66 四代目明滅の魔王アラマサ4349
「さて――話が逸れたな。次に会わせるのは、戦闘に特化した魔王だ」
ヴェルゼが静かに視線を前方へ向ける。その一言が、場の空気を変える合図になった。
すう、と息を呑む音が自分の中に響いた。
戦闘に特化した魔王、願ってもない相手だった。確かに俺は加護を取り戻すことができたが、実際にその能力をまだ試していない。身体が以前のように動くのか不安だった。
四肢に行き渡る力を確認していると、ヴェゼルは静かに言う。
「加護を取り戻したばかりなら、自身の動きを試したくもなるだろう?」
まるで心の奥に手を差し入れられたような、妙な寒気が背筋を這った。
俺は咄嗟に表情を取り繕ったが、見透かされたという感覚は消えてくれない。
ヴェルゼの声は、問い掛けというよりは、既に知っている事実の確認のようだった。
「……ああ。正直、不安だった。まだ馴染んでいないような感覚で」
言いながら、自分の拳を軽く握り締める。骨が軋むような音がして、感覚が僅かに鈍い。なのに、力だけは溢れている。アンバランスな感覚。
ヴェルゼは何も言わず、口元だけで小さく笑った。
そして彼が、前方に右手を伸ばす。
その瞬間、空中に奇妙な線のようなものが無数に現れた。線、という表現は正しいのか、太くなったり細くなったりしながら、揺らめいている。
よくよく注視してみると、それは空間そのものに走った裂け目のようでもあった。その向こう側には、別の風景が幾重にも重なって広がっている。浮遊する本棚が無秩序に宙を漂う空間、無数の星々が瞬く深宇宙のような場所、風に草が波打つ果てしない草原、吹雪に包まれた氷の山岳――。現実とは思えぬ世界が次々と目の前に開かれていく。
「これらは地上とは繋がっていない別次元の場所だ。歩き続ければいつかは辿り着くだろうが、今回は少し手抜きをしようか」
ヴェルゼが低く告げる。ならば、今見えている無数の景色は、この地下の異空間のどこかに存在しているというのか。信じ難いが、目の前の光景は嘘ではない。常識という足場は既に瓦解していて原型を留めていない。もう、何でもありの世界だ。
ヴェルゼはそこから一本の裂け目を選ぶと、指先で触れた。
指が触れた瞬間、そこから空間が波のように震え――世界がひっくり返る。
浮かぶ本棚の景色が、まるで霧が晴れるように消えていく。代わって現れたのは、四方を木の板で囲まれた広間だった。
きしむような音を立てて足元が固まる。床は頑丈な木製で、天井付近の窓から取り込まれた陽光が、丁寧に磨かれた床板に反射する。室内にはほのかに木の香りと古い油の匂いが漂っていた。壁には鞘に収められた状態の武器がいくつか掛けられている。見たこともない様式の建築物だが、周囲の様子から判断すると、ここは修練場といったところだろうか。
天井近くから差し込む仄かな光が、修練場の中央に一人の男を浮かび上がらせていた。
彼は何も語らず、ただ無心に木刀らしきもので素振りを繰り返している。肩の力が抜けた自然な構え、迷いのない動作。木刀が空を裂くたびに、重たい風切り音が修練場の静寂を切り裂いた。振るたびに打ち込まれる気の圧がこちらにまで伝わってくる。
右足が床を滑るように運ばれ、踏み込みのたびに乾いた音が響く。年齢はよくわからない。白い長髪をひとつに結び、裾の長い珍しい異民族衣装を着たその姿には、どこか歴史や伝統を感じさせる。赤い瞳に、まるで狐のような白い獣耳という特徴は、確か白狐族という種族のものだったはずだ。
黙々と素振りを続けている。
無駄のない動き。斬るたびに空間自体が僅かに震えるような錯覚を覚える。風が巻くたびに、木刀の先が光を掠める。見ているだけで汗が滲む。
「君のような訪問者を彼の元へ案内するのは、実のところ随分と久しぶりだ。緊張することはない。彼は四代目明滅の魔王アラマサ、つまり彼も私と同じ過去の魔王だ。呼び捨てにしてもらって構わない」
アラマサ、と呼ばれた男の動きが止まる。木刀を収めると、静かにこちらへと歩み寄ってくる。鋭い目が、まるで値踏みするかのように俺を見据えた。
「ヴェルゼ殿、貴殿が直々に案内するとは珍しい。――貴様、余輩の名を知っているか? いや、知らずとも構わぬ。剣の道は名声では語れぬものゆえに」
まるでエリアのような古めかしい喋り方だ。四代目、ということは、エリアが十二代目の魔王から考えると、少なくとも数百年は昔の魔王ということだ。もちろん、その名前も聡明の魔王アンネローゼ同様、ファイドルとの会話で予習済みだった。
「噂ぐらいなら。白狐族で、単純な近距離戦闘力では歴代魔王最強。確か、三代目反逆の魔王イシュルヴァを倒したんだったよな」
「そこのヴェルゼ殿には勝てぬゆえ、歴代魔王最強ではない。とはいえ、概ね間違いではなかろう。名声は求めぬが、今の世にも余輩の名が伝わっている喜ばしいことだ。それゆえに、余輩は哀しい。余輩の末裔らは他の民から離れて孤高に生きておるのだろう?」
「……そうだな」
白狐族は運悪く憂き目にあったとファイドルが言っていた。先代魔王クラディオが何者かに暗殺された際、直前まで彼と共に過ごしていた地霊族族長ファイドルが真っ先に疑われた。潔白は証明できたが、しかし、疑いと批判の矛先は、当時白狐族の族長をしていた青年に向かった。彼はクラディオとファイドルとも仲が良くいつも三人で過ごしていたことから疑われたという。彼は必死に無罪を訴えたが、クラディオが皮肉にも厚く慕われていたことで民衆の批判は止まらず、最終的に内戦にまで発展した。全方位から攻められて、死者はかなり出たらしい。
当時は矢面に立った本人である白狐族族長が耐え切れずに自死してしまったことと、魔王を引き継いだばかりのエリアが事態の収拾を図ったことで、内戦は収まったそうだ。
今は無罪が証明されたが、その件で白狐族は他種族との交流に辟易して、外界との関りを断って誰も知らないどこかの山奥で生活しているという。
「あの内戦は哀しい出来事だった。末裔らが世俗から離れたのも理解できる。しかし、いつまでも過去に囚われては未来を歩めぬ。余輩が彼の世界に干渉できれば、別の結末にもなっただろうが、そうならないのが現実だ。余輩はただの死者で、亡霊で、外から末裔らの結末を見守ることしかできぬ。対して貴様は今を生きる存在だ。己の結末を選び、未来を切り拓くことができる」
真剣な目だった。俺が気圧されていると、横からヴェルゼの声が割り込む。
「すまないが、早く目的を終わらしてもらいたい。彼、エイジは勇者の加護を女神に奪われた。そのため、代わりに私が新たな加護を与えた。以前と同じ条件のはずだが、実際に身体に馴染んでいるかどうか……確認してもらいたい。アラマサ、彼との手合わせを頼む」
ヴェルゼが言うと、アラマサはこちらをじっと見つめていた。視線に敵意はないが、確かめるように俺の奥を見ている気がした。
「俺からも頼む。手合わせを願いたい」
そう口にしたのは俺だった。ヴェルゼに導かれてこの地下世界へと来たのは、自分の力を取り戻すため。そしてその一端として、かつて最強と謳われた魔王との手合わせは、願ってもないチャンスだった。
アラマサはしばし無言のまま立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと片眉を上げた。
「手合わせか。貴様がそれを望むなら、断る理由もない」
その返答に、心が静かに震えた。緊張と興奮が混ざり合う奇妙な感覚。俺が頷きかけたその時、不意に隣にいたヴェルゼが一歩、前に出た。
「その戦いに私が立ち会う必要はなさそうだ。――少し急用ができた。地上の方で不自然な魔力の乱れがあったようだ」
「……今?」
「杞憂で済めばいいが、無視するわけにもいかない。アラマサであれば加減も心得ている、君に危険が及ぶこともなかろう。ここは任せる」
それだけ言い残すと、ヴェルゼの身体がふっと霧のように溶け、音もなく消え去った。何の違和感もなく、まるで存在そのものが無に還ったかのように。あの謎の裂け目を使ってどこかに転移したのだろうか。
俺は少しだけ驚きながらも、アラマサに視線を戻す。
「……すまん。無理を言ったなら申し訳ない。だが、試したいんだ。俺が今どれだけのものを取り戻せたのか。それに……」
アラマサが口の端をわずかに上げた。わかっている、とでも言うように。
「言うな。余輩も貴様と剣をずっと交えてみたかった」
それだけを言って、持っていた木刀を収納魔法かどこかに消すと、代わりに彼は腰の異形の武器に手を伸ばした。
その瞬間、纏っていた彼の雰囲気が変わった。
「……真剣で?」
俺は尋ねた。稽古ではなく、実戦として手合わせをするという意味。場合によっては、命を落とす可能性もある。
だがアラマサは小さく笑った。
「斬り結ぶとは、命のやり取りを指すものだろう。そもそも、木刀ごときで実力が出るとでも思うか?」
その言葉に、俺も笑みを返す。そうだ。俺もまた、戻ってきた力を確かめるには、命を賭けた状況でなければ意味がない。
「最強なんだろ? お手柔らかに頼むぜ」
俺が冗談めかして言うと、彼はにぃっと笑った。
「ならば、首の皮一枚斬るだけで許してやろう」
俺は左腰の鞘から宵闇の剣を抜くと、正中線に沿って構える。あんなに重かった剣がよく手に馴染んだ。しかも、筋力不足でもアダマント製の剣を使い続けたからか、以前よりも遥かに軽く感じた。
アラマサが目を細める。彼の白い髪が風に靡いた。
そのとき、ふと彼の視線が俺の足元に落ちた。
「ふむ……靴のままか」
ふと、自分の足元に目をやる。重たいブーツがきしむ音を立てて、滑らかな木床に乗っている。少し場違いに思えて、俺は慌てて口を開いた。
「あ……すまない。そっちは足袋なんだな。俺も裸足の方がいいか?」
「気にするな。ここもただの修練場ではない。詳しいことは余輩にもわからぬが、この道場自体が魔法術式そのものでな、靴であろうと裸足であろうと一切の汚れも傷も残らぬ。余輩が足袋を履いているのは生前からの習慣のようなものだ。貴様は靴を履いたままで構わぬ」
「そうか……なら助かる。正直、脱ぐ暇なかったからな」
彼は黙って頷いた。
天井の高窓から差し込む光が、ゆるやかな粒子となって宙に漂い、道場の空気を金色に染めていた。静かだった。空気は凛と張り詰め、まるで周囲の時間までもが戦いの開始を待っているかのようだ。
ほんの刹那、互いの間を無音の風が通り抜けた。
「では、始めようか」




