71 違和感と正体5080
「遅くなった、エリア」
俺が言うと、彼女は静かに頷いた。涙を堪えているかのような酷い顔だが、不格好ながら笑いかけ俺を安心させてくれた。その笑みの裏に、どれほどの恐怖と絶望を押し殺していたのかを思うと、胸の奥が鈍く締め付けられる。
俺は彼女の両手首を拘束している鎖に触れた。冷たい金属の感触が、今なおこの場に漂う敵意を象徴しているかのようだった。先ほどのシャンデリアを支えていた鎖と同じ謎の破壊不能物質だと厄介だったのだが、どうやら魔力を吸収する性質があるだけだそうで、あまり硬そうな印象はなかった。
宵闇の剣を鎖に押し当てて、エリアの肌まで傷を付けないよう、張り詰めた神経で注力する。ピシッ、と音を立てて、だらりと鎖が解けた。同じように足首の鎖も外し、エリアを拘束から解放した。
いつもならば白磁のような肌は、鎖に圧迫されていたからか青白く変色している。心がちくりと痛んだ。
――間に合ってよかった。
それにしても、俺があの瞬間に間へ割って入らなければ、本当にエリアは殺されていた。剣を構えていた魔族の青年、あれは演技でも虚勢でもなかった。彼からは、決死の覚悟が感じられて、これが茶番ではないことを俺に突き付けていた。だからこそ、その背中を蹴飛ばしたのは当然の行為であったと信じている。結果的に、俺が割り込んだことで熱狂していた雰囲気を少なからず覚ますことに成功したようだ。
俺はエリアを庇うようにして立ち上がると、キッと近くにいた女の一人を睨み付けた。深い紺色のローブに金色のブローチ。かつてエリアから聞いていた元老院の特徴に該当している。
その女性はぶつぶつと何やら呟き、俺に負けじと俺を睨み返していた。
「灰色の髪に尖っていない耳。決定打は魔族にはあるはずの赤い瞳ではない。……貴方が勇者エイジですね!?」
「お前らが言っている勇者とは俺のことだろう」
「やはりエリア様は魔王城に勇者を招き入れていた。我らの同胞を数多く殺したのにも関わらず。絶対にそれは許されないことです」
「勘違いするな。俺は確かに勇者だった、それは否定しない。自分でも数え切れないほどの魔族を殺してしまったことについては心から謝る。だが、今の俺はもう勇者じゃない、エリアの騎士だ。世界平和という彼女の夢に賛同し、彼女のために戦う。もう貴女たちの生活を脅かす存在ではない」
俺は丁寧に真摯に説明する。女性以外の元老院四人は黙って俺と女性の会話の成り行きを見ているだけだった。
「とてもですが、信じられません。何かその証明をすることはできますか?」
その言葉に怒気が孕まれているわりには、女性は論理的な思考で話しているようだった。事実を順序立てて説明すれば、理解を示してくれるかもしれない。俺は唇を舌で濡らし、剣を鞘に納めて敵意はないと表すと、ゆっくりと答える。
「……俺は女神から加護を与えられていた。勇者の加護だ。しかし、エリアに説得されて彼女と行動を共にしたことで、怒った女神に加護を奪われたんだ。そこで俺は魔王城の地下に出向き、そこにいた過去の魔王に代わりとなる加護を貰ったんだ」
その時、くくっ、とどこかで笑い声が聞こえたような気がして、俺はぐるりと見渡した。幻聴だったらしい。女性が疑いの目で俺を見る。
「その話を信じろと言うのですか?」
「事実なんだから仕方がない」
「確かに魔王城には歴代魔王の魂が眠っているとの伝説があります。それが事実ならば、貴方に加護を与えた魔王は誰なのですか?」
「原初の魔王ヴェルゼだ」
俺が答えると、女性は叫んだ。
「あり得ない!」
呆気に取られた俺は、小さな声でエリアに囁き問い掛けた。
「どういうことだ?」
「前例がないのじゃ。記録が残っておる数百年で魔王ヴェルゼの加護を持つ者が現れたのは一度もない。通説ではそもそも原初の魔王は存在しておらぬとか、存在しているが誰にも加護を与えたくない偏屈な性格の持ち主であるとか、色々言われておる。とにかく、前例がないのであるゆえ、エイジでなければ妾でも信じられぬであろうよ」
「証明することはできるか?」
「無理じゃの。前提の話じゃが、加護の有無自体も証明できぬであろう? 冒険者ギルドが持つ魔力計測の遺物のようなものはあらぬし、まして加護が原初の魔王から直々にとは絶対に不可能じゃ。大抵の場合は自己申告制で、それに見合った能力が授けられていれば信じられるといった具合かの」
「万事休すか……」
いかがしたものか、と俺は頬を掻いた。本当のことなのに、それを証明する手立てがなければどうしようもない。俺が頭を悩ませていると、俺とエリアの会話を聞いていたらしい女性が、話題を変えるように言う。
「平行線を辿るのは好ましくありません。では、別の容疑に移りましょう。アスカラン地下牢獄から六代目勇者レジス・ヘルビトスを脱獄させた件はどのように説明するつもりですか」
「……何のことだ?」
よくわかってない俺の言葉に答えたのは、ゆっくりと立ち上がったエリアだった。
「二代目聡明の魔王アンネローゼが作り上げたという脱獄不可能な監獄、アスカラン地下牢獄から六代目勇者レジス・ヘルビトスの姿が消えたというのじゃ。彼のことは知っておろう?」
「名前ぐらいなら」
「六代目というように、そなたの先代の勇者である。彼は比べ物にならぬほどの魔族を虐殺し、最終的に妾の父親クラディオが捕らえて地下牢獄に閉じ込められた。アスカラン地下牢獄は何重にも施された封印と結界で外部からの干渉すら受け付けないほど脱獄の阻止を徹底した監獄じゃ。そこからレジス・ヘルビトスを牢抜けさせたと妾たちは疑われておる。……そもそも妾はその疑い自体を疑ってもおる。アスカラン地下牢獄は外部から中の様子を窺うこともできぬはずじゃ。どのようにして彼が脱獄したと判明したのであろうか」
「なるほどな……。まあ、俺はそもそもそんな監獄があったことさえ知らなかったし、エリアも関わってなかったんだろ? じゃあ、これに関して俺たちは潔白なはずだ。どうなんだ?」
俺に問われた女性は半信半疑といった様子で暫く俺とエリアの顔を交互に見ていたが、やがて溜息を小さく吐いた。その肩の動きに、ほんのわずかだが疑念が抜けていく気配が見て取れた。
「どうやら嘘を付いている訳ではないようですね。これでも人を見る目だけはあると自負していますから」
「じゃあ、俺たちは潔白ということでいいんだな?」
「そうですね。しかし、加護の件についてはまだ終わっていません。その証明がしたければ、後ほど私の元まで参りなさい。初代原初の魔王ヴェルゼが加護を与えたというのは前例のないことですから、……もし真実ならば私の研究も進みます」
「公私混同じゃないか?」
「事実だと判明すれば、貴方が魔族を害する存在ではないということも証明できますが」
俺は素直に頷いた。俺が原初の魔王ヴェルゼから加護を貰ったのは事実であるし、その要求を突っぱねる必要は感じられない。それに俺が彼らに認められれば、世界平和という計画に協力してくれるかもしれない。
女性は俺から視線を外すと、エリアに向かい合って深々と頭を下げた。
「エリア様もあらぬ疑いを掛けてしまい、あろうことか処刑するまでになり申し訳ございませんでした。非礼を詫びる上で申し上げますが、我ら元老院をお許しください。悪いことのタイミングが重なったようで、またエリア様が一カ月以上も魔王城を不在にしたことも悪かったのだと自覚してください。それでは、ここらで――」
そうして話が纏まりかけていた時だった。鋭い声が場を乱す。
「そんなはずない! 証言した奴がいるんです! 六代目勇者レジスを引き連れた魔王様が地下牢獄から出てきたと!」
「フィゼア?」
女性が彼の名前を呼んだ。
どうやらフィゼアというらしい、エリアの首を長剣で刈り落とさんとしていた青年が、喚き立てる。どこか苦しそうな顔をしていた。俺が怪訝に彼を見ていると、別の方向からも声が響いた。
「そうです! そもそも元勇者をこの城に引き入れたのは事実ではないですか! 今がどうであれ、私たちの同胞を数多く殺したのは変わりない。罰を受けるのが当然です! 彼を野放しにしていると被害者が増えるかもしれない。エリア嬢も同罪ですよ! 貴女がレジスを解放したという証言は裏も取れているのですからね!」
顔は歪み、怒りと、そして苦悩が混在していた。その叫びが火種となり、場は一気に再燃する。別の方向からも声が上がる。次第にそれは、怒号へと変わっていった。
空気が濁る。
誰もが俺たちを責め、誰もが正義を叫び、だが誰ひとり理性を保っていなかった。俺たちを囲む空間が、得体の知れない悪意で満たされていくのを肌が感じていた。
「…………」
どうなっている、その言葉は声にならなかった。
支離滅裂で、全く話に統一性がなかった。エリアが反論しようとすると、また別の人物が言葉を被せる。声が飛び交う中、場の温度が急激に下がったような錯覚に襲われた。誰かが口を開くたびに空気は荒み、議論ではなく責め合いへと変貌していく。理性の仮面が剥がれ、憎しみと疑念だけが輪郭を持って迫ってくる。目の前で起きていることが現実とは思えなかった。
狂ったように俺たちを糾弾する彼らに、女性も困惑していた。
目の焦点が定まらず、意味をなさない言葉を繰り返すその様子に、かすかな既視感を覚える。
何かがおかしい、と違和感だけが心の中で膨れ上がっていく。
俺がその違和感の正体を掴みかけた時、重厚で頼りになる声が響いた。
「おい、小僧」
ファイドルだ。俺の後にこの広間へ入ってきてから、この時まで静観し続けていたのだろう。俺は彼の存在を完全に忘れていた。彼は確認するようにゆっくりと言う。
「小僧。この状況はあの時と酷く似ている。俺がエリア嬢ちゃんの父親を殺したと糾弾されていた時と。……これこそ小僧が言っていた呪いとやらじゃないのか?」
「呪いだと?」
ファイドルが出した単語が、場の雰囲気を一変させた。時間が止まったように、全員の視線がファイドルと、そして俺に集まる。
呪い。その単語に、俺の脳裏に鮮明な記憶が蘇る。
エリアの騎士クルーガ、彼を支配していた意思を奪う不可視の鎖。そのせいで仕えるべき主人だったエリアを裏切るしかなかった。それは確か説明だと、呪いを掛けた主に背こうとすると、自我が奪われるものだったはずだ。
ファイドルが俺に伝えようとしているのは、元老院がその呪いを掛けられている可能性だろう。
素早く俺は視線を走らせる。俺たちを糾弾していた元老院は、よくわからない表情をしていた。怒り、恐れ、失望――そのどれでもあり、どれでもないような感情が渦巻いている。全員が何かを恐れていて、ただの自己防衛にしか見えない。俺が無言の圧を発すると、彼らは言葉を失い、視線を逸らした者は居心地悪そうに身じろぎする。何かを隠しているのは確実だ。
そして彼らが左手だけに白い手袋をしていたのが、俺の違和感を確信に変えた。
俺は黙ったままつかつかと元老院の男性一人の前まで移動する。
男性が青ざめた顔で後退りする。
「お前ぇ――」
「――おい、これは何だ?」
男性の左手を掴み、手袋を外した。紫色にぼんやりと発光している不気味な紋様が現れる。呪いに支配されていたクルーガと同じようなものだ。
「呪い、か?」
俺の問い掛けに彼は押し黙った、図星である。
やはりこれが呪いということか。しかし、クルーガのように彼らが自我を喪失して襲ってこないということは、彼らはまだ呪いの主に逆らっていないということだ。状況から判断すると、恐らく命令はエリアの処刑かあるいは俺たちの断罪といったところか。元老院男女五名の中で白い手袋をしていなかったのは、俺たちの釈明を聞いて納得してくれた女性だけである。逆にそれは他の元老院四名は呪いを既に掛けられており、魔界の最高行政機関は敵勢力の手に落ちていたということだ。かなり危ない状況である。味方が周りにいない。
だが、同時にチャンスでもあった。状況に沿った命令を下せるというならば、呪いの主は今もなお近くに潜んで俺たちの様子を見ている可能性がある。その場を取り押さえることができれば……
そこまで考えた瞬間。
背中側に視線を感じた。




