色だったからだろうか。宵闇の剣よりも黒い、一筋の光さえ逃がさないといった黒さである。フードの裾は顔の半ばほど隠し、辛うじて体型から男だと予想は付くが、人族か魔族かも推し量ることができない。
「……何者だ?」
ローブ姿の男は答えなかった。代わりに、と右手に何かが出現する。
収納魔法から取り出されたそれは、武器であるはずなのだが、武器と断定していいものなのか疑問が浮かぶものだった。厚みのある骨断ち包丁。普通なら街中の肉屋さんが握り、家畜を解体するために使うものだ。戦場では不釣り合いな包丁は、しかし、戦場で多くの血と怨恨を浴びてきたのか、こちらもまたどす黒く変色している。
上から俺たちを観察していたという状況からして、彼はこの呪い問題に深く関わっているはずだ。もしかしたらクルーガや元老院の彼らに呪いを掛けた本人かもしれない。また先ほどまで元老院が騒いでいた先代勇者消失の犯人だったり、数年前にあったエリアの父である先代魔王暗殺にも関わっている可能性もある。どちらにせよ、この場で盗み聞きしている時点で黒だ。取り押さえて聞き出さなければならないことは多い。
俺は剣を正眼に構えた。
男は骨断ち包丁を右手で器用に投げ回している。ローブ越しでもわかる、余裕に溢れた態度だ。
その侵入者に逃げ場はないはずだ。間違えたのか、通路の出口がある方とは逆に位置取っている。ここから抜け出すには、いずれにせよ俺を倒さなければいけない。何か秘策があるのだろうか。
その答えは早かった。
「なっ!?」
男は想定外に後ろへ跳んだ。硝子が砕け散る音が響く。太陽光や月光を引き入れるための窓があった。侵入者は頭から窓に飛び込んで、姿は見えなくなった。
油断していた。窓を脱出路に使うとは。
一瞬だけ呆気に取られたが、俺は黒い影を追って、粉々に砕けた窓から飛び出す。
ここは魔王城の上層階で、位置的に考えると窓の下はちょうど中庭のはずだ。落下しながら風魔法で衝撃を軽減し、着地するや否や剣を構える。待ち伏せの警戒もしていたのだが、この刹那の時間でどこかに隠れたのだろう、次こそ動くものは視界内になかった。
どこだ、どこに潜んでいる。
視線を素早く滑らし、周囲を確認する。どこにも人影はない。
正方形やら長方形やら幾何学的な形の花壇には、春の代名詞であるヴァイシアや砂漠地帯でしか生息しないはずのオアシスリリィといった花の特性を無視した色とりどりの花が咲き誇っている。しかも、それらの上に降り積もり、今もなおしんしんと降っている雪がこの不思議空間を加速させていた。体感的には数時間だったのだが、この地上世界では既に一週間が経過しているらしく、より本格的な冬が到来しているようだ。肌寒くはあるが、加護のおかげでやはり風邪を引く心配はない。
障害物となるものは多い。庭園らしく切り揃えられた木々やアルケス――美しい螺旋状の花弁と棘のある蔦を持った花――で作られた生垣がそこかしこにあり、どこに侵入者が潜んでいてもおかしくなかった。雪にそれらしき足跡はあるのだが、途中で途切れているのは、風素で空中を跳んで移動したのかもしれない。
気配はない。
逃がしてしまったか、そう諦めてエリアの元へ戻ろうとした時だった。
「絶念の霧」
声が聞こえた。
そう思った瞬間、視界が真っ白に染まる。周囲を霧が埋め尽くしたのである。敵影どころか、すぐそばにあったはずの花壇さえみえない濃さである。
俺の視界を奪うためだろう。
覚えはある。少し前ーー地上では一週間ほど前になるのか、加護を失った状態で守護者と戦った時のことだ。俺はあの巨体に踏み潰されないように、床に溜まっていた水を熱素で一気に沸騰させ、奴の視界を奪ったのだ。
とはいえ、あの時の守護者と違い、俺は対抗して魔法が使える。埋め尽くさんばかりの霧を吹き飛ばすため、またもや流れるように風魔法を詠唱する。
「風素召喚・拡散・広範囲・全開放」
しかし、果たして何も変わらなかった。
「な……」
吹き荒れる暴風は僅かに霧を押しのけただけで、それもまたすぐに周囲から流れ込んだっ霧で埋め尽くされた。得られた結果は、無駄に魔力を消費しただけである。
ありえない。どう考えても、この霧の質量は無に等しい。簡単に吹き飛ばせることができるはずだ。それなのにこの霧は手応えが全くなかった。更に、毒ではないようだが霧中では身体が心なしか重く感じ、どうやら魔法を使った時の魔力消費率も上がっているようだ。まるで守護者がいたあの地下空間のような、俺にとって不利な空間。
だからといって、敵が手加減してくれるはずはない。
この霧で俺の視界を奪ったのは、俺から逃げるためではなく、俺の死角から狙うため。
「は――」
予想は的中し、剣を構えた瞬間、突如として背後で殺気が膨れ上がる。
振り返りながら剣の腹を倒して、半身を守る。
キンッ、と鋭い金属音。霧の中から現れたのは宵闇の剣と鍔迫り合いする骨断ち包丁と、それを握る黒フード姿の男。
風でフードが靡いて露わになった彼の口元が、にやりと吊り上がる。
「やるなァ、勇者サマよぉ」
酷くざらざらとした歪な声だった。
それだけ残すと男は後ろに飛んだ。追う間もなくその姿は霧に紛れ見えなくなり、気配も全く感じられなくなる。
危なかった。攻撃が来るかもしれないと予想していなかったら、先ほどの武骨な武器は俺の首を刎ねていたことだろう。
そんな運の良さに感謝している暇なんてなかった。
背中に悪寒が駆け巡る。ほとんど直感のままに剣を首元辺りで立てると、直後、現れた骨断ち包丁による攻撃の防御に成功する。
男は攻撃に失敗したと悟るや否や、やはり飛び退いて霧の奥へと姿を隠した。
なるほど。これが奴の戦い方らしい。霧で敵の視界を奪い、死角から攻撃を与え、失敗したら場から離れて隙を虎視眈々と狙う。まるで暗殺者のような戦い方だ。
そんなことを考えている間にも、攻撃が迫る。最も防御が難しい左後方から殺気が迸った。反射的に顔を逸らすと、眼前を鋭い毒々しい刃が通り過ぎ、不運にも俺の前髪を一房ほど刈り取っていった。
「くっ!」
反撃しようと剣を咄嗟に振るが、悠々と侵入者は既に姿を消している。
これでは埒が明かない。これまでどれほど自身の眼に頼って戦ってきたのか、まざまざと痛感させられる。侵入者も俺と同じく何も見えていない状態のはずであるが、先ほどから常に俺の首だけを正確に狙い続けていた。もちろん敵の策によるものだが、練度の違いを実感させられる。
このままだと防戦一方になってしまう。どこに敵がいるかもわからない俺は、むやみに剣を振ることができない。今は辛うじて防ぎ続けているが、致命傷を与えられる可能性もある。
救いがあるとすれば、俺とは違って加護持ちではないらしく、侵入者の実力はそこまで強くないこと。それと、俺が気配の察知に秀でていることか。殺気などに敏感で、遠くから狙われていても気付けるし、不意打ちにも事前に反応できる。例え視界を塞がれていても、半径十五メル半径ぐらいなら敵でも味方でも気配を探知することができる。その特技により、こうして霧中からの攻撃に何とか対処できていた。
しかし――
「ッ!」
なぜか相手の気配を探知できない事実に俺は歯噛みする。突然、奴の気配が現れて、ぎりぎりながらも攻撃の防御に成功し、追撃するべく感覚をいっそう尖らせるが、侵入者の気配は霧に紛れて見えなくなったところで途切れてしまう。そこにいるはずなのに、既にいない。これも謎の霧の効果なのだろうか。そしてまた別の咆哮から凶悪な刃が振り下ろされる。
不思議なのは、明らかに逆方向からの攻撃で移動できる時間もなかったはずなのに、前の攻撃から間髪入れずに別方向から攻撃される。まるで何人もの敵に同時攻撃されているかのような感覚だ。それが正解なのかもしれない。この霧で姿が見えないだけで、本当は侵入者は一人ではなく何人もいたという仮説。最初から俺をここにおびき寄せるため、待ち伏せしていたのかもしれない。もともと相手が組織かもしれないとファイドルは言及していた。可能性はあるだろう。
しかし、そうなれば本当に埒が明かない。ここは敵が一人であると仮定して、対応するべきだ。どちらにせよ侵入者は何も見えない霧中での戦い方を熟知しているのだ。俺から気配を察知されない方法も、素早い移動の方法もあるのだろう。
次こそは必ず反撃してやる、と俺は決心して剣をしっかりと握り込む。
何度目かになる攻撃の予兆。即座に宵闇の剣で危なげながらも骨断ち包丁を防ぐと、男はバックステップで離れていく。今しかない。
即座に剣を腰だめに構えて、慣れ親しんだ剣技を発動する。純白のスパークが迸り――否、禍々しいくもどこか神々しい闇色の電閃が刀身を纏う。僅かに威力を溜めてから、一気に解放。世界の理を越えた加速力により宵闇の剣が引っ張られ、霧の中を突き進む。
元はスターダスト・スパイクと命名していたが、一連の加護交代により性質が変わり、名前を変更する必要が出てきた俺だけの剣技。
黒いスターダスト・スパイク。
本当の黒、という概念があるならこれのことだろう。まるで空間がごっそりと抜け落ちたかのような虚無色。だが、背景が白い霧であるからこそはっきりと認識できる存在。
黒い尾を引きながら突進する宵闇の剣は、逃げようとしていた侵入者に追い付き、だが、ローブの裾を削るだけに留まった。僅かに射程が足りなかったのだ。
ここで俺の身体は金縛りのように動かなくなる。剣技使用後に必ず発生する硬直、致命的な隙だ。それは時間にすれば、瞬きするよりも短い刹那であるが、侵入者にとっては長すぎた。動けない俺を横目に、男の姿は次こそ霧の奥へ融けていく。
焦って失敗したのかもしれない。早く速くと考えていたため、剣技の溜めも不十分に発動してしまった。この剣技の良さはその高威力と超長射程であるが、それはきちんと溜めなければ真価は発揮できない。最大までイメージを込めることで、この剣は炎龍の鱗を穿つこともできる。
とはいえ、威力を溜めようとすれば、それはそれで逃げられてしまう。この剣技は相性が悪かったようだ。
そこで霧の奥から無骨な武器と、それを握る男が現れる。これまでの幾度に渡る攻防を繰り広げたことにより、俺は既に侵入者との戦い方を感覚で掴みかけていた。
もう危なげもなくその骨断ち包丁を弾き、男が逃げるよりも速く、流れるように宵闇の剣を左腰に沿える。刀身に宿るのは、以前とは少しも変わらない真紅の燐光。時を裂く速さで前方へ薙ぎ払われる。
俺が使える剣技の中では最速の発動速度を誇る古代流派剣術、朱閃。
間合いに入ってしまえば、見てから避けるのは困難である。
高速で迫る剣尖に対して、侵入者は辛うじて上体を逸らすことで避けた。しかし、遂にフードの端を斬り飛ばすことに成功した。
そこであらわになる侵入者の素顔。黒一色の短髪に、彫が深いごつごつとした男性。右顔半分は蛇なのか蜘蛛なのか気味悪い刺青が埋め尽くしていて、ギラギラと凄絶な赤い瞳が輝いている。外見だけで他人を判断してはいけないとは言うが、街角で遭遇したらすぐさま憲兵に通報したくなるような、まさしく悪党らしい素顔だ。
侵入者は俺に素顔を見られて心境が変わったのか、霧の奥へ消えることなく、ぎりぎり剣が届き得ない距離で俺と向かい合う。何か狙いがあるのかもしれない、と俺は追撃を諦め、剣を構えるだけに留めた。
男が飄々とした態度で肩を竦めた。
「おいおい、そんなに警戒しなくてもいいぜぇ勇者サマよぉ。オレはどう見ても人畜無害な通行人だろ?」
ざらざらとした声質で、こちらを馬鹿にするような間延びた語尾が不快だ。
俺は欠片も油断せずに、剣尖を侵入者へ向けたまま答える。
「何が通行人だ……! 答えろ、何の目的があってあの場にいた!」
怒気交じりの声に男は飄々とした態度を崩さなかった。
「何の目的ってよォ、そりゃオレの完璧な計画をブチ壊しやがった奴らの顔を見るためじゃねえかァ。だが、本当に興味があるのは勇者サマじゃなく、あの高貴気取りの舐め腐った魔王サマだがな」
「……高貴気取り?」
「そりゃそうだぜ。何が世界平和だ、何が人族と和平を結ぶだ。信じられねェ。自分の力で実現できない理想を公然と垂れているだけに過ぎねェ。信じられるわけがねェ。上に立つ奴らはみんなそうだ。耳障りの良い噓八百を並べ立てている。挙句の果てにマジもんの勇者を仲間に迎え入れるだとォ? 信じられねぇ、信じられねェ、シンジラレネェ。――信じられるものは憎しみだけだ。憎しみ、憎悪はどれだけ時間が経っても変わることがない。不変の存在。唯一それだけが俺は信じられる。だから、俺は全てを壊す。俺の憎しみだけを持って世界に復讐する。それが俺の権利で生きる理由だ。誰にも邪魔をさせない、させちゃいけない。あの高貴気取りな魔王サマにだってな。……くくっ、噂をすればなんとやらだ、お待ちかねの主役が登場だ……!」
「ああ?」
怪訝に俺が問い返すと同時に。
想定外の声が響く。
「――エイジ!」
馴染み深い凛とした声。
死神がにたり、と笑った気がした。
「来るなッ! エリア!」
咄嗟に叫ぶ。
気を取られ、視線を逸らしてしまったのが失敗だった。いつの間にか眼前にいたローブ姿の男は消えていた。
嫌な予感がした。俺は声がした方向へ全力で駆ける。薄っすらと現れた人影はエリアのもので、その背後には黒いローブが迫っていた。声で注意を呼び掛けるのは間に合わない。
俺は勢いのままにエリアを胸に抱え込みながら、剣を掲げる。必死の防御は成功した。エリアの首元を狙っていた骨断ち包丁は宵闇の剣で不格好ながらも防ぎきる。しかし、苦悶の声が漏れてしまう。
「くっ――!」
視線をずらせば、別方向から飛んできたらしきナイフが二本ほど俺の左手を貫いていた。脳裏を刺激する痛みとはまた別で、びりりとした奇妙な感覚はナイフにしっかりと毒が塗られていたからだろう。加護の影響もあってその効果を俺に及ぼすことはなかったが、思ってもいなかった攻撃で、宵闇の剣を掲げる右手から力が抜けてしまう。
結果、鍔迫り合いで押し込まれるような形になったのは必然だった。
「おいおいお、勇者サマよぉ。さっきまでの威勢はどこにいったんだァ?」
「……生憎と今は風邪気味でな。あんたを相手するんだったらこれぐらいで充分さ」
余裕を装って返答するが、冷や汗が頬に伝うのを止められなかった。
俺は胸の中にエリアを包み込むような、不安定な体勢だ。ほとんど上方向からぎちぎちと押し込まれる凶悪な刃は予想以上に重く、押し返すどころか少しずつ俺の喉元へ――胸元に収まるエリアへ近付いてくる。エリアが言葉にできない不安を表すかのように、ぎゅっと俺の服を握りしめた。
男はそんなエリアの様子を見て、ざらついた声で囁く。
「冗談言うワリには苦戦してるみたいだなァ。いっそ、勇者サマよお。その腕ん中で震えてるだけの役立たずな少女を見捨てちまったらどうだ? お荷物が減った方が勇者サマも戦いやすいだろお?」
そこまで男の口からおぞましい言葉が放たれた直後だった。これまで蚊帳の外にされていたエリアが、突如、不安の欠片もない毅然とした声で言い返した。
「ふん、妾を差し置いて言いたい放題して。――全開放」
宙に現れたのは、赤く光り輝く四本の矢。
無詠唱の二重魔法。
密かに脳内詠唱で詠唱を紡ぎ、奇襲の機会を伺っていたらしいエリアの策だ。
それらが加速し、俺と鍔迫り合いを繰り広げていた黒ローブの男へ殺到する。
「うおっ!?」
紙一重で男には避けられてしまったが、おかげで男が意識を逸らしたその隙に、俺はエリアを抱えて接戦からの離脱に成功した。ついでに左腕に刺さっていたナイフを引き抜いて止血してから、次こそ見失わないよう男の姿を視界へ収めながら、素早くエリアと会話を交わす。
「助かった、エリア」
「うぬ。妾こそ戦いの邪魔になってしまって、すまぬ」
「いや、問題ない。ただ奴の狙いはエリアのようだから気を付けてくれ。――それよりも、この霧なんだがエリアの魔法で何とかできないのか?」
「色々と試したのじゃが、無理そうであるの。どうやら既存の魔法ではなく、あの男の創造魔法みたいじゃ。魔法的操作を阻害する効果もあるらしく、術式解析魔法も上手く作用せぬ」
「なるほど……」
魔法のスペシャリストであるエリアが無理だと断言するのなら、霧を晴らすのは誰にも無理なのだろう。そこに疑う余地はなかった。
俺とエリアが小声で言葉を交わしていると、眼前の男がゆらりと身体を揺らしながら話し掛けてきた。
「殺し合いの場でお喋りかァ? 随分と余裕な態度だなァ」
「あんたこそ高貴気取りと侮っていた相手に一本取られて、悔しくはないのか?」
「冗談キツイぜ、兄弟。オレがその魔王サマに負けることはねえよ」
そこまで言った男は、俺からエリアへと視線を移し、にやりと口許を歪ませた。
「そうそう、高貴気取りの魔王サマよぉ。お前の父親、先代魔王を殺した犯人って知りたくねぇか?」
「……知っておるのか!」
「知ってるもなにも、お前の父親を殺したのは俺なのだからなァ」
「――!」
エリアが絶句する。
彼女の父親を巡る一連の流れは俺も知るところだ。
八年前、十一代目氷結の魔王クラディオは何者かに暗殺された。直前まで彼と酒を飲み交わしていた地霊族族長のファイドルに疑いが掛けられてしまったが、当時のエリアが魔王の座を継承すると同時に、ファイドルの冤罪を晴らしたらしい。しかし、混乱は収束に向かうことはなく、暗殺の疑いは白狐族の長に移ってしまい、様々な種族を巻き込んだ内戦に発展。魔王になったばかりのエリアが事態解決のために奔走したが、一連の騒動で多くの魔族が亡くなったらしい。しかし、結局のところ真犯人は今まで判明することがなかった。
だが、ここにきて犯人を自称する人物が現れた。エリアはしかと厳しい目で睨んでいる。
「懐かしいなァ。当時は歴代最強の魔王として、あの男は名を馳せていた。あいつを憎んでいた政敵が多くの暗殺者を送ったが、見事に全員返り討ち。魔族を殺しに殺しまくった先代勇者さえ、手も足も出ずに敗北。まさに最強の肩書を欲しいままにしていた。――だが、オレは暗殺に成功した。あの男は加護も何もないオレに殺されたんだぜェ? 簡単なモンだったよ。背後からこの包丁で首を刎ねてやった。今でも思い出す、あの輝かしい功績を。これでオレはもう小者と言われることはねえ。なあ、そうだろ? 若い魔王サマよお?」
「――おぬし!」
「挑発に乗るな、エリア!」
今にも飛び掛かりそうな勢いだったエリアを抑え込む。
「じゃ、じゃが! あの男は妾の父を殺したと言っておるのじゃぞ! 夢にまで見た仇を我慢しろと妾に諭すのか!?」
「そんなつもりはない。だが、激昂すればあいつの思うままだ。ここは俺に任せてくれ」
あいつの狙いはエリアなのだ。黒ローブ男が本当にエリアの父親を暗殺したほどの実力の持ち主なら、エリア特攻の策一つや二つ持ち合わせているかもしれない。
俺が真摯な瞳で訴えていると、男は大袈裟にやれやれと肩を竦める。
「そりゃないぜ勇者サマよ。復讐はそいつに与えられた権利だぜ? 誰にだって許された権利だ、誰しもが認める真理だ。信じられるのは心に巣食う憎悪だけ。オレが憎いんだろ? 殺してやりたいんだろ? なあ、我慢はもういいだろ? 憎しみのままに剣を振ってみせろよ、オレを殺してみせろよ、さあ!」
「妾は……」
「エリア、これだけは信じてくれ。復讐は何も残さないんだ……!」
ただただ後悔が募るだけで、何も残らなかった。道を踏み外した四年間の旅で俺は学んだ。もう二度と俺は憎しみを糧にして戦うことはないし、エリアが復讐の道に外れようとしても、必ず止める。俺だからこそ、止めなくてはならなかった。
その決意はエリアに伝わったようで、エリアは不満げな様子でしぶしぶながらも頷いた。もう男の煽りに心が揺れることはなくなったようだ。
だが、そんな心境の変化に男は気付かず、狂ったように独白続ける。
「憎くねぇのかァ? お前の親父を殺したのはオレだし、お前がありもしない濡れ衣で元老院に責め立てられたのもオレが原因だぜ。あのクソ族長に罪を擦り付けたのもオレだ。魔王の騎士や元老院に呪いを与えたのもオレだし、地霊族を唆してコズネスに攻めさせたのもオレだ。あの憎悪に沈む先代勇者を独房から助けてやり、元老院を唆したのももちろんオレだ。全てオレがやった、全ての憎しみはオレが元凶だ。なァ、勇者サマでもいいんだぜ? オレを憎め、オレを恨め、憎悪のままに殺しにこいよ!」
「なんだと……?」
男の虚言かもしれないが、様々な事実が判明する。
数年前の先代魔王暗殺事件の真犯人であったことに加えて、近日あった騒動の殆どにこの侵入者が関わっていたという。目的は推測にしか留まらないが、奴の狙いは、ファイドルが示唆したように、『憎しみ』のままに人族と魔族を争わせることだろうか。
問い詰めたい気持ちに身体が動きそうだったが、エリアに憎しみが全てではないと説いた手前、俺は強く自制する。ここで奴を捕まえれば全てわかることだ。
エリアは一歩前に出て、鋭い目付きで男に睨み返した。
「……残念じゃが、憎しみは真理に非ず。妾がそなたの言葉に心を動かされることはもうない」
きっぱりと断ったエリアに、男は心外とばかりに舌を打つ。
「チッ! 面白くねぇなあ。……もういい、お前らには失望した。お遊びはこれで終わりだ」
それだけを言い残すと、侵入者は二歩ほど後ろへ下がる。たった二歩だが、濃い霧が彼の姿を完全に隠した。隣にエリアがいるのだ、追いかけるような真似はしない。
発言からすると、男の攻撃はこれまでより激化すると予想できる。対して、俺はエリアを庇いながら戦う必要があるため不利だと考えられるかもしれないが――逆にエリアがいることで、戦術の幅が広がる。
「エリア、俺と一緒に戦えるか?」
「うぬ」
「なら、俺の攻撃に合わせてくれ」
「――うぬ!」
俺の言葉にしっかりと頷くエリア。どこに敵がいるかわからない現状、長々と作戦を伝えることはできない。聞かれてしまうかもしれないし、何よりそんな時間はなかった。
考えている作戦があれだけの言葉で伝わったとは思えないが、エリアなら俺の行動で何を狙っているか即座に見抜き、すかさずフォローしてくれるはずだ。俺の想定通りだと、亡き父クラディオの手記からきちんと得られるものを得ている。ならば、できるはずだ。
「水素召喚――」
まずは水素を生み出し、変形させる。霧の影響なのか、ごっそりと魔力が削られるが、これで決着させるつもりなので問題ない。敵に狙いを悟られないように、水素は左手の中に握り込む。
勝負は一瞬だ。
男が霧から現れた。
狙いはやはりエリアだった。視界には収まらないが、第六感的な知覚能力が俺に伝えてくれる。
「旋緋ッ!」
紅色に燃え上がった剣を携えて、即座に反転。そのまま横凪に振り抜いた。
男も剣技を発動していたようだ。迫る骨断ち包丁には赤黒いオーラが宿っていた。古代流派剣術とも違う、禍々しい暗黒色。確かエリアの騎士だったクルーガも似たような剣技を使っていた気がする。魔界の剣技なのか――?
そんな考えは身体を襲った衝撃で霧散される。
「くっ!?」
――重い。
ありえない重さだった。眼前の男は加護を持っていなかったはずだ。にも関わらず、交差する剣から伝わるのは、あの地霊族族長ファイドルにも匹敵するほどの圧。増強魔法程度の補助では説明できない重さ。
もちろん剣技は込めるイメージの強さで威力が変動するが、にしても限度がある。どれだけ想像豊かな子供でも大人に勝てるはずがない。加護の有無による隔絶はそういうものだ。
しかし、だからこそ不可解だった。
男の剣技は俺を越えていた。
力比べで押し負け、俺は片膝を地に付くまで追い詰められていた。ここで俺が増強魔法でも使用できれば結果は変わるだろうが、残念ながら俺にそんな芸当はできない。激しい戦闘中だと片手間で簡単な詠唱しかできないし、既に俺は水素を左手で握り込んでいる。ここで新しく別の魔法を紡ごうとすると、集中が乱れて魔法が暴発してしまうかもしれなかった。
結果、俺は何もできず押し込められる。
剣技の輝きは途絶えてない。赤と黒のスパークが入り交じり、轟音を伴った衝撃波が広がる。
どこからそんな力が湧き出しているのか、推し量るべく俺は相手の姿を注視する。
その時、予想外のことが起きた。
黒いオーラを纏っていた敵の武器本体から、どろりと何かが滲み出る。刀身と同じ赤黒い油――いや、血のように見える。
俺がそれを認識すると同時に、男の背後に数体の影が現れた。新たな敵か、と身構えたのだが、影はゆらゆらと朧気で実態を持たないようだ。
――助けて……!
――痛いよ、いたいよぉ……
――呪ってやる、絶対に!
影が呟いている声にならない声を、不思議と理解できた。ある光景が脳裏にフラッシュバックする。女神が俺に見せた悪夢の中で、俺は滅ぼされた故郷の隣人たちから『死にたくない』『どうして』『なぜお前が生きている』と同じように罵られたものだ。この状況はあの時と酷く似通っていた。
だが、あの時と明らかに違った。
影に実態はないのだが、その視線は俺へではなく眼前の黒ローブ男へ向いているように感じる。まさか彼らはこの男がこれまで殺してきた被害者なのか……? そして、ずっと男に向かって憎しみの呪詛を繰り返し続けている。直感的に、しかし、そう確信できた。
「――あんたには見えてないのか? この死者の呪詛が。あんたを憎む声が!」
「あァ? へぇ、勇者サマにもこの声が聞こえるんだな。なら、わかるだろう? 憎しみだけが信じられる。憎しみだけが世界の理を越えて伝わる本当の感情だ。愛だの友情だの嘘っぱちなものはいらねェ。オレが殺した奴らはみんなオレを憎んでくれる。憎しみだけがオレを強くしてくれる」
狂ってる――!
憎しみの連鎖は終わらなかった。
骨断ち包丁の刀身から滲み出た血が地面へ滴り落ち、赤黒い血溜まりを広く形成する。中から数え切れないほどの無数の人影が出現し、呪詛がより一層強まっていく。死者の手が男の身体へ伸ばされ絡みつき、しかし、男は飄々とした笑みを絶やさない。それどころか憎しみの声が強まる度に、連動するように少しずつ男の腕力も強くなっていた。
まさか本当に彼らの憎しみが、男に力を与えているのか。
イメージ、つまり意思が剣技の強さを左右するこの世界だ。普通だと他人の悪感情が悪い作用を及ぼすことは感覚的にあるかもしれないが、逆に憎しみが力に変換されることなんてあるのか?
そもそもの話で、他人の意思が他人の行動に左右するものなのか?
あるいは本当に憎しみだけが本当の感情なのか……?
どろりとした悪い思考が脳を支配していく、その様が感じられる。しかし、なぜか抗うことができなかった。飲まれ、支配され、侵食されていく。身体が四肢の先端から冷たくなり、気力が奪われていく。
男の言葉に屈しようとする時だった。
背中に小さな温かさが流れ込む。
「妾はエイジを信じておる! それだけは本当じゃ!」
エリアがその掌で俺の背中を押してくれたのだ。
渦巻く憎しみの中に、一筋の燐光が混ざった。優しい光は存在を主張するようにひらひらと舞ってから、俺の身体へ融け込んだ。
増強魔法だ。
こわばっていた身体が温かい血の流れを取り戻し、湧き出る力を実感できる。
「おお、おおおおォッ――!」
獣の咆哮の如く裂帛なる気合と共に、力を振り絞る。剣技が発動している宵闇の剣に神々しい炎が灯り、その光で憎しみの連鎖を消し飛ばす。血溜まりも呪詛を紡ぎ続ける死者たちも優しい光で染め上げた。
せめぎ合っていた両者の力関係が逆転し、じりじりと俺は敵の骨断ち包丁を押し返すことに成功していた。
「くそっ」
男が悪態を付いた瞬間、腕に掛かっていた圧力が急に抜ける。
男が剣技を中断したのだ。もちろん直後に身体が動かなくなる隙が発生するはず。だが、男は俺の剣技の威力を逆に利用し、衝撃のまま大きく後ろに飛ばされた。やはりすぐにその姿は霧に覆い隠される。
「逃がさない!」
まだ気配は消えていない。
咄嗟に俺も剣技を中断する。代償として発生する身体全体に掛かる負荷。追撃に移ることは不可能だが、それに何とかして抵抗して、左手だけ動かす。事前に準備していた術式を解放し、握っていた水素を細長い形状――鞭に変換。手首を巧みに捻り、男が消えた先に延ばす。
「うおっ!?」
霧の奥から吃驚の声が届く。
確かな手応えを感じるや否や、俺は叫んだ。
「――エリア!」
「わかっておる! ――全開放!」
ヒュオゥ、と戦場に冷たい突風が響いた。
水の鞭が刹那の間に凍り付く。
万物を凍らせる創造魔法、氷結魔法。エリアの父親である氷結の魔王クラディオが得意としていたらしい魔法である。しっかりとあの手記からエリアは再現に至っていたようだ。
避けることはできなかっただろう。
俺は確実に水の鞭で奴の身体を巻き付けた。水の鞭でさえ一瞬にして凍る威力なのである、あの黒ローブ男は何が起こったのか理解できるよりも早く、伝った冷気で氷の棺に閉じ込められたことだろう。
が、油断はしない。
俺はエリアと頷きを交わすと、宵闇の剣を引き抜いたまま歩み寄る。
この霧には不可思議な能力があるのだ。単純に視覚情報が制限されるだけでなく、魔法の魔力効率が減衰したり、そもそも魔法で吹き飛ばせなかったり、気配の知覚範囲が狭まったり、色々と不利な状況を生み出している。まだ何か奥の手があるかもしれない。エリアの氷結魔法はたぶんだが相手の動きを封じるだけで、脳内詠唱による魔法の反撃までは封じることができないはずだ。用心するに越したことはなかった。
ゆっくりと凍った鞭を伝い先へ歩いていくと。霧の中から人影が見えてきた。
魔力の乱れは感じられない。魔法による反撃はあまり心配しなくていいようだ。
宵闇の剣だけは納刀せずに、触れ合える位置まで近寄る。
しっかりと氷像ができていた。足元の爪先からローブの裾まで細部まで形が見て取れる。
しかし――
「……どういうことだ?」
「逃げられたの」
俺が氷像に触れると、その部分だけボロボロと崩れ落ちた。氷像の内部はがらんどうの空洞だった。否が応でも逃げられたという事実が突き付けられる。
追い打ちを掛けるように、どこからか声が響いた。
――また会おうぜ、英雄サマよォ
それだけだった。五感に集中するが、次はもう全く気配を感じることはない。既に奴は去ったのだと感覚的に理解した。男が魔法を解除したからだろうか、視界を塞いでいた濃霧が嘘のように薄れ融け消えていく。周囲の様子がはっきりと見えるようになったが、やはり、何者の影も形もなかった。色とりどりの花が咲き乱れる庭園、いたって平和そのものだ。
「くそっ!」
逃がしてしまった。しかし、俺は諦めずに周囲の観察を続ける。男の姿を見付けられなくても、何かその痕跡を発見できるだけでもいい。俺は一つの可能性を考えていた。男が生み出した正体不明の濃霧。魔法の専門家であるエリアでさえ晴らすことができず、俺の気配察知すら妨害するそれは、もしかしたら古代の遺物によるものではないかと思ったのだ。現代の技術では再現できない失われた魔法が数あるというし、その線はありえるかもしれない。だとすると、濃霧の発生源となった遺物がどこかにあってもおかしくない。
俺の推測は部分的に合っていたのかもしれない。
視界の端できらり、と月光を反射したものがあった。俺は少し歩いて屈むと、雪の上からそれを拾い上げた。
見せてきたのは、小さい宝石のような紫色の物体。月明りを乱反射してきらきらと輝いているように見える。見ているぶんにはただの宝石にしか見えないが、掌越しに感じる僅かな魔力の波動を鑑みると、魔石のようだ。色が濃いことに加えて透き通っているため高純度の魔石だと予想できるが、しかし、ここまでの極小サイズだと小型系の魔物だとしても採れないはずだ。だとすれば、これは誰かの手によって削られたのか、それとも……想像通りこれ自体が古代の遺物であるか。だが、いまある情報だけではこの物体が何かを判断することはできなかった。
はあ、と息を吐いた。隣で俺の掌中の物体を眺めていたエリアに、俺は謝る。
「すまない、エリア。任せてくれたのに取り逃がしてしまった。収穫は謎の物体、これだけだ」
やるせない気持ちの俺にリアは優しい言葉をくれた。
「落ち込む必要はないぞ。あの場で捕縛できなかったのは妾の魔法であるからの。それに……」
「それに?」
「……まあよい。ひとまずエイジのおかげで危機は脱した。それでよいじゃろ?」
エリアは俺の目を見て、ふわりと微笑んだ。そこに先ほどまでの恐怖や絶望は感じられなかった。
「そうだな。――よし、寒くなってきたし、とりあえず戻るか」
彼女ははっきり頷いた。
冷たい空気がエリアの長い髪を揺らした。既に冬は到来している。
光を否定する存在。真理は決して晴れぬ心の濁流。覆え煙霧濛濛の無窮牢。絶念の霧。




