62 初代原初の魔王ヴェルゼ6325
「どこまで続くんだ、これ」
吐き出した声は、濃密な闇に飲み込まれて消えた。まるで音さえも許されない場所だった。足元を探るように一歩ずつ下り続ける。数えきれない段を踏み下ろしても、尽きる気配はない。階段はただ無限のように闇の中へと続いており、俺はその無音の深淵を、手探りの気配だけを頼りに歩き続けていた。
数十分か、あるいは数時間が経ったのかも分からない。陽も月も見えず、時間を知るすべは何ひとつない。景色も変わらず、隣には誰もいない。時間間隔を失うには条件が良すぎる。僅か一瞬のことなのかもしれないし、あるいは、既に外では陽が昇っていてもおかしくない。ただひたすら、漆黒の中を下へ下へと降りていく。
常人ならば狂気に陥っていてもおかしくない。だが、四年間の旅で培った経験が俺を支えた。あの頃は極限状態に陥ることなんてそう珍しくもなく、死地を何度も踏み越え、飢えも孤独も飽きるほど味わってきた。それに比べると、今の状況は命の危険はないため、むしろ精神的に楽な部類にも感じられる。
たが、ひとつだけ懸念があるとすれば――体力の消耗だ。加護を失った今の身体は、目に見えて限界が近い。脚は鉛のように重く、腹の虫が不規則に鳴いている。喉の渇きを癒そうにも、魔力の消費効率が悪いこの空間では水素一滴さえ生み出すことができない。勇者の資格があった頃は、長時間の行動による疲れなんて存在しなかった。
仕方ない。もう少し歩いたら、ひとまず休憩にしよう。
そう考えた、その直後だった。
兆候も何もない現象だった。
階段が唐突に終わり、そこに木製の扉が出現する。まるでこの闇そのものが扉を吐き出したかのようだった。
奇妙なことに、光源もないのに扉ははっきりと視認できる。輪郭が明瞭で、彫刻のように美しく、よくわからない文字が薄く刻まれている。
だが、驚きはしない。エリアの八重魔法でも破れない格子扉や、あの巨大な守護者を見てきたいま、常識などとうに打ち砕かれていた。今さら虚空に扉が現れても些細なもので驚くはずがない。
「狐が出るか、蛇が出るか」
呟きながら扉の前に立ち、深く考えることもなく、ゆっくりと押し開ける。
そして、言葉を失った。
「――――」
絶句。
呟きながら扉の前に立ち、深く考えることもなく、ゆっくりと押し開ける。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
「――――」
図書館。
言葉にすれば、それはあまりにも陳腐で貧しい。だが、視界に広がるこの空間は、常識で想像できる範疇を遥かに逸脱していた。言葉で表すなんてできやしない。
本棚。本棚。本棚、本棚、本棚――!
見渡す限り、果てしなく本棚が存在している。天井も壁も見えず、ただ無限に続く空間を本棚が乱立し、絡まり、複雑怪奇な迷宮のように入り組んでいる。いったいその蔵書はいかほどか、見えるだけでも数十万冊はあるのだろう。その事実を認識した時、理解を拒絶した頭がくらりと揺れた。
俺は本というものを読んだ機会が数えるほどしかないのだが、それは識字が苦手であるというのも加え、書籍自体が高価すぎるからである。
紙の製造に手間がかかるのはもちろんだが、何より写本の手間は尋常じゃない。元となる本から一文字ずつ書き写す必要があるため、だいたい一冊の本を造るのに一カ月もかかるのが常識だ。そう考えると、眼前の光景は信じがたい。人族全員が作業したとしても、軽く百年はいるだろう。全世界に存在する書籍を一度に集めたかのような光景だ。
それに、ここの構造も異常である。
これを何と表現すればいいのだろう。
ありえない。
全ての本棚が――浮いていた。
規則など存在しないかのように、空間を自由に滑り、ゆっくりと旋回し、あるいは突然止まり、また動き出す。重力を無視した空間の中で、それはあたかも巨大な生物の群れのように、有機的な動きを見せていた。無数の蝋燭の灯りが宙を漂い、淡い金色の光が本棚の影をゆらめかせる。どこからともなく響く幻想的な弦楽の旋律が、空間に一層の深みを与えていた。
本が――飛んでいる。
一冊の書がぱらりと頁をめくりながら空中を舞い、別の棚の空いた隙間にすっと収まる。意思を持って踊っているようだった。
足元には床すら存在しなかった。ただ、下方にも本棚が無数に並び、ゆっくりと蠢いている。上下の感覚さえ崩壊し、この空間が三次元で構築されているとは到底思えなかった。
理解が追いつかない。思考が拒絶を始める。それまで信じてきた現実がばらばらになる感覚。
目を背けたくなるほどの光景だが、それでも目を逸らすことができなかった。
「はっ、はあ……」
ようやく呼吸を思い出し、膝に手を置いて息を整える。意識が薄れかけていた。
けれど、止まっている場合ではない。俺には先へ進む目的がある。
そんな俺の考えが伝わったのか、忙しく動き回っていた本棚がぴたりと制止し、そして左右にずずっと移動する。そしてこの上を歩けと言わんばかりに、足元に新たな棚が降下してきて、一本道を作り出す。
「……行ってやるよ」
どうやらここの主は俺という異物を歓迎しているようだった。
敵意はまだ感じられない。
ただ腰の剣をいつでも抜けるように警戒しながら、前へ進む。と、俺が通り抜けた後方で本棚が再び動き出し、道が塞がる。逃げ道を失ったが、覚悟は決めているから心配ない。
騒然と並んでいる本棚を眺めながら進んでいると、ふと景色が変わった。
少し開けた空間に、応接間に置いてあるようなテーブルが鎮座している。
向かい合うように設置されたソファーの片側に、一人の青年が座っていた。
優雅にティーカップを傾けていた『彼』の瞳が、俺の姿を認めた。
「ようこそ、ここ『秘逃禁書庫』へ。あらゆる答えが集約されし、魔王の箱庭だ」
その声は深淵の水面に落ちた雫のように静かで、けれど確かに空間を震わせた。星々が瞬く夜空を思わせるような、そんな気配を纏った青年だった。
黒い髪に、黒い瞳。硬くて脆い黒曜石のように深いその瞳は、どこかすべてを見透かすような冷たさと、同時に凪いだ湖面のような穏やかさを湛えていた。
しかしその装いは、それとは対照的だった。煌びやかな銀の装飾が施された純白の衣。それは、少し前の勇者だった俺を思わせるような、荘厳な装いだった。
彼はカップをそっとソーサーに戻し、口元に淡い笑みを浮かべた。
「立ち話も無粋だ。座るといい」
「……ああ」
手と言葉で促され、俺は彼と向かい合うように椅子に腰を下ろした。椅子は思いのほか柔らかく、身体の重さをすっと受け入れてくれる。しばし沈黙が満ちる。眼前の男は、やがて姿勢を正し、ゆるやかに口を開いた。
「では、まずは私の名乗りを。私はこの禁書庫の管理者、ヴェルゼという者だ。久方ぶりの来客でな。時が許す限り存分に過ごしていくといい」
「ヴェ、ヴェルゼ!?」
予想外の名前に、いや予想はしていたのだが突然の名前に、声が裏返る。
道中でファイドルの会話で何度も出てきた名前。
――初代原初の魔王ヴェルゼ。
大地を浮かべ、火山を凍らせ、空を裂いたなんて逸話もある千年前の魔王である。
ただ、名乗ったからといって素直に信じられるとは限らない。
「……本当に初代魔王なのか? というよりそもそも魔族かどうかも怪しい。あんたの瞳は黒色だ。魔族は全て赤色の瞳をしていると今まで信じてきたんだが」
「その通り……と断言したいところだが、困惑するのも無理はない。名乗ることは誰にでもできることだから。私が魔族か否か、という点については、限りなく曖昧な立場にあるとしか言いようがない」
ただ、名乗ったからといって素直に信じられるとは限らない。
「……曖昧とは?」
「たとえば、魔人族は瞳の色が異なるだけで、人族と何ら変わらぬ身体能力しか持たない。白狐族に至っては、特殊な魔法により外見を隠し、人族と見分けが付かなくなる。つまり、魔族と人族の線引きなど曖昧なものだ。あえて定義するなら、体内に魔石を宿すかどうかであり、その点だと、私は瞳が黒色でありながらも魔族である。ただし、私が初代魔王であるのを証明証明する術は存在しない。信じるかどうかは、訪問者次第だ」
「……ああ、とりあえず信じるよ」
言葉ではそう答えながらも、胸の奥にひっかかる違和感は拭えなかった。彼の外見もそうだが、なにより――強さを感じない。
魔界で旅をしていた時も、ヴェルゼという魔王の伝説は何度も聞いてきた。内乱状態だった多くの種族をたった一人で纏め上げ、今の統治された魔界の基礎を築いた人物。最高の個人戦力を持ち、災害とも呼ばれる龍種を四体も飼い馴らしていたとか。まあ数百年程度では収まらないほど遥か昔のことであるから誇張されていることはあるかもしれないし、ファイドルの話では実在していたのかも怪しいと言っていた。どちらにせよ、本当に存在したのならば、かなりの実力を持っていたのには相違ない。
なのにも関わらず、眼前の初代魔王を名乗る青年は強そうに見えなかった。どんなに気配を殺そうとも、実力に優れた者は相対するだけで強さが伝わってしまう。圧倒的な武威。殺気ではない、存在そのものから滲み出すような力の痕跡。だが、目の前の青年からは、それがまるで感じられない。今の俺でさえ、容易く勝ててしまうのではないか、という錯覚さえ抱く。
そんな思考が表情に出ていたのだろう。青年は、肩を竦めて苦笑した。
「……信じていないようだな。構わん。弁解のようになるが、ここにいると私は生命力に似た何かを、徐々に失っていく。ゆえに、存在を少しでも長く保つために、こうして気配を断っている。それを何と言ったか……そう、省エネ、だったか」
「よくわからないが、あんたは本当に初代魔王ヴェルゼなんだな?」
彼は頷いた。とても信じることは難しいが、信じるに他ならない事情があった。
魔界において加護というものは、神格化された歴代魔王が一度にたった一人という条件で与えるらしい。しかし、既に神格化している八人のうち七人が加護を与えていると観測しているらしく、残っているのは初代原初の魔王ヴェルゼただ一人という。
つまり、彼が本物であると信じなければ、俺は目標を達成できないのである。
「なら、初代魔王らしいあんたに頼みたいことがあるんだが」
「そなた、エイジの状況については把握している。女神から加護を奪われ、苦境にあるのだろう」
「……俺の名前を知っているのか?」
「知っているとも。そなたのことは、ずっと観察してきた」
「観察していた?」
俺が疑問符を掲げると、ヴェルゼはどこからともなく水晶玉のようなものを取り出してテーブルにゆっくりと置いた。
水晶、であっているのだろうか。ここへ来るために使った鍵のような神々しい虹色で透明感のある独特の輝きを持つ球体だ。大きさは俺の頭よりも少し小さいぐらいか。
しげしげと俺が眺めていると、球体の内部で微かに光が脈打った。
その脈動はまるで呼吸のように、穏やかに、しかし確実に拡がっていく。そして球体の中心に、一滴の墨を垂らしたような暗い影が生じ、それがゆっくりと内側から広がっていく。光と闇がせめぎ合うように、球体の内部で万華鏡のような景色が生まれては崩れ、また再構成される。
緩やかに回転しながら浮かび上がった映像の中には、本棚――それもこことは異なり、より小規模な私室のような空間が広がっていた。壁に沿って並べられた書物、机の上に置かれた魔導具、静寂を纏う室内。そこに、一つの影が素早く動き回っていた。
「これがどうした?」
俺が怪訝に尋ねると、ヴェルゼは失念していたといった顔を浮かべた。
「……すまない。倍率の調整を失念していた」
ヴェルゼが水晶に指先で触れる。刹那、内部の映像が一変する。目まぐるしく拡大と収縮を繰り返し、やがて像が定まった。水晶の中で動き回っていた黒い影が、目に見えて緩慢なものになり、次第にはっきりと輪郭を持ち、姿となって現れてくる。じっと目を凝らしていると、その影はテーブルの横で制止した。そこで初めて黒い影の正体が明確になる。
「――エリア!?」
思わず叫んだ。
そこにいたのは、どう見てもエリアだった。。漆黒の髪、黒い装束――その身なりさえも暗色に染めた彼女が、まるで夜そのものを纏った存在のように見える。彼女は静かに机に向かい、父が遺した手帳と思わしきものを開き、何かの作業に集中している。
「どっ、どうなっているんだ!? エリアは一緒に来ていないはずだ。なぜ彼女が水晶玉の中に閉じ込められている!?」
「閉じ込められているわけではない。……そうだな、この場所の仕組みを説明しよう。秘逃禁書庫は千年前に造られた概念装置だ。外界とは隔絶され、異なる時間軸に属し、すべての物理法則が無効となる。端的に言えば、三次元と四次元の狭間……夢の中に近い空間だ。ここでは老いも死も存在しない。概念として再構築することもでき、神の如き力を振るうことさえ可能だ。情報も全て集約される」
ヴェルゼは示すように周囲で浮遊する本棚を見渡してから、言葉を続けた。
「だが、この空間は君たちの世界とは別であるからこそ、君たちの世界を観察や干渉することが不可能だ。そこで登場するのがこの水晶玉だ。これはワームホールという概念を具現化した一品で、魔王の加護が与えられた者を媒介とすることで、外の景色をこの空間に投影することができる。君の場合は十二代目などを起点として、観察をさせてもらっていたわけだ。もっとも、別行動中である場合は見ることができなかったがな」
「お、おお……よくわからないが、つまりこれは外の景色を映すってわけだな」
「端的に纏められたようだが、私の話を理解してもらえたようで何よりだ」
理解はできていないが、納得はした。
つまり、そこにいるエリアは本物ではなく、実際にいるエリアの姿を映しているのだ。細かく考える必要はない。ただ、水晶は外界の景色を映す、そうとだけ納得すればいい。
再度、顔を近付けて覗き込むと、水晶玉の中にいる小さなエリアは魔法の練習をしているようだった。突き出された右手からきらきらした何かが迸り、次の瞬間、氷の結晶みたいなものが出現して、こてりっとテーブルに落ちた。微細な氷は、周囲の光を受けて星雲のような反射を見せた。儚く、美しく、そして何よりも――鮮やかだった。
父親の氷結魔法を再現できたようだ。しかし、エリアと別れてからまだ一日も経ってないはずなのだが、そう簡単に新たな魔法を習得できるものなのだろうか。
疑問に思ったが、それよりもこれが外界の人物を投影するなら、ひとつ気になることがあった。
「難しくなければなんだが……、少し見せて欲しい人物がいるんだ。俺の仲間二人っていまどこにいるか見ることはできるのか?」
「問題はない。初めての対象には調整が必要だが、君たちの観察は以前からしていたゆえにすぐ終わる」
またもやヴェルゼが水晶玉に触れると、エリアの執務室が水へ溶ける絵の具のように原型もなく崩れ、そして再構成される。黒と赤のだけのコントラストは夕焼けが差し込む、どこかの深い森だ。その中心に白く長い髪を靡かせた青年がいた。
「ソラカゲ……」
思わず漏れ出たのは、青年の名前だった。




