70 高貴なる被告人6324
――どうしてこんなことに。
エリアの胸中はその疑問に埋め尽くされていた。魔力の制限がなければ何重でも魔法を展開できるほどの演算処理能力に優れた彼女の頭脳であるが、今ばかりは現実の認識すら覚束ない。
エリアをぐるりと囲むように男女五名の姿があった。最高位の地位にあることを示す紺色のローブに、その首元には金色に輝くブローチが等しく付けられている。
元老院、魔王を補助するための権力機関であるためである。魔界では魔族を統べる魔王に司法立法行政の全ての権利が集中しているが、流石に魔王ただ一人に全ての業務を任せることはできない。元老院は魔王に代わって舞い込む大量の業務を次々と処理し、民の生活を不具合がないよう裏から支えている機関である。彼らのお陰で事務仕事が苦手だった歴代魔王の代でも、魔界に主だった混乱が起こることはなかった。逆に言えば、魔王が不在の際でも彼らさえいれば、数ヵ月程度で魔界がどうこうなるようなことはない。
ゆえに、十二代目霹靂の魔王エリアは彼らに多大なる感謝をしている。急に魔王城を跳び出してから一カ月以上、エリアの業務を彼らが肩代わりしてくれたはずだ。行き先を告げなかったのは本当に申し訳なく思っていたと同時に、彼らがいてくれたために気兼ねなく旅ができたのも事実である。
しかし、彼ら五人はいまエリアを囲むように立っていた。エリアを正面から見下ろしている青年の表情は、何かを恐れているのか青ざめているようにも見え、何を考えているのかよくわからない。とはいえ、これから起こることは悪いことだと不思議と直感した。
――どうしてこんなことに。
再度、心中で問わざるを得ない。エリアはどうしてこうなったのか直前の過去に考えを巡らす。
転移魔法が封印された魔石を使用して、エイジとファイドルを連れて魔王城まで帰還したのが今からちょうど一週間前のことだ。本来の予定ならば、アルベルト騎士団総長オリバーが来て欲しいと言っていた騎士団本部が位置するルベルク共和国首都ヴァルナへ向かう予定だったのだが、予想外の事態で頓挫してしまう。彼に与えていた勇者の加護を女神がエイジから奪ったのだ。大幅な弱体化した彼を前にして、ファイドルはエリアの父であり先代魔王だったクラディオが残した奇妙な伝承を思い出した。いわく、魔王城の地下深くに歴代魔王が再臨している場所があるという。神という存在が現実である世界である、実際にそのような場所があってもおかしくない、そう合意し、エイジは過去の魔王から加護を貰うために一人で地下へ向かった。
それから一週間。まだ彼は帰ってきておらず、音沙汰もなかった。
心配で心配で、後を追おうかと何度考えたことか。しかし、信じて待つと決意して見送ったのはエリア自身であるし、地下世界とここ地上では時間の流れが異なるのではないかという可能性可能性はもとよりファイドルから聞いていた話だ。歯痒い気持ちを押し殺し、エリアは自分がすべきことに集中した。
彼女の父であり先代魔王であったクラディオがエリアに残した手記、そこには彼の強みであった氷結魔法について書かれていた。ありがたいことに仕組みから術式までわかりやすく丁寧に綴られていたのだが、残念ながら一朝一夕では習得できないような難しいものだった。エリア自身も八重魔法といった誰にも成し得なかった高みに到達したり、数々の創造魔法を開発したりと、誰よりも魔法に対する技術と観察眼には優れていると自負していたのだが、氷結魔法に関してはその限りではなかったのである。温度というものが物質が持つ小さな小さな粒と粒の摩擦のことだとか、よくわからない新たな理論から学ばなければならなかったり、絶対零度とか想像もできない概念を理解するのは、流石にエリアでも難しかったのである。ちょうどエイジが帰ってくるまで手持ち無沙汰だったエリアは、彼の帰還までに氷結魔法を習得するのが目標となった。
霹靂の魔王エリアはその名の通り、八重魔法で解放した加速力が武器であった。しかし、魔力の形質変換と共に最大魔力量が激減したいま、以前とは違って剣術の腕を磨いたとしても、以前の自分よりも三重魔法しか使えない現在の自分が弱いのは自明であった。だからこそ、新たな武器として氷結魔法はいいものに考えられた。
エイジが地下世界から戻ってきた時には必ず、彼は加護を取り戻していることだろう。まだ関係は一カ月と少し程度しかないが、彼が目的を投げ出して帰ってくることはないと確信できるほどには、エイジに全幅の信頼を置いていた。ならば、そんな彼の隣で戦い続けることができるように、エリアも新たな武器を手に入れなければならない。
その想いを理解しているからか、地下世界から先に一人戻ってきた地霊族族長ファイドルは、エリアが息抜きする時に、彼女に古代流派剣術の実践的な手解きをしてくれたものだ。剣を交えるのにこの執務室は狭すぎたが、おかげで、剣術の方は経験が必要になるものは除いて上級冒険者に匹敵するほどとなって、また氷結魔法の再現も実践で求められるレベルに達した。
そんな矢先のことだったのだ。エリアの執務室のドアが外から激しく叩かれたのは。
ちょうどファイドルがその場にいなかったのが悔やまれることだ。
「エリア魔王様、いるんでしょう! 出てきてください!」
はて、と首を傾げたのは当然である。
エリアは一カ月以上前に魔王城から飛び出して以降、行方知らずという体である。帰ってきたという話が漏れれば、元老院に追求されるのは目に見えているし、エイジを連れて帰ってきたということはもっと明らかになってはいけない。残念ながら今の彼がどのようなものであれ、彼は勇者として数多くの魔族を殺してきたという事実は変えようがないのだから。
そのため、エリアは誰にも帰還を気付かれないようにそのまま執務室へ転移してきたし、夜の闇に隠れて彼を庭園へ送り届けたのだ。同じような理由でエリアの存在も悟られぬよう、カーテンで窓は完全に閉め切り、極力外出は控え、他の部屋に用がある時は巡回が少ない夜中を密かに行動していたわけだ。
もちろん、ここ執務室へ入るための鍵はリアしか所持していないため、この部屋に籠ってさえいれば、誰にも存在を悟られることはない。
ということで、元老院がエリアの帰還を知る由はなかったはずだ。それなのにも関わらず、元老院の一人だと思われる声が、ドアの外で名前を呼んでいた。そこに魔王がいると知っているかのように。
面倒なことになった、とエリアは嘆息した。しかしながら、既にエリアの存在に気付かれている以上、無視するわけにもいかない。エリアは読んでいた父直筆の手記を収納魔法へ落とすと、扉の鍵を開けるために立ち上がった。それが失敗だったのかもしれない。
開錠したドアを開けると、廊下には元老院の数人が待ち構えていた。彼らは、エリアが本当にいると確信はしていなかったのか、まず驚いた顔を見せて、次になぜか悲しそうな顔をして言った。
「……申し訳ございません。拘束させていただきます」
「うぬ?」
言葉の意味を理解するよりも早く、エリアは拘束された。抵抗する暇なく手首と足首を鎖で繋がれ、呆然としていると魔王の間に連行されて、押し倒された。
やはり回想しても、どうしてこうなったのか答えが見付からない。
元老院男女五名がエリアを取り囲み、冷ややかな目で見下している。
手首に食い込んだ鎖が痛かった。二代目聡明の魔王アンネローゼの発明品である。触れている相手の魔力を強制的に吸収し、魔法の行使を妨害するものだ。エリアの創造魔法である鎖状の拘束魔法はここから着想を得たものであるが、しかしこれは本物であった。身体から絶えず魔力が吸われている感覚があり、魔法を発動しようとしても紡いだ術式は簡単に崩される。強度はもちろん頑丈で、引き千切ろうとしても手応えは全くない。一番の武器である魔法を封じるのは、それで十分だった。
冷たい床でもぞもぞと身体を動かし、エリアは頭をもたげた。
エリアの周囲には元老院の男女五名全員が立ち並び、厳しい目を向けていた。
「そなたら、これは何の真似じゃ。妾を拘束するとは冗談では済まされぬぞ」
怒気を纏ったエリアの声に対して、元老院の一人が歩み出た。六十を超える男性である。彼は元老院の中で最高齢のメンバーであり、エリアが魔王の座を引き継いだ幼い頃に何度も補佐してくれた優しい人物だ。そんな彼はただただ悲痛といった表情で答える。
「エリア様、手荒な真似をしてしまいお詫び申し上げます。……ですが、わかって欲しいのです。これは仕方なかったことだと」
「――アイゼン!」
アイゼン、と呼ばれた彼はそれ以上何も言わず黙り込み、代わりに隣の若い女性が口を開く。きっちりとローブを着込み、黒い短髪とモノクルが印象的な女性だ。
「貴方様には二つの疑いが掛けられています」
「……疑いじゃと?」
「七代目勇者エイジと行動を共にし、あろうことか魔王城に引き入れたという疑いです」
「な……」
まさか既に発覚していたなんて。彼を引き入れたのは夜中で、そのまま彼は地下世界へ向かった。その際に哨戒と出くわさないよう細心の注意を払っていたはずだ。しかし、どこからかその姿を見られていたというのか。
「勇者エイジは数多くの村を滅ぼし、各地に被害と混乱を齎しました。彼はその危険度から魔界全体で指名手配され、見付かり次第魔王直属騎士団が討伐する予定でした。しかし、それを知るはずの我らの魔王であるエリア様は彼と同行し、よりによって魔王城へ自ら招き入れたそうですね。もちろん目撃証言は上がっています。弁明があるようでしたらどうぞ」
「それは…………」
エリアを見下す女性は、厳しく唇を引き結んだ。
エリアは言い返すことができない。女性が言っていることは確かな事実であることだから。しかし、エイジから直にその悩みを打ち明けることは少なかったが、彼自身が今まで行ってきた全ての所業に激しく後悔していることを知っている。エリアがあの教会で勇者の説得を試みたのは、目の奥に救いの手を切望する色が見えたからである。そうでなければエリアも邂逅と同時の討伐を躊躇わなかった。
今のエイジは勇者だった頃と異なり、危険度は全くない。それどころか彼は世界平和というエリアの夢を全力で協力するというのだ。ゆえに元老院の彼らが危惧するようなことは起こるはずないのだが、それを伝えても信じられるはずがないだろうし、相対するこの女性は事実がどうであろうと言い分を突っぱねると思われる。二十半ばの女性、カシムはエリアが苦手な人物である。彼女は几帳面でルールに厳しく、エリアが行う政策によく口出ししてきた現実主義者なのである。とはいえ、その持ち前の厳しさのおかげで理想の政策が現実となったり、元老院を纏めることができたりしているのだから、苦手かどうかは関係なく感謝はしている。ただ現在の状況では、エリアはエイジをどれだけ庇い立てる言い訳しても、言語道断と退けるだろう。
勇者なんてそもそもいなかった、と嘘を付くのは簡単である。だが、それはエリアの誇りが許さない。父親も魔王だとか祖先が初代魔王だとか高貴な血筋のことではなく、エリアは何事にも誠実であれと自分に言い聞かせてきた。事実を嘘で塗り固めることだけはしたくなかった。
結局、エリアは何も言い返せなかった。
「弁明がないということは、罪を認めるのですね。いいでしょう。――加えて、貴女様に掛けられたもう一つの容疑は、先代勇者を解放したことです」
エイジを魔王城へ引き入れたことに関しては、何も言い返せない。だが、次の発言については何の心当たりもなかった。
「……何のことじゃ?」
「魔王城の地下にあるアスカラン地下牢獄、そこに囚われていた六代目勇者レジス・ヘルビトスの脱獄を手助けしたという容疑です」
「なっ! 知らぬぞ、妾は!」
必死に主張する。アスカラン地下牢獄はかつて二代目聡明の魔王アンネローゼが造った独房群である。囚人の脱獄を絶対に許さない頑強な構造は素晴らしいものだが、残念ながら非人道的な性質のせいで、今まで二人の罪人しか収容されていない。その片割れである世紀の冒涜者が、六代目勇者レジス・ヘルビトスである。彼は勇者エイジが可愛く思えるほど多くの魔族を殺し、エリアの父クラディオが捕獲するまで魔界中を悪夢に陥れた。その罪深さからアスカラン地下牢獄に拘禁された。
そんな彼をエリアが解放したという容疑は彼女にとって甚だ心外で、そもそもレジス・ヘルビトスがアスカラン地下牢獄から脱獄したなんて信じられなかった。外からの干渉を絶対に受け付けないあれの堅牢さはエリアも知っている。もし牢抜けが本当ならば、逆にエリアがその方法を知りたいほどだった。
しかし、無関係である彼女の主張は現実主義者カシムの前では意味を成さない。
「言い逃れですか? 巡回中だった衛兵が先代勇者を連れ歩く貴女様を見たと証言しています。地下牢獄も確認されたそうですが、捉えられていた罪人の反応が消えていたようで、脱獄の裏付けも取れています。今代の勇者と先代勇者を揃えて、何をしでかそうと企んでいるのですか! 話しなさい!」
「妾は知らぬと! そもそも、妾はここ一週間は執務室からほとんど出ておらぬ。アスカラン地下牢獄に近付くこともなく、先代勇者が脱獄したなんてことは初耳で――」
「――取り押さえろ」
冷たい声が聞こえると同時に、後ろで拘束された両手を掴み引かれ、背中を体重が乗った足で押し付けられる。がっ、と肺から空気が全て押し出され、息をするにしても苦しく、喋るなんて以ての外であった。
「これ以上私に見苦しい姿を見せないでください。エリア様は昔から誠実で高潔な方で尊敬に値しました。しかし、言い訳ばかり連ねる今の姿は見るに堪えません。耳を貸す価値なんてない。フィゼア、処刑しなさい」
「は!」
フィゼアと呼ばれた青年が鞘から長剣をすらりと引き出し、天高く振り上げたのが見なくてもわかる。以前は気配を捉えるなんて上手くできなかったのに、エイジとファイドルによる一カ月あまりの指導により、五メル範囲のことなら全て把握できるようになった。察知した気配は、フィゼアと呼ばれた青年が本気で剣を振り下ろさんとしていると告げている。
まずい、どうにかして危機を脱っさなければ……と四肢に力を入れて振り解こうとするが意味がなく、より背中に乗せられた足へ体重を乗せられ苦しくなるばかりである。魔法を紡ごうとしても、魔力は全て鎖に吸収されてしまう。
抵抗虚しく、フィゼアが呟いた。
「……すみません、魔王様。家族のためなんです」
紅玉の瞳から涙が落ちた。
最期に、と彼の顔を脳裏に思い浮かべた。
白銀の長剣が振り下ろされる。
「――ぁ」
それは誰の声だったのだろう。
甲高い金属音が耳を穿つ。
「お前は!?」
元老院の一人が叫んだ。
身体が軽くなり、前方へ倒れそうになったエリアの身体を、支えたのは一本の手だった。
顔の向きを変えて見上げると、まさしくいま思い浮かべていた彼の顔がそこにあった。
「――エイジ!」
「遅くなった、エリア」




