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リメイク中作品  作者: 沿海
3章 憎しみは真理にあらず
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58 過去の真実8264

 落ちる滝が衝撃波を散らす隣で、ファイドルの声が響く。

「あいつの強さの秘密は誰も知らなかった。聞いてものらりくらりとはぐらかし、俺でさえも教えてくれなかった。だがちょうど六年前のことだ。俺が種族間会議で魔王城へ訪れた日の夜、あいつは俺を執務室に呼び出して、何があったのかを語った」

 ファイドルの声は、湯けむりの奥から響いてくるようだった。背中に感じる寒気はまだ消えない。

 視線の先では滝が流れ落ちている。ごう、と重々しい音を立て、巨岩を砕くように水が落ち続ける。その衝撃が湯面に波紋を生み、俺の身体を静かに撫でるように揺らしていった。

 ファイドルは静かに言葉を連ねる。

「いわく、歴代魔王に連綿と受け継がれる『鍵』がある。いわく、その鍵はとある場所の入口を開くためにある。いわく、その場所では過去に死んだはずの歴代魔王と会うことができる。いわく、そこには存在しないはずの歴史を纏めた書物がある。いわく、古の大戦で失われた魔法も学ぶことができる。いわく、いわく、いわく…………。頓狂な話だと思ったさ。だが、クラディオは嘘を付くような奴ではなかったし、何より、あの氷結魔法なんてものを見せられたら、嘘だと断言することなんてできなかった。そして、その話をどう受け止めるべきなのか悩んでいた俺に、あいつは渡してきたんだ。その『鍵』とやらを」

 湯けむりの向こうで、ファイドルが自身の首元に手をやる。その指先から垂れるようにして現れたのは、小さな鍵――ネックレスの先に結ばれていた。それは『鍵』と呼ぶにはあまりにも神秘的だった。

 構造的には普通の鍵だ。しかし、材質は一目で尋常ではないと分かる。金属とも水晶ともつかない質感で、内部を透かすような透明感があり、なおかつ虹色の光がごく微かにきらめいていて、見る者にどこか神々しさを与える。

 ファイドルはその神秘の鍵を、湯に浸かる俺の目の前へと差し出す。 俺は反射的に手を伸ばした。だが、指先が触れる寸前に――ファイドルの手がすっと引いた。

「……まだ話は続く」

 低く、含むように言うと、ファイドルは再び鍵を首に掛けなおした。湯けむりがその動きをぼんやりと覆い隠し、まるで夢の中の出来事のようにさえ思えた。

「俺は疑問に思ったわけだ。なぜ今更そんな話を俺に、なぜそんな大切な『鍵』を俺に。しかし、その翌日に疑問は解消される。魔王城の執務室で見付かったのはクラディオの死体。何者かに暗殺されたようだ。ただ、その直前まであいつと会っていた俺は、その犯人として疑われたわけだ」

 はっとした顔で俺はファイドルの顔を見た。確かに、ファイドルがエリアの父親を暗殺した犯人だとして疑われたという話は俺も知っている。だが、詳しい話を聞きたくても、エリアにもファイドルにも訊ねてもいいのかわからず、当時に何があったかまでは知らなかった。

 何て相槌すればよいのか考えあぐねている俺とは対照的に、ファイドルは淡々と続きを話す。

「結局は直後にエリア嬢ちゃんが魔王の座を引き継ぎ、俺の容疑を晴らしてくれたわけだが……つまり、あいつは自分の命が狙われているのを知って、俺に大切な『鍵』を預けたんだろう。そして、エリア嬢ちゃんに渡さなかったのは、お嬢が当時はまだ十歳の少女だったからで安心できなかったからだろう。まあ、今になっては真実は闇の中。どうだっていいさ。しかし、たぶんだが俺はこの『鍵』を預けられただけであり、正当な継承者じゃない。本当に保有すべき人物は今代の魔王であるエリア嬢ちゃんだ。だから俺はこれを小僧ではなく、まずはお嬢に渡すつもりだ。すまんな」

「あ、ああ……それはいい、大丈夫だ」

 そう答えた時、自分の声がやけに遠く感じた。

 湯に包まれた身体は、表面の皮膚こそ温かいのに、胸の内側では氷のようなものが静かに沈んでいた。

 しかし、まさかそんなことがあるなんて。俺はファイドルの話を信じ切れていなかった。

 だが、それでも確かに何かが繋がり始めていた。

 この世界には、神が実在している。俺自身もこれまでに人界の女神と二度、直接会ったことがある。そして確か、エリアの話では――魔界では歴代魔王が死後、神になるのだと聞いたことがある。もしそれが事実ならば、彼らは数百年前に生きた存在であり、今では失われてしまった知識や魔法を知っていてもおかしくはない。問題は、そんな彼らが本当にこの世界にいるのかどうかだ。もし天界や異世界にいるのなら、こちらから接触する手段はない。

だが、彼らと会ったと主張する氷結の魔王クラディオが、存在しないはずの魔法を本当に使っていたのだとすれば――死した歴代の魔王がどこかに存在し、何らかの手段で会うことができる可能性を示していた。

 俺は聞いた話の要点を、確かめるように纏める。

「つまり、先代魔王クラディオは……その謎の『鍵』を使って、謎の場所で謎の人物に会って謎の能力を身に付けた。もしかすれば、魔王がいるかもしれないから、俺が行けば加護を手に入れられる可能性がある。そしてその『鍵』の所有者は本来ならばエリアであるべきだから、あんたはそれをエリアに渡す。俺はエリアと共にその場所へ向かえばいい、ってわけだな」

「ざっくりだな……。まあいいか、だいたいはそんなもんだ。でだ、この『鍵』をどこで使えばいいのか、俺はクラディオから聞いていない。あいつはこの鍵をどうすればいいのか何の説明もせずに死にやがった。だから、エリア嬢ちゃんが何か思い当たることを頼りにするしかない。……まったく、役に立たねぇ鍵だ」

「……ん? 今更だが、前の攻防戦であんたはエリアと会っただろ。その時に渡せばよかったじゃないか」

 気づいてしまった矛盾を、俺は自然に口にしていた。だがファイドルは特に驚くでもなく、軽く首を竦める。

「それもそうだが……必要なかっただろ。あの時のエリア嬢ちゃんは、魔力は少なくなっていたみたいだったが、それでも強かった。識の範疇にないあの魔法を見せられたら……なあ? これが必要になったら渡すつもりだってな考えていたさ。そして、お前が困っている今がその時だろ?」

 その言葉に、俺は素直に頭を下げた。

「……ありがとう。助かる」

 湯の中、俺の声が湯気に溶ける。ファイドルは照れくさそうに鼻を指先で掻きながら、ぶっきらぼうに応じる。

「ああ、なんだ、そんな畏まるなよ。……さて、そろそろ熱くなってきたな。上がるか」

 ざばり、湯をかき分けてファイドルが立ち上がる。長身の影が湯気の向こうに消えていく。俺もその後を追い、ゆっくりと温泉から上がった。なるほど、話にうつつを抜かしていたから気付かなかったが、だいぶのぼせていたようだ。頭に血が上り、少しくらくらしている。

 よくもまあファイドルはこんな温度の湯に浸かってふらつかないものだな、と考えながら、呼吸を整えて、無詠唱で水素を呼び出して口に含み、残った水を全身に掛ける。冷気が肌に触れ、火照っていた身体がようやく落ち着いた。深呼吸を一つ。これで大丈夫だ。

 最後に背後の滝を一目だけ見ると、俺は温泉を後にして、患者服へ素早く袖を通す。今更だが、とてつもない火傷を負っているはずの左手は湯の中でも滲みなかったし、ゆっくりと動かしても痛みはない。俺の身体が特殊、というより、ファイドルが塗ってくれていた薬が凄いのだろう。どれだけ高性能だったんだ、あれ。

 脱衣所で患者服に袖を通すと、そこにはすでに両腕を組んだファイドルの姿があった。

「出てきたか。それで小僧、何が食べたいか言え。病み上がりだ、俺が払ってやる」

「……いいのか?」

 内心驚きながらも問い返すと、彼はふんと鼻を鳴らす。

「これでも族長だからな。使う道がない金がどんどん溜まっていく」

「なら、肉が食べたい」

 大きく頷いたファイドルは言葉もなしに、しかし、くいくいと指で俺を促す。そのまま足早に歩き出した。

 またもや多種多様な種族の喧騒に飲まれながら、まるで祭りが起こっている最中のような通りを俺は進む。ファイドルは大股で歩くから、人族である俺は早足でなければ追い付けないが、それでも彼の広く高い背中は卓越して目立つから見失うことはなかった。

 俺という異物に対して、再び好奇の眼差しが向けられる。じろじろとした視線。人族は珍しいのだから仕方ない。こうやって簡単にわかってしまうのだから、魔界で旅する時はポンチョ型のローブで目元と耳元を隠していたのだ。

 ただ、稀に向けられる好奇の目の中に、別種の視線が混じっている。はっと何か思い当たるような表情。俺もどこか彼らを見た覚えがある。たぶん、先の攻防戦で俺とファイドルが戦っていた時に、周りで観戦していた地霊族だろう。俺が僅かに会釈をすると、あちらも会釈を返してきた。これだと、ここに俺が滞在しているという事実は簡単に広まることだろう。仕方ない。

 目まぐるしく変わりゆく環境に俺が流されていると、ファイドルが急に立ち止まった。

「ここだ。ここなら小僧のリクエストにも応えられるし、何より待ち合わせに指定した場所だからな」

「――待ち合わせ?」

「そんなことはどうでもいい。入るぞ」

 無造作にファイドルがずかずかと入っていったのは、小さな食堂だが、置かれている調度品を見ると高級店らしい。壁には繊細な模様の装飾が施され、照明は控えめながらも温かく、ゆったりとした時間の流れがあった。対応に出てきた店員は、男は執事服を着こなし、女は確かメイド服だったかを身に纏っていて、その格の高さを漂わせている。店前はあんなに熱気で溢れていたのに、店内は他に一人も客がいないから、ここは族長個人のためにあるものなのか、それとも賓客を待遇するためにあるのか。そんなところだろう。

 ファイドルが広いテーブル席に腰を下ろし、俺も向かいの席へと座る。その様子を見て、執事が丁寧に頭を下げる。

「とりあえず、作れる限り料理を持ってきてくれ。支払いはいつも通りでな」

 執事服を着た店員が店奥に消え、食材を切り分ける音が聞こえる。今から作り始めるのだったら、まだ時間はありそうだ。それならば、聞きそびれていたことを尋ねる。

「ところでなんだが、エリアのお父さん……先代魔王が暗殺されたって話、その後はどうなったんだ? 魔族の長である魔王が暗殺されるなんて大問題だ。何もなかったなんてないだろ?」

 その問いに彼の顔から笑みが消えた。ファイドルは何か重要な話をするかのように、テーブルに身を乗り出した。

「ああ、もちろんだ。……俺に掛けられていた魔王暗殺の疑いは、エリア嬢ちゃんによって晴らされた。だがな、あんなに俺を犯人だと決めつけていたはずの元老院の連中は、まるで掌を返すように――今度は、白狐族の族長を犯人に仕立てやがった」

テーブルの上に置かれた拳が、わずかに震えていた。まるでその言葉が、時間を巻き戻して過去の怒りを再燃させたかのようだった。

「奴らは……あっという間に決めつけた。俺の親友でもあったその男は、真犯人を探す間もなく追い詰められた。後ろ指を差され続けた彼は、ある夜……静かに自ら命を絶った」

 言葉の最後は、喉の奥で潰れた。ファイドルの声が割れ、拳がぎり、と音を立てる。

「……俺は、親友を二人も失ったんだ。何もしてやれなかった」

 かっと目を見開いたファイドルの視線には、悔恨と怒りと、そして深い悲しみが混在していた。まるで押し殺してきたものが堰を切ったかのように、彼の中から感情が溢れ出してくる。その目付きは針よりも鋭く、滲み出る殺気が周囲の空気を揺らめさせている。それは行き場のない感情をどこにぶつけることもできず、ずっとふつふつと溜められてきた火山のようだった。

 俺は言葉を選びかけて、しかしそれが無意味であることを悟った。ただ静かに、そっと頭を下げる。彼の心に触れないように、だが無視もしないように。

 ファイドルは、そんな俺の反応にも構わず、話を続けた。

「怒った白狐族の民は、他の魔族たちに対して宣戦布告した。対して他の魔族は魔王ファイドル暗殺の報復として白狐族の村を攻めた。俺は当然、無実の白狐族の味方に付いたが……数は圧倒的に劣っていた」

 その言葉と共に、ファイドルの目がどこか遠くを見詰める。

「半年に及ぶ内戦。多くの魔族が命を落とし、白狐族の村は――半壊した。エリア嬢ちゃんが止めなければ、今でも争いは続いていただろう」

 言葉の端々に、くぐもった激情が混じる。

「その後もだ。聖人とまで称えられた先代魔王を失った民衆の怒りは、次なる標的を探し始めた。蜥霊族……あいつらが次に犯人とされ、また争いが始まった。もはや、真犯人など誰も求めていなかった。皆ただ、憎しみのはけ口を探していたんだ。くだらねぇ……大義も正義もない負の連鎖は続き、蜥霊族は自分の村を失った」

「蜥霊族の村が……失われた?」

 その一言に、俺の胸が鈍く疼いた。

 シレミスの村――俺の生まれ故郷が滅びた時、攻めてきたのは確かに蜥霊族だった。だが、その動機にはずっと疑問があった。なぜ、あの過酷な山脈を越えてまで攻めてきたのか。命を投げ打つような行動だった。

 ――その理由が、ようやく繋がった。

 彼らは、帰る村を失った。行き場のない怒りと悲しみを背負って、ただ生きるために、人界へ向かうしかなかったのだ。生き延びるために、誰かを踏みつけるしかなかった。だから、俺たちの村を――。

 俺の拳がわずかに震えた。だが、怒りではなかった。それは蜥霊族の選択に対する、どうしようもない哀しみとやるせなさだった。

 そして、その連鎖の始まりが――先代魔王の暗殺。

 俺が過去の真実に辿り着くと同時に、ファイドルは眉間に深い皺を刻みながら言葉を吐き出した。

「前に話をしただろ? 俺がコズネスを攻めたのも、部下が拾ってきた情報――エリアがそこに幽閉されているという噂が原因だった。だがな、そいつは情報源を最後まで明かさなかった。そして戦の後、忽然と姿を消した。消されたのかはわからんが、裏で誰かが糸を引いてる可能性がある。そして、魔王の騎士クルーガもだ。小僧らの話を聞くと、奴の行動には不可解な点が多すぎたし、明らかに誰かからの指示を受けていた。これらは、別々の事件じゃねぇ。全部、繋がってる。そう考えるべきだと、あの時も話したよな?」

 言葉の終わりにかけて、ファイドルの低い声に微かな熱が帯びてくる。憤りとも焦燥とも付かぬそれは、ただの憶測ではないと確信している男の重みだった。俺は深く頷いた。

「ああ」

「あの後、少し考えたんだが、タイミングがおかしいんだ。クルーガはエリア嬢ちゃんが家出する直前まで魔王城にいた。ということは、奴に指示を出した黒幕もその近くにいたってことになる。しかし、その一週間後には俺たちの村で、エリア嬢ちゃんがコズネスにいるという噂が流れた。距離を考えろ。魔王城からコズネスまで、普通に旅すりゃ数年は掛かる」

 そこでファイドルは言葉を中断させた。厨房から鍋を振る音が響いた。香ばしい匂いが一気に流れ込んできたが、ふたりの間に生じた沈黙には、容易に割り込めなかった。

「つまり、情報を伝えた者は、物理的な制約を受けてないってことだ。複数人が各地で同時に動いていて、瞬時に情報の共有ができている。もしかすれば、相手は組織で行動しているのかもしれねえな?」

「……っ!」

 言葉が出なかった。事実が、じわじわと形を成していく。黒幕は、一人ではないのか?

 だとすれば、相手はどれほど深く、どれほど広く根を張っているのか。俺たちは、その蜘蛛の巣の上で踊らされているのかもしれない。

「それに気になることもある。魔王暗殺事件での元老院が行った対応、それに民衆の動きもきな臭え。まるで打ち寄せた波が引き返すように、俺から白狐族から蜥霊族へ冤罪が移り変わっていった。これも何者かが裏で糸を引いてる可能性もある。魔界でかなりの権威が与えられていたクルーガでさえ何者かの手に落ちていたんだ、もはや誰も信用できねえな」

 ファイドルの声には、怒りよりも警戒が滲んでいた。彼の言葉はひとつひとつ重く、吐き出すたびに、まるで胸の奥に沈殿していた泥がかき混ぜられるようだった。

「だから、小僧。改めてもう一度だけ忠告しておく。俺たちの知らないことが水面下で起こっているわけなんだ。エリア嬢ちゃんが狙われる可能性はほぼ確実だ。小僧が絶対に護れ」

「あたりまえだろ。っというより、加護を失っている今は、エリアの方がずっと強いぜ」

「ははっ、その通りだ! 違いねぇ!」

 ファイドルが手を叩いて笑う。冗談のつもりではなかったのだが、妙に笑壺へ入ったようだ。まあ先程までの険しい顔じゃなくなったのだからいいか。俺も彼も深刻になりすぎていたのかもしれない。

 そんなことを考えていると、テーブルの上に料理が並べられ始めた。話が途切れるのを待っていたのだろう、完成されていた様々な料理が置かれる。温かい香りが鼻腔をくすぐり、空腹が急に意識へ上ってきた。

「来たか。食え、俺も食う」

「……あっ、ああ」

 卵焼きに野菜炒めといった軽いものから、もちろん肉の串焼きやステーキもある。ファイドルは、彼の手には小さすぎる気もするフォークを掴むと、それで肉の塊を突き刺して大口で食べ始めた。遠慮することはない、ということか。

 俺もナイフで謎肉ステーキを切り分ける。左手が使えない、つまりフォークが使えないから切り分けるのが少し難しかったが、口内に放り込んで噛み締めると、じわっと肉汁が溢れ出す。野性味が強く、筋は固い部類だが、不思議とクセはあまりない。何の肉だろうか。食感的には野山羊で、味覚的には野兎で、嗅覚的には野牛と、それぞれが別の感想を主張する。正解が知りたいところだが、美味しいのだから問題ないだろう。

 先ほどまでの会話を忘れたわけではなかった。ただ、寝たきりだったらしい俺が数日間も食事をしていなかったのも事実だった。腹が減っては戦もできぬ、という諺もあるし、これからに備えて腹を膨らましておくべきだろう。そんな言い訳をしながら、黙々とステーキを腹に収める。

 皿を空にすると、次にジョッキへ手を伸ばした。珍しい。硝子のジョッキか。地霊族は職人が多いと聞くから、これも特産品であるはずだ。透明な容器に金色のエールが注がれていて、立ち昇る泡が見えてとても美味しそうだ。ぐびり、とまずは一口。美味い。ただ飲み過ぎには注意しよう。加護を失って、酔いやすくなっているはずだから。

 ステーキの油分をエールで完全に洗い流すと、新たな料理に矛先を向ける。細長い棒のようなもので、見たことがない。たぶん伝統の料理なんだろう。ファイドルの方を見ると、フォークを使っている様子はないから、俺も手掴みでそのまま噛じる。

 さくりっとした軽やかな音と共に、歯が刺さる。中はぷりぷりしたエビとしゃきりとしたタケノコ、間を満たすダシが良い味をしている。美味い。エールとの相性がよく考えられた逸品だ。そして、そのままでも美味いのだが、一緒に運ばれてきた白や赤色のソースを付けても美味い。白のソースは味を適度に優しくし、ピリッとした赤色のソースは少し中毒性がある酸味だ。口内に運ぶ手が止まらず、次の料理に移るまでに八本ほど食べてしまった。ファイドルには申し訳ないが、そろそろ満腹になり始めてきた。

 さしあたってエールジョッキを空にしつつ、そして、次なる料理に手を伸ばす。

 ――伸ばしたのだが、その指先が別の皿に触れることはなかった。

「エイジッ!」

 俺の名前を鋭く呼んだ黒いもふもふした物体は、入口からつかつかと脇目も振らず俺まで一直線まで来ると、その勢いのまま飛びかかってきた。

「エリア!? どうしてここに……」

「わっ、わらわは、妾は!」

 言葉にならない言葉が、震える声で零れる。その肩が震えていた。俺は何も言えずに、ただその小さな背を手で擦り続ける。彼女が何を思ってここに来たのか、何を感じて、こうして涙を流しているのか――俺は理解しなければならない。とりあえず、エリアの震えが止まるまで、ただ静かに寄り添い続けた。


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